Vol.62 No.8(2021年8月号)



Vol.62 No.8(2021年8月号)

 「Q9. 100年後のコンピュータ科学はどんなことを研究しているの?(Vol.60 No.1)」掲載後に,本会元会長である長尾真先生よりメッセージをいただきました.これを元に小特集を組みたいという要望がありましたが,実現できていないまま,このたび長尾先生の訃報が届いてしまいました.
 長尾先生からのメッセージを掲載するにあたって,Q9の回答者からも再度メッセージをいただきました.みなさんが未来を考える上でのヒントになれば幸いです.

長尾真先生からの「100年後の情報科学について」のメッセージ

 会誌「情報処理」2018年1月号には「私たちの未来」という小特集がある.同じ2019年1月号連載「先生,質問です!」には「100年後のコンピュータ科学はどんなことを研究しているの?」という質問があって,いろんな回答が出されているが,せっかくのこの2つの記事に関連性がまったくない.もう1つの問題は,純粋科学は未知のことの解明だから何をしてもよい(?)が,それを超えた世界,つまり工学の世界にはやってよいことと,やってはならないことがあるだろう.したがって「100年後はどんなことをしているだろうか」という質問でなく,我々は何をしているべきかという「べき論」をしなければならないだろう.そうすればいろいろと新しい世界が見えてくるのではないだろうか.
 そうしたとき,上記の2つの記事の問題設定を「べき論」に書き替えて,議論しなおす必要があるだろう.この立場から「100年後はいかにあるべきか」,「そのために情報関係の我々は何をすべきか」という立場からの1つの意見として,限られた文字数で書いたものが以下である.

100年後を目指した情報科学の研究活動について
100年後の目標:  世界人類の平和的共存・共栄
        そのためには,あらゆる人達,民族,国家間の相互理解の実現
        また人類が安寧に共存できるための地球環境の改善
そのために実現すべきこと:
(1)あらゆる分野における生産性の向上と富の局在を避け,世界中の人がそれなりの生活ができるようにする経済(配分)システムのモデルの作成.そのための富の局在や人たちの生活実態の把握と情報公開の実現.
(2)世界中の人たちの教育レベルの向上と,信頼・寛容といった精神の大切さの自覚の促進.そのための教育プログラムの開発とそれが使える数十億人が持てる安くて何でもできる情報端末の開発.
(3)世界中の人が言語の壁を越えたコミュニケーションができ,相互理解の促進ができる環境の整備.機械翻訳が(2)の情報端末で実現し,グローバルに情報入手,処理ができ,だれとでもコミュニケーションができること.
(4)それぞれの民族・国家の持つあらゆる有形・無形文化財のディジタル提供による他文化理解の容易化.それを通じての民族間の相互理解の促進.
(5)地球環境破壊を防ぎ,より良い地球環境の再現.そのための地球全体の環境情報の計測の実現.
(6)世界中の人たちの健康な生活の実現.そのための情報の周知.
(7)人間の頭脳機能のシンボルレベルでの解明とモデル化.
(8)プライバシーが守られる社会の実現.
(9)社会現象や経済現象などのマイクロレベルでのシミュレーションと良い方向への予測の実現.
   *その他いろいろ

こういった課題に対して情報科学ができることは山積している.それらを洗い出し,10年単位でどのように実現してゆくかを学会が明らかにしてゆくことを提案します.                          

 (2018年12月)

