本稿の課題は,ソフトウェア開発においてアジャイル開発手法を取り入れたとしても,方法論を取り入れただけでは成功率が上がらないことである.近年,日本国内でもアジャイル開発手法を取り入れた事例はあるものの,導入率は伸び悩んでいる.これは,アジャイル開発の成功率が低いと考えられていることで,未導入の企業が導入に消極的であると筆者らは推測した.上記を踏まえ,筆者らはアジャイル開発手法を採用したソフトウェア開発プロジェクトの成功率を向上させる方法に関して調査・研究を実施した.
アジャイル開発手法は,ビジネスの価値最大化に向けて,顧客に価値のあるソフトウェアを素早く,継続的に提供するためのアプローチである.
(株)ITRによる「IT投資動向調査2015」~「IT投資動向調査2022」[1]では,国内におけるアジャイル開発に取り組む企業は,2014年度から2021年度にかけて11%から17%の上昇に過ぎず,2022年でも2割未満にとどまっているのが実情である.一方Digital.ai社が2021年に調査した「15th State of Agile Report」によると,全世界のソフトウェア開発企業におけるアジャイル開発の導入率は2020年は37%だったが,2021年には84%になっており飛躍的に増加したと述べている[2] .
アジャイル開発手法は,従来のウォーターフォール開発と比較して,成功率が高いといわれている[3].しかし,日本企業におけるアジャイル開発の導入率が欧米諸国と比べて低くなっている状況の一因として,日本企業ではアジャイル開発がウォーターフォール開発と比較して,不確実性の高い開発方式であるために成功率が低いという印象を持たれているからではないかと筆者らは推測した.そこで,「アジャイル」「失敗」でサイト検索してヒットした日本企業のアジャイル開発の失敗事例を紹介しているWEBサイト(11件)[4~14]を参照し,これらのサイト上にあるキーワードを用いてWordCloud(図1)を作成した.図1で示すとおり,高い頻度で登場している単語には「コミュニケーション」「チーム」「リーダーシップ」といった人に関するキーワードが多くなっている.
これらを参考に,筆者らは日本企業におけるアジャイル開発の失敗要因として,以下3点を挙げた.
近年の社会はVUCAと呼ばれる変動性・不確実性・複雑性・曖昧性が高い時代と言われている.従来のようにウォーターフォール開発によって時間をかけて要件定義をしても,時間経過とともに要件が変わってしまい,開発途中で大きな方針転換を余儀なくされる場面がある.一方,アジャイル開発手法は短期間でMVP(必要最小限の製品)を作成し,ユーザーの意見を取り入れながらプロダクトに修正を加えるなど,状況変化に迅速かつ柔軟に対応できる.こうした背景から,アジャイル開発の重要性は今後ますます高くなると予想されるため,本研究の果たす役割は大きいと考えている.
これまでウォーターフォール開発を主に採用していた企業がアジャイル開発を初めて実践する場合,アジャイル開発の経験が少ない社内人材だけではプロジェクトの難航が想定される.アジャイル開発のスムーズな導入およびプロジェクトの成功率向上のための対応策としては,以下の方法が挙げられる.
いずれの方法についても,アジャイル開発経験者のノウハウをプロジェクトマネジメントに活用し,アジャイル開発の成功率を向上させる効果を期待できる.
しかし,1.4で示したアジャイル開発のスキルを持った人材を社外から確保する方法は,社内人材だけでアジャイル開発を実施する場合に比べ,効果の即時性は高いもののコストの面で問題を抱えている.
1点目の方法であるアジャイル開発経験者の中途採用では,図2で示すとおり,スクラムマスター(アジャイル開発手法の1つであるスクラムにおけるロールの1つ)の求人は,年収700万円以上での募集が全体の約80%を占めるのに対し,一般的なITエンジニアは同年収帯での募集が全体の58%程度にとどまっている.転職市場におけるアジャイル開発経験者の市場価値は一般的なITスキルを持つ人材よりも高く評価されていることが分かる.
