会誌「情報処理」Vol.65 No.11(Nov. 2024)「デジタルプラクティスコーナー」

日本IBMのリスキリングに関する取り組みにおける成功要因と考慮ポイント

新矢貴章1  藤岡里織1  山田淑子1

1日本アイ・ビー・エム(株) 

 デジタル・トランスフォーメーションへの取り組みなど,社会や経済の変化に合わせて,業務で必要となるスキルや知識,技術を社員に再教育するリスキリングに高い関心が寄せられている.IBMには創立時からリスキリングで重要となる「自律的に学び続ける文化」が根付いている.IBMではこのカルチャーをベースとして全社をあげてリスキリングに積極的に取り組んでいる.筆者らは日本IBM社員のリスキリングについて企画・実施を推進してきた立場であり,その実践経験から十分な効果を生み出すリスキリング施策とするために必要な要素は「企業の戦略に合致したものであること」,「可視化によってスキルギャップを明確にすること」,「身につけたスキルを活かす機会を創出すること」の3点であると考えている.本稿ではリスキリングを導入・実践する上でのポイントや得られた効果,また実施にあたっての考慮点について具体的な事例,またeラーニングなどの情報技術をリスキリングで活用した事例などを紹介する.

1.リスキリングの現状

デジタル・トランスフォーメーション,いわゆるDXというワードが日本で大きく広まった契機は,2018年に経済産業省が「DXレポート」を公開したことである[1].その後,2020年から世界的に感染拡大した新型コロナウイルスの猛威によってDX推進の流れが一気に加速し,ビジネスモデルや事業戦略の変化に伴い人材戦略も必然的に変化,リスキリングという言葉も浸透してきた.国外の大企業が巨額の予算をリスキリングに投じていることも盛んに報道されている.たとえばAmazonは,総額約700億円を投じて2025年までに米Amazonの従業員10万人をリスキリングすると発表[2],米Microsoftではコロナ禍で失業した2,500万人を対象に,リスキリングのためのオンラインプログラムを無償で提供,世界的に不足するデジタル人材の育成に取り組んでいる[3].

世界経済フォーラム(World Economic Forum,以下WEF)においても,2018年から社会全体でリスキリングに取り組む必要性を打ち出しており,2020年1月のWEF年次総会では「2030年までに世界で10億人をリスキリングする」ことを目標に,「リスキル革命プラットフォーム」の構築が宣言された[4].これは政府,ビジネス界,教育界の垣根を越えてさまざまな国の政策実験や企業の取り組みを連携させるという取り組みである.また,WEFでは「第4次産業革命により,数年で8,000万件の仕事が消失する一方で9,700万件の新たな仕事が生まれる」とも予測している[5].

このような世界的な動きの中で日本の政府や企業が労働力の活性化や競争力の維持に向けて新たなスキル獲得や再教育の重要性を認識し始めたのが2020年前後であり,日本において「リカレント教育」「リスキリング」というキーワードを目にするようになったのもそのころである.

「リカレント教育」は,「学校教育からいったん離れたあとも,それぞれのタイミングで学び直し,仕事で求められる能力を磨き続けていくという社会人の学び」を指しており[6],実施主体としては個人が中心となる.一方,「リスキリング」は,「新しい職業につくために,あるいは今の職業で必要とされるスキルの大幅な変化に適応し続けるために必要なスキルを獲得する/させること」と,経済産業省デジタル時代の人材政策に関する検討会が公開している資料では定義されている[7].つまり,リスキリングとは特定の労働者が持つスキルや知識が陳腐化し,新しいスキルや知識を獲得する必要がある場合に行われる教育プログラムであり,主に特定の産業や職種でスキル不足や技術の変化に直面している労働者を対象としている.そのため,リスキリングの目的は,新しいスキルの習得によって新しい仕事,新しい職務に移行することであり,新しいスキルを習得すること自体はリスキリングではない.つまり,リスキリングは企業が戦略的な必要性に応じて従業員に新たなスキルを習得させることであり,実施主体は企業などの組織体となる[8].

リスキリングと通常の企業内研修との違いについても触れておく.通常の企業内研修はすでに持っているスキルや知識を更新,強化するためのトレーニングや研修のことを指し,従業員のスキルやパフォーマンスを向上させ,現在の役割や職務に必要な能力を維持,向上させることが目的である.一方,リスキリングは前述したように,これまでとは異なる新しいスキルや知識を身につけ,キャリアを転換したり,新たな職務に必要な能力を獲得することを目的としている点が大きな違いである.

日本では経済産業省がリスキリングを強く推進している.企業・組織内におけるリスキリングについて,高報酬が必要なデジタル人材を外部から採用するだけでなく,内部の人材を育成することが有効であること,リスキリングは従業員全員に対して必要であると述べている[9].加えて,経済産業省では,企業の喫緊の課題となっているDXの実現には人材こそが鍵になると位置付け,DXを主導するハイスキル人材だけでなく,中間層やスキル向上が必要な層,若手も含めた幅広い層に対するリスキリングが必要であるとし,デジタル人材育成プラットフォームの構築を進めている[10]. こうした時代のニーズと潮流を把握した上で,企業は既存の社員のリスキリングを検討しなければならない.

