量子論と一般確率論における両立不可能性と合成系の研究

 
濵村 一航
日本アイ・ビー・エム東京基礎研究所 研究員
 
キーワード
量子コンピュータ 量子論の基礎 Quantum incompatibility

[背景]量子論の定式化が数学的で,物理的・操作的な意味づけが不足

[問題]量子論でどんな操作が同時にできるのか? あるいはできないのか?
[貢献]ある操作のトレードオフ関係を証明し,ある同時操作の応用を提案した


 量子コンピュータは量子論における重ね合わせやエンタングルメント(量子もつれ)などの量子的な効果を計算に利用したコンピュータである.この量子論はヒルベルト空間という数学的な道具を用いて定式化されているが,量子論の物理的・操作的な理解は,量子論成立の黎明期からの現代に残されている課題である.重ね合わせとは何か? エンタングルメントとは何か?を説明しようとするとどうしても抽象的になってしまったり,数学的な道具を必要としてしまったりするのはこういった量子論の事情によるものである.重ね合わせは,量子状態は0と1といった離散的な値だけではなく,その間の連続的な状態を取れるというもので,エンタングルメントは複数の量子状態の間に古典論には見られない相関があるというものであるが,こう説明されても量子論を知らない読者は何のことやらと思うに違いない.したがって,より操作的な量子論の理解が重要である.

 さて,本研究では,
  1. 量子論の基礎における課題について操作的な観点から議論し,
  2. 量子コンピュータを用いて作った理論の検証を行い,
  3. ある量子アルゴリズムの高速化する,
といった研究を行った.

 量子論には両立不可能性(Quantum incompatibility)という性質がある.これは,2種類以上の操作について,同時にできない操作の組合せがあるという性質である.古典論では量子論とは違って「コピー」ができるので,任意の操作は同時に行うことができることが対照的である.本研究では次の操作について議論を行った.量子測定には測定出力を得るという効果と状態を変化させるという2種類の効果がある.これらの効果をそれぞれ操作と見立てたときに,測定出力から行う状態識別の能力と,状態変化の擾乱にはトレードオフ関係がある.すなわち,状態識別能力が高い測定は,より擾乱が大きくなってしまうというものである.本研究では操作的な定性的関係を定義し,トレードオフ関係を証明した.さらに,定性的関係を定量化することで,新しい定量的なトレードオフ関係を得た.すなわち,両立不可能性について操作的な意味のある新しい判定法を与えることができた.

 量子論では状態にエンタングルメントがあることはよく知られていて,状態がエンタングルしているかを判定する方法はいくつか提案されている.本研究では,状態ではなく与えられた物理量がエンタングルしているかを判定する方法を提案し,実際に量子コンピュータを用いて物理量のエンタングルメントが存在することを確認した.ここで,物理量は状態と双対な概念であることに注意する.つまり,物理量の空間が大きくなると状態の空間は小さくなる.したがって,合成系において物理量のエンタングルメントが存在するということは状態の空間に制限を与えることになる.

 最後に,量子化学における分子のエネルギー計算を行う量子アルゴリズムであるVariational Quantum Eigensolver(VQE)に現れる期待値の計算を,エンタングルした物理量の測定を用いた同時測定によって高速化するアルゴリズムを提案した.

 本研究では,上の他にも,文脈依存性の量子コンピュータを用いた検証や情報因果律からのClauser-Horne-Shimony-Holt (CHSH)モノガミー不等式の導出についても議論しているが,誌面の都合上ここでの紹介は割愛する.


 

(2020年5月29日受付)
 
取得年月日:2020年3月
学位種別:博士(工学)
大学:京都大学



推薦文
:(量子ソフトウェア研究会)


この博士論文では物理学における量子論の基礎の課題に取り組むと同時に,量子コンピュータのあるアルゴリズムの高速化手法を提案している.理論的な議論からクラウドの量子コンピュータを用いた実験的な検証まで含んでおり,独自性が高く大きく将来性が期待できる研究であるため「研究会推薦博士論文速報」に推薦する.


研究生活


高校生のころから量子コンピュータに憧れて大学に進学しました.研究室に入ってからは,量子コンピュータの基礎となる量子物理の非自明さに興味を持ち,研究生活の前半は量子論の基礎の問題について研究していました.やがて量子コンピュータを用いた量子論の検証や量子コンピュータのアルゴリズムの提案ができ,高校時代の夢に戻ってきたように思います.いろいろな寄り道をした学生時代の研究生活でしたが,さまざまな問題に触れられたことは良かったように思います.この経験は今後の研究生活にも役に立てていきたいです.

大学院では日本学生支援機構の奨学金や,京都大学工学研究科の博士後期課程支援制度,日本学術振興会の特別研究員,京都大学の授業料免除といった支援があり,博士号を取得できました.また,学部時代から6年にわたり指導していただいた京都大学准教授の宮寺隆之氏とインターンシップでお世話になった日本アイ・ビー・エム東京基礎研究所の皆様とメンターの今道貴司氏にはこの場を借りて感謝申し上げます.