また,2点目の方法であるアジャイルコーチの招聘も同様で,図3で示すとおり,月額報酬が100万円以上の求人の割合は,一般的なITエンジニアが23.1%であるのに対し,スクラムマスターは60.0%と割高のコストが発生する.
本論題の解決のため,筆者らはフランクリン・コヴィー・ジャパン(株)が提唱する「組織に実行文化を醸成するプロセス」[17]をアジャイルマインド習得に活用することに着目した.図4で示しているように,新しい文化が定着するプロセスは「知識の習得」から始まり,それを具体化して「思考・行動」レベルへと落とし込み,それを継続することで,「習慣」レベルに到達する.筆者らは,この「組織への新しい文化の定着」を「社内人材のアジャイルマインドの定着」に置き換えて本論題の解決策の検討を行った.具体的には,図4で示す「学習機会」から「実践」プロセスを社内人材が円滑に繰り返し実践することでアジャイルマインドに則った振る舞いを各人ができるようになり,自ずとプロジェクトの成功に近づけると考えた.既存対策ではアジャイルコーチなどがこれらのプロセスを補助する役割を果たすと考えているが,前述のとおりコスト面で課題を抱えていることから,それに代替するツールとして「アジャイル開発を導入する際に活用できる手引書[18](以下「虎の巻」)」の作成を目指した.この「虎の巻」は,代表的なアジャイル開発手法である「スクラム」を解説した内容になっており,アジャイル開発を初めて実践する組織におけるスクラムマスターを読み手として設定している.また,筆者らが独自に考案したエフィカシー理論を取り入れたスクラム実践方法を記載している.そして,この「虎の巻」によって「自社組織の人材だけでアジャイル開発の実践を行い,コストを抑えながらプロジェクトを効率的に成功に近づけること」を本研究の目的に設定した.
本研究は,(株)アシストの主催する「ソリューション研究会」の活動の一環として,複数の企業出身のメンバーで構成された分科会を発足し,約1年間にわたり活動を行ったものである.
当活動では「組織にアジャイル文化を浸透させる方法」を研究テーマとして設定し,研究成果として1.6節で述べた「虎の巻」を作成した.また,「虎の巻」の制作作業に「スクラム」形式を採用し,2週間のスプリントを計4回にわたって実施した.なお,分科会のメンバーはほとんどがアジャイル開発未経験者である.この「虎の巻」作成スクラムにおいて取り組んだ内容は以下のとおりである.
本研究では,エフィカシー理論を取り入れたアジャイル開発の手引書である「虎の巻」に記載する内容を,アジャイル開発未経験者である筆者らが「虎の巻」作成スクラムにおいて実践し,メンバー各々のアジャイルマインドの変化を計測することで評価を行った.計測方法には「アジャイルホイール」と呼ばれるフレームワークを用いて,スプリントごとにメンバー各々がアジャイル12原則に則った行動ができていたかを自己評価によって点数化した.スプリントを重ねるごとに点数は増加していき,メンバー同士で自発的に成果物の相互フィードバックを行うなど,メンバーのアジャイルマインドの向上を確認できた.この「虎の巻」には,筆者らのスクラム経験談に加えて,実際に現場でアジャイル開発を経験している第三者の意見も取り入れている.量,質ともに充実した成果物を残せたという点で満足のいく結果を出せたことから,筆者らのスクラムは成功したと考えている.
「虎の巻」の作成について,当初は書籍等の情報を集約する方針で検討していた.しかし,筆者らの大半がアジャイル開発未経験であったため,リアリティーがない机上の空論になってしまうことが懸念された.また,「虎の巻」が参考文献の焼き直しのような内容になり,オリジナリティーのない一般論の集約になってしまう可能性も一部のメンバーから指摘されていた.