しかし,日本におけるリスキリングの実態調査結果は図1に示すとおり,一般的なリスキリングの経験がある人の割合は3割前後となっている.ITツールや統計データ解析など,DX化の流れの中で重視されているデジタル領域におけるリスキリング経験はさらに低くなり2割程度,特にAIや機械学習のスキルについては16%程度にとどまっている[11].このことから,大企業を中心に広く従業員を対象としたリスキリングに取り組む企業が増加しているということはさまざまなメディア等でも取り上げられているが,日本におけるリスキリングは十分に進んでいないのが現状と言える.

図1 日本におけるリスキリングの実態調査[11]
図1 日本におけるリスキリングの実態調査[11]

また,図2で示しているのはテクノロジーの変化についていけるよう絶えず新しいスキルを学んでいる個人の割合であるが,日本はこの割合が非常に低いのが現状である[12].

図2 テクノロジーの変化についていけるよう絶えず新しいスキルを学んでいる個人の割合[12] 注)調査時期は2021年,回答者にはフルタイム雇用者70%,それ以外に個人事業主,学生,求職者,自宅待機中または一時解雇の雇用者が含まれる.全回答者32,517中,日本のサンプルは2,001名
図2 テクノロジーの変化についていけるよう絶えず新しいスキルを学んでいる個人の割合[12]
注)調査時期は2021年,回答者にはフルタイム雇用者70%,それ以外に個人事業主,学生,求職者,自宅待機中または一時解雇の雇用者が含まれる.全回答者32,517中,日本のサンプルは2,001名

図3は社外学習・自己啓発を何もやっていない人の割合を示しているが,世界平均で18.0%のところ日本は52.6%と群を抜いており,そもそも日本人は国際的に見ても圧倒的に学ばないということが一目瞭然である[13].

図3 社外学習・自己啓発を何もやっていない人の割合[13] 注)調査時期は2022年,18カ国・地域の約1,000サンプルを対象,回答者は休職中を除く就業者,対象国に3年以上在籍の20〜69歳男女
図3 社外学習・自己啓発を何もやっていない人の割合[13]
注)調査時期は2022年,18カ国・地域の約1,000サンプルを対象,回答者は休職中を除く就業者,対象国に3年以上在籍の20〜69歳男女

また,図4はDXに取り組む上での企業における課題についてのアンケート結果だが,企業としては「DXに対応できる人材の不足」「スキル・ノウハウ不足」がDXの最大の課題となっている[14].

図4 DXに取り組む上での課題[14]
図4 DXに取り組む上での課題[14]

つまり,就業者のうちリスキリングのため新しい知識の習得に取り組む人の割合が国際的に低い一方,企業としては人材やスキルが不足しているためDXへの取り組みを十分に進めることができておらず,思うようにDX化が進んでいないのが日本の現状と言える.このような状況の中,日本で就業者の多くがテクノロジーの変化に対応したスキルを習得していくためには,企業側が強い主導権を持ってリスキリングを推進していくほかに手段がないと言える.

では,筆者らが所属する日本IBMはどのようにリスキリングを推進しているのか,本題に入る前にIBMのカルチャーについて触れておく.IBMは「教育に飽和点はない」を教育に関するスローガンとして掲げている.「人間を教育して,そこから引き出す能力には飽和点はない.人間の能力に限界がなければ,それを引き出す教育にも限界,すなわち飽和点はないはずである」と創業者であるトーマス・ワトソン・シニア(Thomas John Watson, Sr.)は語っており,この考え方が今もなおIBMのラーニング・ポリシーの土台となっている[15].また,そのラーニング・ポリシーを土台として2013年にジニー・ロメッティ(Ginni Rometty)前IBM会長によって「Think40」が提唱されたことが1つの転換点となった.これは「年間最低40時間は顧客と自分の成⻑のために時間を使うべき」という内容のものであり,経営のトップ自らが,自身のキャリア開発や会社のビジネス継続のために,社員は学び続けなければならないと宣言した内容となる[16].世の中の環境が目まぐるしく変化し,テクノロジーも日進月歩する中,2013年現CEOであるアービンド・クリシュナ(Arvind Krishna)は,学びは一時的ではなく継続的なプロセスであり,社員一人ひとりがGrowth Mindset(知識欲,好奇心,そして飽くなき探究心から生まれる)を持ち,常に自律的に学ぶことで誰もが大きく成長できるとして,「継続的に学び続ける文化」の推進をアナウンスし(2020年アービンドCEO就任時の全社員に送付したレターメッセージ[17]),これが現在のIBMの人材育成の土台となっている.このようにIBMには創立時から脈々とラーニングカルチャーが受け継がれており,リスキリングで重要となる「自律的に学び続ける文化」が根付いている.大切なのは,このようなカルチャーは一朝一夕で醸成できるものではなく,いつの時代も経営トップが提唱し,コミットしてきたことが非常に大きい.IBMではこのカルチャーをベースとして,全社をあげて社員のスキル向上,およびリスキリングに積極的に取り組んでいる.

筆者らは,日本IBMにおけるLearning&Knowledgeにかかわるメンバーとして,IBMにおける学びを推進してきている.近年ではIBMにおけるリスキリングに関する取り組みを行ってきた経験をもとに,リスキリングにおける重要なポイント,リスキリング実施において困難だった点,それをどう解決したかについての知見を共有することで,リスキリングの実施に課題を感じている企業に対しての一助となればと考え,本稿を執筆した.

本稿では,まず,リスキリングの実施に必要な要素について述べた上で(第2章),IBMにおける全社的なスキル育成に関する取り組みについて触れ(第3章),さらに,各組織におけるリスキリングに関する取り組みおよび情報技術の活用(第4章)として,実例をもとに説明を行っていく.その上で,リスキリング導入にあたっての効果および考慮点について述べていく(第5章).最後に,リスキリングの効果を高めるための要素について述べる(第6章).なお,本稿は筆者ら独自の見解であり,所属する企業,組織の意見を代表するものではないことをあらかじめお断りしておく.

