2017年11月06日版:鳥澤 健太郎(会誌/出版担当理事)

  • 2017年11月06日版

    「激変する研究のフィールドと論文」

    鳥澤 健太郎(会誌/出版担当理事)

     二十うん年前に専門の自然言語処理の研究を始めたときには、自分の技術の商用化なぞ自分の定年まではないと思っていた。ところが、気がついてみれば、そんなのんびりしたことを言っていられる時代ではなくなってしまった。最近、打ち合わせの相手といえば、民間企業の事業部門や役所、弁護士である。もちろん、これは、各種技術の大幅な進化、利用可能なデータの飛躍的増大、おまけに昨今のAIブームのおかげ(せい?)である。これらについてはあちこちで書かれているので、これ以上は書かない。ここで書きたいのは、日本の研究者コミュニティがこの大波を乗り切れるか否かである。もし乗り切るのに失敗すれば、乱暴な言い方にはなるが、日本の研究者コミュニティは本当に基礎的「教育」しかやることがなくなるのではないかと危惧している。

     さて、この大波を乗り切るのに何が必要か? むしろ、何が不要なのかと言った方がよいのかもしれないが、まず問いたいのが大学の論文至上主義である。筆者がおよそ10年前に大学教員から当時の独立行政法人に移籍する前、教授になるにはこのぐらいの本数の論文を出版してないとね、といった話はよく聞かされた。自分でも一生懸命書いたし、それなりに書いたつもりである。また、もちろん、今後も書くであろう。しかしながら、最近、正直思わざるを得ない。論文を書かなくても、そこに書くべきアルゴリズムなり方法論なりを実装したシステムが世に出て、人様の役に立てばそれでいいのではないか、と。実は現在、対話システムの開発を進めているが、対話システムが非常にホットな技術でありその進化も早く、やるべきことは山積みで、特許は出すが論文を書く時間がない。また、災害時のTwitter情報を分析するシステムも一般公開しており、九州北部豪雨では大分県庁で活用していただき、鉄橋の流出を鉄道会社よりも先に検知するといった実際的な成果も出た。これは、何人もの研究者が、日本中を行脚してデモを行い、自治体の防災訓練に参加してシステムの使い方に習熟してもらうといった「いわゆる研究」とはいえない活動があって初めて実現した。一方で、このシステムもなかなか論文を書く時間が取れない。もっと言えば、システムの開発や普及が論文執筆でスローダウンして、災害のときに救える人が救えなかったら本末転倒である。さて、こうした場合にどうすべきか、もちろん、確定した回答はないが、実用化、商用化を念頭においたプロジェクトやベンチャーでは大きな問題ではないかと思う。

     で、大学の論文至上主義である。もちろん、研究者コミュニティはアイディアの交換があって初めて成立するので論文は必要であるし、研究者の価値は多くの場合論文で測られるべきというのはその通りかと思う。また、特に大学院生等の若い研究者は論文を書く際にアイディアの本質を突き詰めて表現し、他の研究者、特に査読者を説得するという経験からは多くを得ることができる。しかしながら、あまりにそうした原則に拘泥すると機会損失をもたらすのではないか? たとえば、自治体にシステムを普及するためには大学の研究室にいるだけでは分からない物の見方、ノウハウを十分にもっていなければならない。自治体にシステムを普及はさせたが、論文を書く時間がなかった研究者が大学に行かないとすれば、そうしたノウハウは大学には行き渡らず、大学と自治体の双方が損失を被り得る。先進的システムを実用化した研究者がやはり論文を書かなかったが故に大学に行かないとすれば、その研究開発における気づき、スリリングなハックの経験、面白さを学生に伝えることもできない。さらに過激なことを言えば、今、研究者コミュニティを支えている大学が、そうした先進的システム開発、普及のノウハウを持てないとすれば、その大学が支えている研究者コミュニティは、さまざまな企業や組織がイノベーティブなシステムをどんどん商用化していく中でどのような存在意義があるのであろうか? シリコンバレーではもはや技術の実用化に至る「死の谷」はないという話も聞くが、ひょっとすると、これもコミュニティやそれを支える制度に強い関係があるかもしれない。回答、反論が多数あることは承知であるが、あえて過激な質問を最後にして筆を置きたいと思う。