そこで,問題の種類を分別する手法としてクネビンフレームワークを用いて「虎の巻」の作成方法を検討した.クネビンフレームワークとは,発生した問題や状況をその特徴に応じて5つの領域に分類することで,どのようなアプローチが必要かを検討するフレームワークである[19].
アジャイル開発は,事前に予測不可能,かつ実験を繰り返しながら進める必要がある「複雑」または「カオス」な領域に適しているといえる.逆に,試行錯誤が不要な「明白」または「煩雑」な領域では,事前に綿密に計画を立ててから,設計を進めるウォーターフォール開発の方が効率よく進められるといえる.このように,開発するシステムやプロダクトがどの領域に属するのかを確認することで,開発手法や作成方法を選択する目安にできる.「虎の巻」作成プロジェクトの領域分類を下記のとおり整理して検討を行った.
検討の結果,問題は分かっているものの,解決策が不明な「複雑」な領域に分類されるため,アジャイル型の進め方が適していると判断した.そして,筆者らがアジャイル開発未経験者ということを考慮して,最も代表的な手法であるスクラムの形式で作成することを決定した.
本研究の成果物である「虎の巻」の作成について,アジャイルを取り入れたプロジェクトと位置づけてスクラムを実践した.以下は筆者らが実践したスクラムイベントおよびフレームワークである.
インセプションデッキはアジャイルの指南書とも言われる書籍であるJonathan Rasmusson「アジャイルサムライ─達人開発者への道─」[20]で紹介されているプロジェクトの実態を明確化して今後の判断基準の基礎を作るためのフレームワークである.インセプションデッキの各問いに対する回答を,筆者らは表1のようにまとめた.
カテゴリ | 内容 |
---|---|
筆者らはなぜここにいるのか | 「アジャイル」を自社に浸透させる |
エレベーターピッチ |
「アジャイル開発を自社に浸透させたい新米スクラムマスター向けの『わかる!できる!あじゃいる!』プロダクトはアジャイルの『虎の巻』です」 「これはアジャイル開発を始めるにあたって経験問わず気軽に手に取りイメージすることができ,市販の書籍とは違ってアジャイル開発未経験者視点で実施した場合におさえておくポイントが備わっている」 |
パッケージデザイン | わかる!できる!あじゃいる! |
やらないことリスト |
べき論だけの提示書籍の切り貼り,本の内容を丸パクリしない 概念ではなく実践を意識する 自分たちの言葉にする,知識の共有だけにしない 調べないと分からない言葉は使わない,専門用語ばかりで表現しない,分かりづらい表現は使わない |
期間を見極める | 2週間のスプリントを3回実施して「虎の巻」の完成を目指す. |
なお,ソフトウェア開発に限定したインセプションデッキの項目は,今回のデモスクラムでは不必要なため検討していない.スクラムマスターが果たすべき役割(スクラムロール) について,独立行政法人情報処理推進機構「アジャイル開発の進め方」[21]をベースに重要ポイントの選定を行った.その重要ポイントを「虎の巻」に掲載すべき内容と判断して,デモスクラムのプロダクトバックログとした.その結果,チームビルディングに関連するポイントは「わかる編」,スプリント計画に関するポイントは「できる編A」,スプリント中のポイントについて「できる編B」としてグルーピングし,それらグループのプロダクトバックログを決定した.
担当チーム | スクラムイベント | スクラムマスターが果たすべき役割 (プロダクトバックログ) |
---|---|---|
わかる編チーム | チームビルディング |
|
できる編Aチーム | スプリント計画 |
|
できる編Bチーム | スプリント |
|
レトロスペクティブではKPT(Keep/Problem/Try),FDL(Fun/Done/Learn),アジャイルホイールを実施した.その中でもアジャイルホイールでの振り返りの実施結果をここで紹介する.アジャイルホイールは,指標となる項目を以下に記す12項目(アジャイル開発における12の原則)とし,各項目について0~5ポイントで自己評価を行った.