2.リスキリングに必要な要素とは

第1章では,リスキリングを推進していく上で土台となるカルチャーの醸成,経営トップがコミットしてトップダウンで実施することが大事だと述べたが,この章ではリスキリングに必要な要素とは何かを整理していく.効果的で高い成果を生むリスキリングの設計では,企業固有の視点で検討すべきことも多いが,本稿では,どの企業にも共通する要素である「1.ビジネス戦略と人材育成施策の連動」,「2.スキルギャップの可視化」,「3.スキルを発揮する仕組み」の3点について述べる.

2.1 ビジネス戦略と人材育成施策の連動

第1章でも述べたとおり,リカレント教育や学び直しとは個人が主体であるが,リスキリングは企業などの組織体が主体となる.そのため,当然ながらリスキリングは企業のビジネス戦略に合致・フォーカスしたものである必要がある.そのため,まずはビジネス戦略に合致したフォーカス・スキルや人物像を定め,次にそれに合ったリスキリングプログラムの内容とその後の人材の配置を検討する.この順番が重要であり,事業の計画と戦略にしっかり連動させたリスキリングプログラムこそが,確実なビジネスの成果を生み出すことにつながると考える.先に人材育成だけを熱心に検討しても,ビジネスの戦略と齟齬があれば投資が無駄になってしまう可能性が高い.

また,リスキリングでは,新たなスキルを身につけるための学びの機会の提供が不可欠である.ビジネス戦略としてフォーカス・スキルや人物像を定義しておくことで,効果的で無駄のない学習の機会を提供することが可能となる.ただし,学習コンテンツそのものについては必ずしも自社で準備する必要はない.リスキリングを提供するプラットフォーマーが多数存在しており,企業が自前でリスキリングのコンテンツや仕組みを開発せず,リスキリングをサポートするプラットフォームを積極的に活用して実施することが一般的である[9].

2.2 スキルギャップの可視化

リスキリングの効果を上げるには,スキルギャップの可視化を行うべきである.社内の職種や専門領域ごとのスキルマップ(必要なスキルの種類とレベルを一覧化したもの)を定義し,社員が現時点で保有しているスキルと,今後求められるスキル要件からスキルギャップを明確にすることで,社員は自身のリスキリングのゴールを把握することができ,現在不足しているスキルをどのように獲得していくべきかイメージすることができる.この際,リスキリングによってこれまで培ったキャリアが無駄になるわけではなく,これまでのキャリアに新たなスキルが追加されることで本人の価値が向上することをマネージャーが適切にコミュニケーションし,社員が意欲的にリスキリングに取り組めるような意識を持ってもらうことが重要である.マネージャーは社員のスキルや適性,希望等を加味して直近のプロジェクトアサインを決定する等の短期的な育成支援と,将来的なキャリアの希望・悩みについての相談を受けコーチングを行うなど中長期的な育成支援を行う役割がある.リスキリングにおいては,マネージャーが中長期的な目線でスキルギャップの可視化やリスキリング後のゴールについてコミュニケーションし,今後のキャリアについてコーチングを行うことが必要不可欠である.

また,可視化の仕組みはシステム化した方が効率的な管理が可能となる.IBMにはIBM Digital Credential制度と,それを支えるシステムが存在する.オープンバッジシステムを活用したバッジ発行を行い,社内資格はもとより,社外資格についてもオープンバッジとしてデジタル登録できる仕組みがある[18].これにより,社員が保有するスキルをデジタル管理,SNSとの連携も可能となることから,社内外問わず誰もがスキル保有状況を確認することが可能となっている.また,IBM Digital Credential制度に加え,個人の専門性(Job Role Specialty)を登録する仕組みがある.Job Role SpecialtyはIBM Global共通のRole・スキル管理タグであり,これによりどの部門に,どの専門性を持った社員が,どの程度在籍しているか把握することが可能となっている.IBMでは社内資格,社外資格,Job Role Specialtyなどによって多角的にスキル保有状況を可視化することで,社員が保有するスキルを明確にしている.ただし,スキルは日進月歩な状況であり,クラウド,モダナイゼーション,生成AIなど次々と新しいものが登場してくるため,スキルの可視化は常に最新の状況にアップデートしつづけなければならない.IBMでは社員の経歴・実績,資格や保有スキルなどの情報をCVとして登録するシステムがある(CVはラテン語で「人生の行路」を意味する curriculum vitae(カリキュラム・ビタエ)の略語).CVは社内でプロジェクトに応募する際に,選考の目的で参照されることも多いため,半年に一度程度,定期的に見直しすることを社員に推奨している.

2.3 スキルを発揮する仕組み

リスキリングによって獲得したスキルも発揮する機会がなければ投資の効果が得られないため,獲得したスキルを活用するための仕組み化が必要である.人材育成の領域で言及される「70:20:10の法則」では,社員が成長する際に効果的な要素は「70%が経験,20%が上司・同僚らによるフィードバック,10%が研修」とされている[19].獲得したスキルを活用することができる機会として,具体的にはOJTやジョブローテーションの実施が必要であり,スキル獲得とセットで実施すべきである.IBMではFuture Skillingプログラムという取り組みがあり,学習・研修とOJTまでを一貫して実施するプログラムを実施している.こちらは第4章にて詳細記載する.