長尾 真

100年後の未来に向けた長尾真先生の『べき論』を読んで

 本会第20代会長を務められた長尾真先生が2021年(令和3年)5月23日に逝去されました.享年84歳でした.学会を代表して,心よりご冥福をお祈りいたします.
 私自身,訃報を受け愕然とするとともに,最後にお会いした2019年2月に開催した「長尾先生の文化勲章受賞をお祝いする会」での先生の優しい笑顔が忘れられません.
 今回,会誌編集担当から長尾先生が情報処理2019年1月号(Vol.60, No.1)「100年後のコンピュータ科学はどんなことを研究しているの?」と2018年1月号小特集「私たちの未来」を読まれて,学会宛てにコメントを寄せられていたという連絡を受け,それに対するコメントを急遽,書かせていただくことになりました.本来であれば,学会の全国大会やFITにおいて,企画セッションを設定すべき重要なテーマですので,また,改めて検討したいと思います.
 長尾先生の最大の指摘は,2つの記事に書かれた視点が「未来はどんなことをしているだろうか?」という問いへの答えではなく,「100年後はいかにあるべきか?」「情報関係の我々は何をすべきか?」というバックキャスティングの視点からの問いと答えを議論すべきであったという点です.まず,先生は,100年後のあるべき未来社会の目標を「世界人類の平和的共存・共栄」と設定し,あらゆる人たち,民族,国家間の相互理解の実現と地球環境の改善を目指すとされています.長尾先生の描かれている未来社会のかたちは,一貫していて,比叡山シンポジウムでの講演1)においても平和的共存・共栄に関して「本当の理想の境地を一緒に見つけねばならない.仏教でいえば空の境地の世界でしょうか.そういう空の世界の境地とは一体どういうものであるかということを,国同士,民族同士,人同士が心を開いて議論をすることによって見つけ出して,そこに向けてお互いに努力をするということができないか.そういう努力ができない限りは,地球世界からなかなか紛争をなくすことができないということになるわけであります」と述べられています.
 さらに,その目標のために具体的に実現すべきことを9つ指摘されています.
 (1)は,生産性の向上と経済システムのモデルと生活実態の把握と情報公開の実現であり,モデルだけでなく,実態の計測,公開という点に工学者としての長尾先生の視点が見えます.(2),(3),(4)で触れられている点は,世界中の人たちの教育レベルの向上,信頼・寛容という精神の大切さ,多文化理解の容易化,相互理解の促進と機械翻訳による言葉の壁を超えたコミュニケーションを支援する端末開発の重要性です.いずれも人類の平和的共存・共栄の実現に向けて,我々がなすべきことを指摘されています.世界中の人々が使っているスマートフォンが,長尾先生が想像している端末にさらに近づいていくことを期待します.
 (5) は地球環境崩壊を防ぐべく,環境情報の計測であり,持続可能性な社会・地球環境を実現する上での必須アイテムです.(6),(7),(8),(9)を読み解くとWell-being Computing,人工脳モデル,プライバシー保護,社会,経済現象のディジタルツインといった,いわば富の局在のない,精神的にも豊かな未来社会の実現に役立つ情報技術の必要性を問われています.
 長尾先生のコメントは,情報処理にかかわる我々が未来社会をデザインしていく上で絶えず議論すべき重要な課題であり,我々への宿題と思えてなりません.
 最後に,私の手元に先生から送っていただいた随筆2)の一部を以下に引用させていただき,まとめとさせていただきます.

「……21世紀は心の時代となるだろうと30年以上前から言ってきたが,間違いなくその方向に向かっているように感じられるし,そうなるしかないのではないだろうか.ただ心の時代といっても具体的にどのような社会が実現するのか,実現させるべきなのかといったことについては,これからいろいろと研究する必要がある.しかしそれはこれからの人に任せ,私としては心の時代が来るという確信でもって,30歳代からの自分の宿題は解けたとして,安らかにあの世にいくことにしようと思う.(2013年夏)」

 

2019年2月のお祝い会にて


参考文献
1)長尾 真: こころの時代,比叡山シンポジウム (2018).
2)長尾 真: 楽天知命 ─気楽なよしなごと─,アスパライースト(株)(2019).

徳田英幸(情報通信研究機構)