【アジャイル開発における12の原則】
これらスクラムイベントに加え,筆者らはチームビルディングに関する検討も行った.それは,デモスクラムの前半においてメンバーの自律化が一向に進まず,チームの生産性向上が停滞する事態に陥ったためである.そこで,エフィカシー理論を取り入れたメンバーの自律化を目指したフレームワークである「サクセスシート」を考案し,通常のスクラムイベントに加えて実施した.
エフィカシー理論(セルフエフィカシー理論)とは,アメリカの心理学者A.バンドゥーラによって提唱された概念である[22].この理論は,個人が持つ自己効力感や自己信念の程度が,その人の行動や目標達成にどのような影響を与えるかを説明している.エフィカシーとは,自己効力感や自己信念のことであり,個人が自分自身に対してどれだけ自信を持っているかを示している.エフィカシーが高い人は,困難な状況にも立ち向かい,目標を達成するために努力し続ける傾向があり,一方エフィカシーが低い人は,挑戦に対して消極的であるとされている.
認知科学において,人が受ける外的な刺激と,それに対する反応の間にある「内部モデル(外部からの情報を処理し,行動を調整する認知的な構造)」が人間の行動に影響すると言われる.エフィカシーを高め「内部モデル」を変えることでプロジェクトメンバーの行動変容を目指すリーダーシップをエフィカシー・ドリブン・リーダーシップと言う.筆者らはエフィカシー理論に基づいたエフィカシー・ドリブン・リーダーシップをチームビルディングの基礎とした.
筆者らが独自に考案したフレームワークである「サクセスシート」は,シート作成者自身のこれまでの経験から価値観を整理し,自分らしさやそこから派生する真のやりたいことをゴールに設定してマインドの変革を促していくことを目指している.シートの作成において,まずは過去の成功体験を以下の点について整理していく.
次に上記のポイントの中から以下を整理していく.
最後にこれらを踏まえて「これからやってみたい“ぶっ飛んだこと”(あなたの「Want to」)」を決定する.
このシートでは,プロジェクトのゴールと個人の「Want to」を結びつけ,プロジェクトを「自分ごと化」させることを意図している.メンバーがプロジェクトのゴールがもたらす「未来」を想像し,自律したプロジェクト運営の手助けになると考えた.
「虎の巻」作成の際に行ったスクラムイベントを実施した結果,筆者らは以下のような洞察を得た.
アジャイルホイールは分科会の第10回(2022年9月2日),第11回(2022年9月16日),第12回(2022年9月30日)の会合で実施した.その結果が図6~8である.ホイールの輪が大きく均一であれば「アジャイル開発における12の原則」を守ってプロジェクトを進めていると判断できるが,実際にはバランスの良い輪を描くのは難しかったことが分かる.しかし,輪の形が不規則であれば,ポイントの少ない項目が今後の改善ポイントであるため,次のスプリントで気を付けるように意識することで各自が高い意識をもってプロジェクトに取り組むことができる.また,回を重ねるごとに輪が大きくなれば,それだけアジャイルの『12の原則』に沿ったスプリントを実施できるようになっていることが視覚的に分かるため,モチベーションの向上にも役立った.
図6~8からも分かるように,初めてアジャイルホイールを実施したときは小さい輪になっているメンバーが多かったが,スプリントを重ねるうちに大きく,そして輪の面積が広くなっていったことが分かる.つまりはスプリントを重ねるごとにアジャイルマインドが身についていったことを示している.
デモスクラムを実施した結果,2回目のスプリントまでは,メンバーから「モチベーションが上がらない」「兼業のため忙しくスクラムに参加ができない」といった否定的な意見が多く出る状況であり,メンバーの自律化が一向に進まない状態に陥っていた.こうした課題は実際の業務の中でも起こり得るため,筆者らなりの解決策を試してみようという話でまとまり,スプリントごとに自分たちの取り組み方を変化させつつスクラムを実践していった(表3).