社員の学びや新しいスキルを獲得すること自体はリスキリングの重要な点ではあるが,新しい知識やスキルを獲得するのみでは単に宝の持ち腐れとなってしまう.これら知識・スキルは現場で使われ,組織に対して何かしらの効果をもたらさない限り意味がなくなってしまう.そうならないためにも,必ずビジネス戦略と連動したプログラムを設計し,ビジネス目標を達成するためには,どの程度のスキルレベルを持った社員が何名必要なのかスキルギャップの可視化を行い,しっかりと社員に新しい知識・スキルを身につけてもらった上で,それらを現場で活かすための仕組みを活用して,社員が活躍するところまでしっかりと含めたプランにする必要がある.ただし,実際に研修等によって知識・スキルを獲得すること,それらを実際の現場で活かすことの間にはハードルが存在している.それらハードルをどう乗り越えたかについても,第4章にて詳細に記載する.

3.IBMにおける全社的なスキル育成に関する取り組み

本章では,リスキリングも含めたIBMにおける全社的なスキル育成に関する取り組みと,それを支えるデジタルツールについて紹介する.

3.1 IBM社員の学びを支えるデジタルツールについて

IBMには社員のキャリア開発を支援する多彩な人事データやAIを活用し,社員・マネージャー双方の視点でキャリア開発,スキルアップを支援するための多彩なITプラットフォームが用意されている.“Your Career”,“Your Guides”,“Your Learning”という,AIを活用した3つのプラットフォームから成り立っている.これらプラットフォームについて紹介する.

“Your Learning”は社内の学習プラットフォームであり,このプラットフォームを介して必要な研修を探して受講し,受講が完了するとシステム上で時間が積算され,さらに社外における学習時間,研修時間についても自分で登録することができる[20].また,これまでの研修受講履歴,保有資格などをはじめとするさまざまなデジタル・フットプリントや現在のJob Role Specialityなどのデータをもとに,AIが提案してくれる学習コンテンツを受講することも可能である.マイページには自分の学習時間が表示されるため,学習状況を一目で把握することが可能であり,加えて,マネージャーは管轄するチームメンバーの学習時間を確認することも可能である.マネージャーはメンバーが何をどの程度学びの時間に費やしているかを知り,1 on 1の際などマネージャーがメンバーの学びを支援する際に活かすことができ,リスキリングを計画的に進めるための改善に役立てることもできる.第1章でThink40の取り組みについて述べたが,最近では年間学習時間が40時間を超えることも当たり前になってきていることもあり(2023年の日本IBM社員の平均学習時間は108時間),学習時間というKPI自体は重要ではなく,あくまで目安であり,学びの質の方が重要となってきている.

“Your Guides”はIBM社内のメンター/コーチのマッチング・サービスで,全世界のIBM社員の中から条件の合うメンターを探せるツールであり,Job Role SpecialityなどさまざまなデータをもとにAIが希望条件に基づくお薦めのメンターを紹介することが可能である.日本国内はもとより全世界にいる何万人という中からメンターを探して相談することができ,キャリア開発やスキルアップの支援が受けることができる.メンタリングの実施ガイドも公開されているが,メンタリング内容はメンター・メンティー間で自由に取り決めを行い,対面での実施,オンライン会議ツールでの実施など,実施形態も双方の状況に応じて選択が可能である.

“Your Career”は社員のキャリア開発を支援するためのツールであり,これまでの学習履歴や人事データ等をAIが分析して自分のスキルや専門知識のレベルを推測すると同時に,伸ばすべきスキルエリアの特定をサポートし,そのスキルを活用したIBM内でのオープンポジションなどを勧めてもらうことも可能である.ただし,当然ながらAIの精度も完全なものではないため参考情報として活用しながら,マネージャーとともにスキルレベルを個別に評価することも可能であり,キャリア開発をサポートしてくれている.

いずれもAIを活用したこれら3つのツールを活用し,IBM社員に対する学びを多角的にサポートしている.また,これらツールに加え,IBM Digital Credential制度を活用して社員が現在保有しているスキルの可視化,キャリア開発の支援を積極的に行っている.

3.2 ツール以外の取り組み

日本IBMでは2020年から春と秋の年2回の2週間を“学びウィーク”と題し,全社で学習を奨励する期間としている.学びウィーク中にはさまざまなセッションが開催され,テクノロジーの最新情報,業界動向,コアスキルに加え,キャリアやメンタリングなど幅広いテーマで,各種研修プログラムを該当期間に集中して開催している.普段は業務に追われてなかなか学びの時間が取りづらいという心理的な壁を取り除き,全社をあげて学びの推進を行っていることもあり,期間中は日本IBMグループ社員の約半数が参加し,総学習時間は2万時間を優に超える規模で開催されている.エグゼクティブを招いた会社経営・戦略に関するセッションや新入社員の交流セッション,各ビジネス・ユニット単位で企画したテクニカルな内容のセッション,IBM内のコミュニティが主催する全社横断的なセッションや個人で発信を行う自主開催のセッションまで,さまざまな立場の社員がさまざまなお題で発信を行っている.社員は興味ある内容のセッションについてオンライン,内容によっては現地で参加するなど参加形式も選択可能となっている.