長尾先生に多くを教えていただきました

 2年前,2019年10月,大川賞ご受賞時にご夫婦で東京にお出でになられ,先生の素晴らしいご自身の研究者人生を拝聴する機会がありました.大変お元気でいらっしゃられ,今回の訃報がいまだに信じられません.先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます.
 小生は長尾門下ではありませんが,振り返りますと,先生には色々な機会で多々ご指導を頂戴して参りました.情報信憑性に関する研究の重要性を訴えられたときのお考えが忘れられません.長尾先生のお考えは,研究すべきことを真っ直ぐに見つめられるということに尽きると感じます.当時西尾本会元会長がとりまとめておられました連携施策群という文科省,総務省,経済省の3つのプロジェクトがありましたが,小生は情報大航海なる巨大なプロジェクトをまとめており,出口という視点をどうしても考えがちでした.小生は,信憑性の定量化は根源的に難しい課題であるという考えを持っていたのに対し,先生は直近の成果などどうでもよく,やるべきことの重要性を明確に述べられ,先生の展望の深さに感銘を受けたことを鮮明に記憶しております.先生が自然言語処理を始められたときも,非常に険しい山であったかと思います.やるべき研究として一歩一歩登ってこられた先生のお姿は後進に大きな勇気を与えてくださっていると感じます.機械翻訳創成期において,文法ではなくビッグデータのアプローチを切り開かれ突出した成果を上げられましたことは広く知られているところですが,本会の「100年後にやるべき研究」として挙げられましたリストを拝見しますとまさに長尾イズムが感じられます.
 最近,我々は,2020年3月末から「4月からの大学等遠隔授業に関する取組状況共有サイバーシンポジウム」☆1なるオンライン集会を継続的に開催してきておりますが,4月24日の第5回のシンポジウムにおいてご登壇いただきました1)
その折には先生は京大の黒橋研究室でご講演をなされたと伺っております.このシンポジウムは,海外の一流大学に遅れることなく,日本の大学がどうやって対面授業から遠隔授業に迅速に転換するかについての情報交換の場として,コロナの状況もまだ不透明な中で,取り組み始めたものですが,電話でスピーチをお願いさせていただきますと,「喜連川さん,遠隔授業もいいけれど,こういうときは,ちょっと勉強が遅れるなんて細かいことを気にするのではなく,肝を据えて,今何をすべきかしっかり考えることこそが大切ですよ.今はテレビもコンビニもあるけど,敗戦直後は何もなく私の父もとても大変だったようです.そういう中で当時の京大総長は,学生に向かって,これからの日本の将来を考えろと言われたのですよ」という趣旨のお話を頂戴したことが忘れられません.ちなみに,その回は過去最高のオンライン視聴者があり,2,000名をはるかに超え,大きな反響がありました.長尾先生のご講演は当該サイトから今もお聞きいただけます.
 先生には,もっともっとご指導を頂戴したい気持ちで一杯です.日本の情報分野の研究者を遠くから見守っていただけているものと信じております.

WebExによるご講演のオンライン配信  

WebExによるご講演のオンライン配信


☆12021年1月より「大学等におけるオンライン教育とデジタル変革に関するサイバーシンポジウム『教育機関DXシンポ』」に名称変更.

参考URL
1) 長尾 真:危機に直面して,【第5回】4月からの大学等遠隔授業に関する取組状況共有サイバーシンポジウム(4/24オンライン開催),
https://youtu.be/FM0yoBlC5fo 

喜連川優(国立情報学研究所)

長尾先生のメッセージについて


 電子計算機がぼつぼつ出始めた院生の頃考えた.個人用計算機が欲しい.世界中の計算機を繋げないか.これは遠の昔に達成された.もっと前, 小学生の頃考えた.自分が動き回った場所をずーっと地図に表示したい.タイプライタのキーを押すと辞書のその言葉のページが現れないか.これもスマホで現実になった.
 これまで何度も視界が劇的に転換する新世界を経験した.戦争, 終戦, パラメトロン計算機, メインフレーム, ミニコン, ネットワーク, パソコン,スマホ,……より短い時間間隔で新世界が次々と出来する.機械翻訳や自動運転も予想より早々と登場した.昨今の新型コロナウイルスのパンデミックは別の新世界だが.これらの経験からすると, 100年はおろか, 10数年先にでもSFが現実になろう.生まれると身体にチップが埋め込まれ, 人間同士が無意識に通信し合う.すべての経験や体調が外部メモリに残らず記録され, 誰もが外部からの指令で動かされる.
 情報科学はどんな新世界の実現にも加担させられかねない.注意したい.長尾さんは提案で, 世界平和に向かって解決すべき問題を掲げ, その解決に情報科学を役立てるという.しかしそのすべてを情報科学者でできるはずはない.あらゆる分野の科学者, 技術者が, 情報科学のリテラシーで武装して解決に立ち向かうことになろう.情報屋の仕事は情報処理の基本問題の解決であって, たとえば外部からの侵入を絶対に許さぬシステムやセンスあるメンタルモデルに基づくユーザインタフェースの開発を始め多くの課題が考えられる.
 長尾さんの遺志を活かせるよう頑張ろう.

和田英一(IIJ技術研究所)

長尾先生のメッセージについて

 長尾先生は常に世界の自然言語研究をリードしてこられました.世界に先駆けて事例ベースの翻訳(今,Googleがやっているやつの原型です)を提案された先見性には驚きを隠せませんでした.今回,100年後のコンピュータサイエンス像に寄せられたコメントもそうした先見性を持ったものです.「べき」論には大賛成で,私も「AIでどうなるの?」ではなく「AIでどうしたい?」と質問すべきだと言い続けています.ご冥福をお祈りするとともに,偉大な先輩を失った悲しみが大きいです.

中島秀之(札幌市立大学)