スプリント回数 | 課題 | 取り組み |
---|---|---|
1回目 |
|
|
2回目 |
|
|
3回目 |
|
|
取り組みの変化がチームにどういう影響を及ぼしたかを「虎の巻」作成の進捗推移から確認すると,2回目のスプリントまでは10枚前後の資料作成に留まっていたものが,それ以降では20枚前後を作成できるようになっていた.このことから,チームの生産性が3回目のスプリントを境に約2倍に増加したことが分かる(図9).
通常のスクラムでは,スプリントの経過とともに生産性は徐々に向上するものとされている.しかし,筆者らの分科会活動は有志での参加であるため,実際の業務よりもメンバーの意思に生産性が左右される影響は大きい.また,本来の業務と並行してデモスクラムをしているため,費やせる時間も非常に限られていた.そのような中,1カ月程度でスクラムを軌道に乗せることができたのは特筆すべき点だと考えている.
筆者らが作成した「虎の巻」がアジャイル開発の成功率向上に寄与できる点について,以下のとおり考察,提言する.
「虎の巻」はアジャイル開発の方法論ではなく,いかにアジャイルマインドを醸成するかという視点で作成されている.アジャイルの成功の鍵はマインドであることは多くの研究で指摘されているが,その方法論を実践レベルで提案するものは筆者らが研究した範囲では少なかった.「虎の巻」は実践を通じて得たノウハウを記しているため有用性があると考える.さらに,3章で示したように本研究の中では生産性向上への寄与を確認することができた.「アジャイルソフトウェア開発宣言」,「アジャイル宣言の背後にある原則」が,方法論ではなくマインドセットに関する内容であることからも,アジャイル開発の成功にはいかにマインドを醸成する環境を作っていくかが肝要である.
1.2節の中で,筆者らは企業がアジャイル開発の導入に積極的でない理由の1つに,不確実性の高い開発手法である点を挙げた.「虎の巻」はアジャイル開発未経験者である筆者らが直面した課題とその解決策を記載している.これにより,企業がアジャイル開発において開発チームが機能不全に陥る原因となる課題を事前に想定し対処する一助になると考えている.具体的には,プロジェクト準備段階にあたる「アサインするメンバーの選考基準の検討および選定」,「ステークホルダーとのコミュニケーション方針の調整」などに「虎の巻」の内容を活用することで,アジャイル開発の実践前に不確実性を軽減するための対策が実行可能になることである.アジャイル開発の開始前に一定の不確実性を取り除くことができれば,アジャイル開発を採用する意思決定およびプロジェクト開始後の生産性向上にも好影響を生み出せると筆者らは考察している.しかし,本研究ではプロジェクト開始前の対策の検証はできていないため,ここでは提言にとどめる形で記載する.
筆者らが「虎の巻」作成スクラムで実践したアジャイルホイールによるマインドの定量評価について,アジャイル開発の成功率の向上に効果的であると考察した点を以下に記載する.
筆者らも「虎の巻」作成スクラムで陥ったように,アジャイル開発の経験が乏しいメンバーは,プロジェクトの中で自分がどういった振る舞いをすべきか分からないために主体的な行動を起こせない状態になりやすい.アジャイルホイールは,アジャイル12原則のマインドに則った行動を実践できたかという尺度で,目に見えないマインドの成長の定量評価が可能となる.これにより,アジャイル開発において重要とされるマインドを行動に反映させる意識づけに繋がり,自ずとマインドも成長していく効果が期待できると筆者らは考察する.