また,“学びウィーク”の実施を裏で支えているのが”L&K Squad Community”である.山口明夫氏が2019年に日本IBMの社長に就任した際,“人財”は日本IBMの成長の源泉であり,未来に進む上で最も大切にすべき価値であるという思いから,部門の枠を超えた全社横断の学びを促進するためのチームとしてLearning & Knowledge(L&K)Squadを立ち上げた.IBM Globalの中で,このようなL&Kのバーチャル・チームが存在するのは日本のみであり,本来はビジネス・ユニット単位で活動することが前提だが,日本では組織間の連携をとって実施するという日本独自の取り組みとなる.立ち上げ当初は各事業部のスキル育成責任者(Learning & Knowledgeチーム)で構成されていたが,スキル・人材育成・教育に関心のある社員の誰もが参画できるべくコミュニティ化を行い,2024年現在約40名の社員が自ら参加し活動を行っている.

日本IBMは,“学びウィーク”や普段のコミュニティ活動,ナレッジ・シェアリング活動を通じた学びの中で,研修として与えられた学習だけでなく,自ら発信することで学ぶ,互いに学ぶ,共創しながら学ぶといったことを体現している.

4.各組織におけるリスキリングに関する取り組みおよび情報技術の活用

第3章では,日本IBMの学びに関する全社的なスキル育成に関する取り組みと,それらを支えるデジタルツールについて紹介してきた.第4章では,これら全社的な取り組み・ツールをベースとした上で,各組織においてどのようにリスキリングに取り組んでいるかを説明する.

4.1 コンサルティング事業本部におけるFuture Skillingプログラムの取り組み

IBMではリスキリングを,より戦略的なスキル変革を推進する施策と位置付け,Future Skillingプログラムを展開している.かつてない速さでテクノロジーが変化していく中で,特にお客様にサービスを提供している日本IBMコンサルティング事業本部としては,市場より先に最新のテクノロジーを習得していく必要がある.これまでのように「目の前のすでに市場が大きい領域のスキル育成に投資をする」という考え方では,ベストなタイミングでお客様が求めるサービスを提供することができなくなってしまう.そのため,先手を打って将来のビジネスに必要なスキル育成する考え方が重要である.これを実現するのがFuture Skillingプログラムであり,また,個人のキャリア観点からも,社員一人ひとりが継続的に新しいスキルを獲得するために取り組み続けられる仕組み・プログラムとして,キャリア開発上も良い影響をもたらすと考える.

Future Skillingプログラムはスキル取得の用途とレベルによって細分化し,以下図5に示す3種類の手段を提供している.この中のRe-Skillingは,Future Skillingプログラムの1つの種類であり,広義のリスキリングを指すものではないことを補足する.

図5 Future Skillingプログラムの概要説明
図5 Future Skillingプログラムの概要説明
  • Re-Skilling(これまでの経験を活かしつつ,新しいスキル領域への軸足を移す)
  • Cross-Skilling(これまでの経験に加えて,2つ目の軸足を追加し,両方のスキルを活用して活躍する)
  • Up-Skilling(現在の職務領域にて,より高いレベルの専門性を発揮するためのラーニング)

Up-Skllingに関しては,今までの専門性を獲得してきた延長で,社員個人が自律的に学んでいけるように,スキルエリアごとやレベルごとの一連の学習プログラムを整備して展開しているもので,自分の専門領域における資格取得などが該当する.

一方,大きなスキルシフトを伴うRe-skilling,Cross-skillingは,集中的にスキル習得を行い確実にスキルシフトできるようFuture Skillingプログラムという育成プログラムとして展開されている.このプログラムをどのように具体的に進めているか,その手順を紹介する.

まず第一に,「対象スキル,人数定義と候補者選定」を行う.対象スキル,人数については,その年のビジネス目標を達成するために必要なスキルと,その保有者がどの程度必要かについてトップダウンで算出し,現状の社員の保有スキルデータをもとに目標値とのギャップから必要な人数を割り出し,各組織に候補者のノミネーション依頼を行う.社内在籍年数,直近の期間で一定以上の稼働があること,前回プログラムを利用してから一定年数が経っていることなど参加条件を満たしている社員を候補者リストとして各組織に展開し,そこから人選を行っている.また,ノミネーションの際はプログラム受講後に身につけたい専門性(Job Role Specialty)を明確にしてもらう必要がある.

第二に,「研修でのスキル習得」を行う.専門性(Job Role Specialty)ごとに用意された研修受講を行い,スキルの習得を行う.研修完了条件として,アセスメント(試験)や認定資格取得をパスする必要のあるものも含まれる.研修期間中は本業の稼働時間を減らすことができる制度があり,いったん業務から離れてスキル習得に集中するためのサポートを行っている.

第三に,「OJTでのスキル適用」を行う.Re-Skillingの場合はOJTの完了までが必須となる.新たなスキルを適用したプロジェクト活動を実践することで,研修で習得したスキルの定着と,今後の活躍の機会に向けた足がかりを作る.新たなスキルを適用したプロジェクトが周辺にない場合は,他部門におけるOJTプロジェクトを紹介をする仕組みもあり,実プロジェクトにて活躍いただくためのサポートを行っている.

プログラムの特徴としては,スキルシフトに集中できるような環境整備するためのサポートを行っていること,OJTの実施まで一気通貫している点である.習得したスキルも業務で使わなければ意味がないため,スキル獲得のための学習・研修とセットでOJTの機会を提供することが重要である.また,Future Skillingプログラムの実施状況はシステムにて管理されており,現在プログラムに参加している人数,今期完了した人数,遅延している人数などのデータを取得,定期的なレポート配信をすることで,必要に応じて各組織にて完了を推進するなどアクション実施が可能である.このように,システムを活用することで煩雑な管理工数を削減することが可能であり,プログラム実施に集中して取り組むことを後押ししている.

