2019年05月20日版

「インターネットの時代」

砂原 秀樹(監事)


 平成はインターネットの時代だった。昭和64年1月7日。昭和天皇の崩御の報を聞きながら、ワシントンD.C.へ旅立つ村井純を見送った。形作りつつあった日本のインターネットをNSFnetに接続するためである。当時、ワシントンD.C.のNSFのオフィスに学術情報センター(NACSIS – 現在の国立情報学研究所)のX.25パケット交換回線が日本から敷設されていた。48kbpsぐらいの回線速度だったと記憶している。この回線はNSFのオフィスから東大の研究DBにアクセスし、日本の研究を国際的に公開するために使われていたという話であった。この回線の一部(9.6kbps分。X.25は仮想回線型の仕組みを採用しており、その一つを使った)を使ってIP接続をする計画であった。すでにドライバソフトの開発は進んでおり、日本から機材を持ち込んでの接続となった。これが平成元年1月11日であった。WIDE Projectが公式にスタートしたのは1988年であり、また同時期に国内の一部の組織がARPAnetへの接続等を行っていたが、日本のインターネットが本当にインターネットに接続されたのがこのときなのである。

 今や我々は日常的にスマートフォンを用い、インターネットがない状況を想像できない社会になった。まさに平成はインターネットが発展してきた時代であり、その中で我々の活動がそれを先導してきた自負がある。一方で、我々のこうした活動はアカデミズムという世界ではなかなか認められなかった。冗談ではなく、「砂原君。遊んでいないで、ちゃんと研究をしなさい」と言われたものである。そんな中で情報処理学会は我々にさまざまな場を提供してくれた。まず行ったことは、全国大会や研究会といった場を活用して我々の活動を発表していくことであった。何度か全国大会の複数のセッションを我々の発表で埋めつくしたこともあった。こうした活動を通して、仲間を作るとともに、多くの先輩方にその意味を理解していただくことができた。その結果として、インターネットに関する論文誌特集号を企画し、新しい研究会を立ち上げ、シンポジウムや国際会議を企画することができた。

 こうした活動の中で特に印象に残っているのは、インターネット経由でのカメラレディ提出の仕組みの構築であった。当時、論文であれ研究会の報告であれ、その原稿提出は紙で郵送しなければならなかった。しかし、締め切りギリギリまで粘る我々にとってカメラレディ原稿を作成し郵送するという時間でさえもったいなく感じたのである。LaTeXやtroffで原稿を作成しているので、それをそのまま学会の事務局に届けたいと考えたのである。今考えると相当な無茶であるが、情報処理学会の事務局にIP接続できるPostScript Printer(たぶんSPARCprinterだったと思う)を持ち込み、各組織からlprコマンド(UNIXの印刷出力コマンド)でそこに出力できるようにしたわけである。今考えてみるといろんな意味で怖い話である。平成5年(1993年)8月に情報処理学会へのインターネット接続を64kbpsに増速し、こうした実験を行ったのである。さすがに、さまざまな課題がありそのまま採用されることはなかったが、今やカメラレディ原稿はインターネットで提出するのがあたりまえになっているのはご存じの通りである。

 技術として、社会基盤として、そしてアカデミズムとして、新しい分野を切り開くということはこういうことであるという経験であった。我々の活動の中で、情報処理学会は大きな活動の場であったということなのである。

 令和という新しい時代を迎え、インターネットはさらに発展を続けていくであろう。特に、実空間での人々の活動の写像がインターネットというディジタル空間に記録されていく時代となった。こうした基盤を通して、また新しい分野が誕生していくであろう。そうした中においても、情報処理学会という場が大きな役割を果たしていくことを期待するものである。

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