チーム全体のアジャイルホイールが均整の取れた円になることが望ましいが,実際の開発チームがそうした理想的な状態に至るには相応の時間が必要と想定される.図6~8で示すとおり,筆者らの「虎の巻」デモスクラムで作成したアジャイルホイールもバランスの良い形にはなっていない.また,個人においても同様の傾向が見られ,すべての項目で高い評価点を記録したメンバーはいなかった.スクラム開発ではレトロスペクティブによってスプリントごとの振り返りを行うが,これにアジャイルホイールを採用することで,個人およびチーム視点で,アジャイル12原則のどの項目を改善すべきかを明確にできる.これにより,効率的に開発チーム内にアジャイルマインドを醸成していく効果が期待できると筆者らは考察する.
筆者らがアジャイル開発の成功率向上において重要と考察した要素を以下に記載する.
アジャイル開発では変化を前向きに受け止めて,プロダクトの価値最大化を実現することが求められるが,アイディアは普段の雑談から生まれてくることも多く,イメージを共有するには対話が最も効率的であると考える.図9にもあるように,メンバー間の対話が活性化してきた段階からベロシティ(生産性)が8〜10ポイントから22ポイントに増加しており,開発チームのアジャイルホイールによる自己評価の合計値も197ポイントから244ポイントに増加している.対話の活性化が見られた時期を境にチーム全体がアジャイルの実践に手応えを感じる結果となっている.そして,筆者らが試みた「エフィカシー・ドリブン・リーダーシップ」を基に発案した「サクセスシート」の実践も,対話を生み出すきっかけとして機能し,アジャイルマインドの早期醸成に寄与する可能性があると考察している.
スクラムでは,「サーバントリーダーシップ」と呼ばれる後方支援型のリーダーシップが推奨されている.筆者らの実践した「虎の巻」作成スクラムでも,スクラムマスターは「サーバントリーダーシップ」に則り,1~2回目のスプリントにかけてはメンバーの主体的な行動に期待して作業の主権を開発メンバーにゆだねていた.一方で,開発メンバーは「虎の巻」の完成形のイメージを描けず「そもそも行動を起こせない状態」になっており,図9で示すように,3回目以降のスプリントに比べて半分程度の生産性しか発揮できていなかった.こうした状況が長期間継続していた場合,チームの生産性が停滞することになるため,「虎の巻」スクラムは失敗に終わっていた可能性が高い.筆者らが考案および実践したエフィカシー理論に基づくフレームワークである「サクセスシート」は,こうした状態の解決に効果的であると考察する.その理由として,「サクセスシート」の作成過程である「Want to とプロジェクトのゴールの接点」を考える行為によって,メンバー各々が「開発するプロダクトの価値最大化の基準」を発見することで,メンバーの主体性を生み出すきっかけとして機能するからである.
このように,エフィカシー理論をプロジェクト初期段階の不確実性が高い時期に適用することで,開発チームの生産性向上に寄与できると考えている.スクラムマスターはまず「エフィカシー・ドリブン・リーダーシップ」によるメンバーの自律化に着手し,その後「サーバントリーダーシップ」を軸とした支援型のリーダーシップに切り替えるなど,チームの成熟度に応じてリーダーシップを使い分けることが重要である.ただし,エフィカシー・ドリブン・リーダーシップの実践によるアジャイル開発の成功率向上については,実効性を確認できていないため,本稿では提言として記述する.
既存の対策に対してエフィカシー理論を取り入れたアジャイル開発の実践には次の点が有効であると筆者らは考える.
一方で,実践者が継続してメンバーとコミュニケーションを実施する必要があるなど個人のスキルに依存する部分が大きく再現性が高いとは言えないこと,効果の客観的な評価が難しいことが欠点として挙げられる.
筆者らは,アジャイル開発の成功には方法論の実践だけではなく,メンバーのアジャイルマインドの向上が必要であると結論づけた.また,スクラムを実践する中でアジャイルマインドを向上させるために意識すべき事項を以下に挙げる.
スクラムイベントをルールどおりに実践すること以上に,それぞれのメンバーがアジャイル12原則に則った振る舞いをできているかをチーム全体で意識することが肝要である.