なお,これらプログラムの具体的な中身については日本独自の取り組みとなる.IBM本社からはRe-skilling,Cross-skilling,Up-skillingの数値目標として目標人数(ヘッドカウント)のみが提示され,何をゴールとしてどのようなKPIを設定するかについては日本独自の状況も鑑み,中長期的な目線で検討するところから実施している.またKPI達成のための具体的な施策についても日本で検討・実施している独自の内容となる.

4.2 テクノロジー事業本部における営業人材育成の取り組み

IBMではテクノロジー事業本部を中心として,2021年より数年をかけた大規模な営業改革を実行した.従来IBMが行ってきた担当営業が窓口になって営業活動を行う「提案型」モデルに加えて,よりお客様戦略の実現のための「共創型・体験型」モデルの促進を目指したのである.具体的には,営業戦略,営業部門の組織体系,営業の職種(Sales Job Role),営業のモデル(営業プロセスとメソドロジー)等の抜本的な改革を行い(図6),営業管理ツールもSalesforce社のSales Cloudを導入,“Living in the platform”をスローガンに掲げて,営業活動に関する情報をSales Cloudと連携する関連ツール内で管理・共有する仕組みを実現した[21].

図6 日本IBMの営業改革の取り組み
図6 日本IBMの営業改革の取り組み

この営業改革を推進するために,2021年にセールス・イネーブルメントという組織がIBM世界共通で新設され,営業社員の新モデルへのトランスフォーメーションとスキル育成を実行してきた.このトランスフォーメーションは新モデルへの大きな転換という観点で,ほぼすべての営業人材がなんらかのリスキリングの対象になったと言える.

営業職のオンボーディング・リスキリングプログラムは,その人材のバックグラウンドに応じた学習プログラムのエントリーポイントを設けており(図7参照),早期のリスキリングとオンボードを可能にしている.具体的には,新入社員や配置転換された営業バックグラウンドを持たない社員は,営業スキルを総括的に学ぶ営業基礎研修プログラムからエントリーする.一方営業職中でのロールチェンジの場合は,Job Role Specialty別に用意された実践学習プログラムからエントリーすることが可能となっている.

図7 営業イネーブルメントプログラムのエントリーポイント
図7 営業イネーブルメントプログラムのエントリーポイント

4.3 AI人材育成の取り組み

2022年末,Open AI社の対話型AI「ChatGPT」の登場により,生成AIが急速に浸透・普及している.世界の生成AIの市場規模は,2022年の69億3,000万米ドルから,2030年には728億米ドル,およそ現在の10倍の規模に成長すると予測されている[22].競合他社に差をつけられないためには,生成AIスキルを持った人材の育成が急務である.ここでは,特に近年注目されているIBMにおける生成AI人材育成の取り組みについて紹介する.

IBMには“watsonx”と呼ばれる自社開発の製品がある.ユーザーに高度な機械学習,データ管理,生成AIの機能を提供し,ビジネス全体のAIシステムの学習,検証,調整,導入を実現するツールである[23].watsonxを企業に向けて勧めていくにあたり,当然ながらwatsonxの製品知識,生成AI等に関する知識・スキルをIBM社員が保有していることが大前提となる.そのために,2023年に,実際にIBM社員自身がwatsonxを触り,その価値を体感し,自分の言葉でお客様にその価値を訴求できるようになることを目的としたIBM全世界全社員参加型のハンズオン・トレーニングを開催し,15万人が参加した.トレーニングは自習形式でオンラインで実施する内容であったため,日本では第3章で紹介した“学びウィーク”の期間中にさらにスキル補強するための日本版が実施され,期間中本社にてオンサイト・イベントを開催,その場で一緒にハンズオンを実施する取り組みを行った.結果として,学びウィークの約2週間に1,200名を超える参加があり,生成AIに関する社員のUp-Skillingを行うことができた.

また,日本IBMコンサルティング事業本部では,所属する全社員に共通で必要となる基礎的な内容の研修コースの展開,お客様のマネジメント層に対して提案を行う社員向けの中上級レベルの社内資格の取得促進など,社員のロール別に研修や資格取得の推進を実施している.2024年からはFuture Skillingプログラムとして生成AI人材育成プログラムを開始し,生成AIビジネスのデリバリーをリードしていくコア人材に必要なスキル獲得にフォーカスしたプログラムを新たに展開,今後の生成AIビジネス拡大・スキル拡大に繋げている.

5.リスキリング導入にあたっての効果および考慮点

本章では,リスキリングとしてコンサルティング事業本部にて実施しているFuture Skillingプログラムにフォーカスし,導入にあたっての考慮点,効果について述べる.

5.1 Future Skillingプログラム導入にあたっての考慮点

Future Skillingプログラム導入にあたり,2020年の開始当初からスムーズな運用ができたわけではなく,さまざまな課題に直面することとなった.どのような点に苦労し,どう工夫して乗り越えたか,その考慮点について共有する.

まず第一に,プログラム開始当初はビジネス現場からの理解が得られにくかったという点である.Re-Skillingプログラムのようにスキルの習得からOJTまで含めて実施する場合,最低でも半年間程度,スキルエリアによってはより長い時間が必要となる.ビジネス現場においては,そのような将来への投資よりも目先の利益を優先してしまいがちであり,せっかく用意したプログラムも積極的に活用されなくなってしまう.この点に関しては,部門のトップがコミットメントし,ビジネス現場まで浸透させるためのガバナンスモデルの構築を行うことで対応した.詳細については5.2節にて後述する.

第二に,スキルの可視化がプログラムの前提となるが,社員の保有スキルデータが更新されていない,正しくないなどデータの精度が低い点が課題であった.データの精度向上のため,社員にスキルデータを定期的に更新することの意義を伝えることに加え,資格取得数,Open Badgeの取得データなどを補助データとして合わせて活用することで,より正確なデータに近づける対応を行った.

第三に,当初“Re-skilling”に対してネガティブな印象を抱く社員が多かった点である.現在の保有スキルでは活躍できていない社員向けのプログラムというイメージを払拭するため,社員とのコミュニケーションにおける工夫を行い,自身のキャリア開発に有効な施策というポジティブな印象を伝えた.具体的には,マネジメント層からのレター発信でプログラムの重要性やポジティブなメッセージを伝え,プログラムを適用して第一線で活躍している社員のインタビュー記事を定期的に掲載することで,ポジティブなイメージを徐々に浸透させることができた.現在では,プロジェクトの合間などの期間で積極的に新しいスキル習得を目指して社員自らが積極的にプログラム参加を希望するなど,自身のキャリアにとって有効な施策であるという認識に変化している.

第四に,新たなスキルを習得したばかりの人をすぐにプロジェクトなどの現場で活用しにくい点である.OJTとして参画するため,現場で教育するコストが余計にかかってしまう点については,OJT参加者のコストを一定期間下げる対応を行うことと,OJT受け入れ側のコスト負担を軽減することで,その分教育のために必要なコストを捻出可能にしている.さらに,要員をリクエストしているプロジェクトとのマッチングをサポートすることで,プログラム参加者がすぐにスキルを活用できるようにしたりと,サポートする仕組みを整備した.研修で知識・スキルを得ることと,実際の現場で活用することの間にはハードルが存在するが,このようなハードルを下げるための一手段として,受け入れ側のコスト・時間の負担を減らすための仕組みは必須であると考える.

最後に,これらプログラムの成果をどのように測るかという点である.これに関して,コンサルティング事業本部組織全体として定量的なKPIを定義した.具体的には,DXの推進に必要な“デジタルスキル”を定義し,“デジタルスキル”に該当する専門性(Job Role Specialty)を持っている,“デジタルスキル”に該当するエリアの資格を保有している社員の割合を,組織全体で40%増加させることを目標として定義した.それを達成するため,Re-Skilling,Cross-Skilling,Up-Skillingの3種類のプログラムにおいて,それぞれデジタルスキルホルダーを何名増やすか各組織における目標をセットし推進を行った.デジタルスキルホルダーの割合を定期的に社内に公開することで,目標を持って各組織でプログラムを推進することが可能となり,結果として,プログラム開始した3年後である2022年に+40%の目標を達成し,大半の社員が“デジタルスキル”を保有するという分かりやすい成果を達成することができた.

5.2 Future Skillingプログラムの成功要因

5.1節にて導入にあたり苦労した,工夫した点について記載したが,それら対応策の実施にあたりプログラムの成功要因のベースとなったのは,リーダーたるマネジメント層がコミットし,それを現場に落とし込んでいったことである.Future Skillingプログラムでは図8に示すような推進体制を敷くことでトップダウンによる推進を可能にした.また,Coreチームとして人事,人材育成部門がプロジェクト・マネジメント・オフィス(PMO)として参画し,プロジェクトのマッチングサポートや稼働時間の調整のためビジネス管理部門,社内向け情報発信やコミュニケーション促進のためのマーケティングを担うチームが参画した.Coreチームが全体の制度設計やガイドラインの作成,推進に向けた課題の解決など中心的な役割を担い,組織別推進リーダーが組織内での展開・推進を行った.そのため,Coreチームが組織横断的な活動を推進し,常に改善し続けるサイクルを回すことが重要となる.たとえば,開始当初はプログラム参加資格に曖昧な点があり,例外的に検討・対応が必要なケースも発生したが,個別にそのような問合せを受け,制度やルールを改正した上で再び全体に展開するなど,日々発生する課題への対応を横断的に進めてきた.

図8 Future Skillingプログラムの推進体制イメージ
図8 Future Skillingプログラムの推進体制イメージ

5.3 Future Skillingプログラムにおける効果

Future Skilling プログラム,そのうちRe-Skillingプログラムに参加することで,社員は新たなスキルアップの機会を得ることができ,これまでの経験に加えて新しいスキル領域で活躍できるようになるメリットがある.

リスキリングを経験したAさんの例を挙げる.Aさんはこれまで,COBOLによるプログラム開発やミドルウェア設計を中心に,20年近くメインフレーム系プロジェクトを担当していた.その後社内のRe-Skillingプログラムに参加し,新たにクラウド系のスキルを身につけ,資格を取得.リスキリング後は,新たに取得したクラウド資格を活かしてコンテナ開発のプロジェクト提案に軸足を移し,アプリケーション・アーキテクトとして活躍している.Aさんがリスキリング実施に向けたステップを以下に示す.