開発するプロダクトのゴールが不明瞭になりがちなアジャイル開発では,メンバーが自身の考えを発信してプロダクトの解像度をチーム全体で上げていく行為が非常に有効である.スクラムマスターは「エフィカシー・ドリブン・リーダーシップ」を実践してメンバーの内部モデルに働きかけ,チーム内の対話を生み出すサポートをしていくことを推奨する.
本研究では,メンバーのアジャイルマインドの向上にエフィカシー理論の適用が有効であると考察する.しかし,筆者らが実践したエフィカシー理論を取り入れたフレームワークは実効性が確認できておらず,エフィカシー理論の適用の有用性が確実に実証できていない点について課題が残っている.
筆者らが作成した「虎の巻」は,エフィカシー理論の考え方を取り入れたアジャイル手引書であり,メンバー間のコミュニケーションの活性化にエフィカシー理論が有効であるという考察と,実践用のフレームワークを記載している.「スクラムガイド」[23]や他のアジャイル関連書籍および学術論文では,アジャイルとエフィカシー理論双方に言及しているものは見受けられず,筆者らの研究結果には一定の新規性が認められると考えている.
状況変化に迅速かつ柔軟に対応できるアジャイル開発は,VUCAと呼ばれる現代において,今後もその重要性の高まりが予想される.筆者らは,アジャイル開発の成功には何よりも実践の機会を多く持つことが必要と考え,その補助ツールとして「虎の巻」を作成した.また,その読み手として設定したスクラムマスターには,筆者らが提言したエフィカシー理論などのリーダーシップを使い分けながらチームビルディングを行い活発な対話を生み出すことで,チームの生産性を向上させていくことが役割として求められると考えている.
アジャイル開発は,無駄なくスピーディーに価値あるものをユーザーに提供する方法として挑戦する価値がある手法である.また,「対話しながら細かく作っていく」手法(スクラム開発)はシステム開発に限らず,ものづくりに活用できる可能性を筆者らは「虎の巻」作成スクラムを通じて実感できた.アジャイル開発への挑戦に踏み出せないときや,進める中で障壁が生じた際に,本稿が皆様の力になれば幸いである.
本研究実施の機会を与えていただいたソリューション研究会の関係者の方々に深謝の意を表する.本研究に参加されともに研究した岩田聖子氏,古谷寧朗氏,蘆田賢藏氏,服部克征氏,江口大介氏,原剛司氏,吉田貴俊氏に深謝の意を表する.
ソリューション研究会の事務局として本研究をサポートしていただいた(株)アシスト 根井和美氏,重松俊夫氏に深謝の意を表する.
本稿の執筆にあたり情報処理学会 デジタルプラクティス専門委員会主査 斎藤彰宏氏に有益なご助言をいただいた.ここに深謝の意を表する.
水谷洋太
mizutani.yota@b3.kepco.co.jp
関西電力(株).1994年生まれ,2016年関西電力(株)に入社.マンション向け電力サービス拡販,グループ会社のセカンドPMI等を経験.現在は,ソリューション本部にて法人向けWEBサービスの維持・開発業務を担当.
松田拓大
matsuda-takumasa@optage.co.jp
(株)オプテージ.1995年生まれ,2020年(株)オプテージに入社.コーポレートITシステム部にて自社サービス向けシステムの維持・開発業務を担当.
山根 寛
hiroshi.yamane@woodone.co.jp
(株)ウッドワン.1984年生まれ,SIerの勤務を経て,2016年(株)ウッドワンに入社.情報システム部に所属し,製造部門向けの社内システム開発を担当.
水原祥光
y-mizuhara@itsuwa.co.jp
イツワ商事(株).1968年生まれ,1993年クボタシステムズ(株),アプリケーション開発エンジニア,プロジェクトマネージャ等を担当.2022年イツワ商事に入社,システム部執行役員を担当.
会員種別ごとに入会方法やサービスが異なりますので、該当する会員項目を参照してください。