  1. 今後のビジネスの方向性を見据え,どの領域のスキルを獲得するか所属長と共に検討
  2. Re-Skillingプログラムに参画し,約3カ月かけてクラウド関連の研修を受講,クラウドベンダーの資格を取得
  3. 資格を活かせるプロジェクトを探し,OJTに参画後,クラウド開発を中心とするプロジェクトに正式参画

プロジェクト側にとっては,メンバーがこれまで保有していたスキル・経験に新たなスキルが追加されることでメンバーのスキルエリアが拡大し,プロジェクト全体としてもお客様に提供できる価値が増大するというメリットがある.また,Aさんの事例と同様にリスキリングによってレガシーシステムのモダナイゼーションで力を発揮する例も数多く見られるように,企業にとっては事業計画や戦略に合わせた人材の再配置を円滑に行うことができるようになり,ビジネス上の成果が拡大するメリットがある.

しかし,一方でリスキリングは社員の主体性に依存する部分が大きく,新しいスキルを獲得する意欲が不足していると,途中で挫折してプログラムを中断せざるを得なくなり,投資自体が無駄となるケースも一定数存在する.また,現場のニーズに合わないリスキリングをしてしまい,せっかく獲得したスキルを活かしきれないケースもあった.具体的には,新しいスキルを獲得したにもかかわらず,それらを発揮するプロジェクトのニーズがそこまで大きくない場合,結局既存のスキルを活用したプロジェクトに居続けるケースも存在する.特に,最先端のスキル・テクノロジーの立ち上げ時期は,それを活かすことができるプロジェクトも限られていることも多いため,ビジネス状況やニーズを踏まえ,リスキリングのタイミングを調整することも必要となる.

以上から,リスキリングの効果を得るためには,主体性を持って意欲的に取り組んでもらうためのコミュニケーションを社員としっかり行うこと,また,その時点で真にニーズのある領域のスキル獲得となるよう,個人の希望だけではなく,マネージャーがしっかりとビジネス状況や現場のニーズを理解した上で,効果あるリスキリングになるよう導いてあげることが必要となる.

6.リスキリングの効果を高めるための取り組みと今後の展望

冒頭でも触れたが,第四次産業革命によって既存の産業が衰退する一方で,新たな雇用が生み出されることが予想されている.特に生成AIの台頭によって大きく働き方が変化しようとしている中,改めてリスキリングの取り組みが加速していくことが想定される.そのような時代を迎えるにあたり,労働者にとって自律的,継続的に学び続ける姿勢がますます重要になってくる.ここまで日本IBMのリスキリングをはじめとする,全社的な人材育成の取り組みについて紹介してきた.このような取り組みの実施にあたり,「自律的に学び続けるカルチャー」が根底にあることの必要性を改めて感じている.経営層がトップダウンで,継続的にメッセージを発信し,企業内に浸透させていくことが重要である.

また,企業内におけるリスキリングの効果をさらに高めていくためには,個人として学んだことを組織内で共有し,お互いに学び合うことで,個人としての学びを組織としての学びへと昇華していくことが重要であり,学びの「活用文化」「共有文化」「奨励文化」が高い組織は学習意欲が高く,学習共有が進んでいるという調査結果もある[24].コンサルティング事業本部では,最新の組織戦略や,行動様式(IBM Consulting Way)の理解を目的として,“IBM Consulting Way Day”というイベントを春と秋の学びウィーク期間中に開催している.期間中はテーマに応じて70〜80セッションが開催されるが,最新のお客様事例での学び・教訓についての共有が積極的に行われている.また,これ以外にも「Japan Technical Council(JTC)」と呼ばれる若手技術者のためのコミュニティ[25],「cosmos」と呼ばれる女性技術者・研究者のためのコミュニティ[26]など,業務外で活動するためのコミュニティが存在しており,最新テクノロジーにおける学びの共有や働きやすい仕組みづくりに向けた知識の共有など,組織としての学びを促進している.

このように,一方的な学びの提供のみにとどまらず,組織としてお互いがお互いの学びを共有するための仕組みを作ることが効率的な学びに繋がっていくと考える.図9に示すように,このような集合的・共同的に学びを行う「コミュニティ・ラーニング」の経験がある従業員は,本人の学習意欲によらず月の学習時間が2倍以上になっているデータもある[27].

図9 コミュニティ・ラーニングの有無と学習時間(月)[27]
図9 コミュニティ・ラーニングの有無と学習時間(月)[27]

以上から,リスキリングに必要な要素としては,第2章で述べた3点に加え,その効果を高めていくための「コミュニティ・ラーニング」を促進していくことが重要となってくる.そのためには,個人としての学びを積極的に共有していくカルチャーを醸成し,組織内で学び合いを加速させるための制度や仕組みを提供していくことが鍵となる.リクルートワークス研究所が開催し,日本IBMも参加している「対話型の学びが生まれる場づくり」研究会においても,コミュニティを支えるベースとしてカルチャーが必要であり,コミュニティが活性化していくことでカルチャーにも良い影響を与え,仕組みや制度も変えていくような循環モデルを構築することの必要性を説いている[28].IBMにはこれまで紹介してきたようなさまざまなコミュニティ,学びウィーク,IBM Consulting Way Dayなどの取り組みなどを通じ,学び合うカルチャーの醸成や学び合いの場を育んできたことが,リスキリング成功要因のベースとなっていると言える.また,近年ではコーポレートユニバーシティー,いわゆる企業内大学を導入する企業も増えており,カルチャーの醸成や学びあいの促進のための仕組みとして活用しているところも増えている[29].

本稿では一企業におけるリスキリングの取り組みとして日本IBMの事例を紹介してきたが,IBMには“SkillsBuild”と呼ばれる社会貢献プログラムがあり,IBMが提供する6,000本ものオンライン学習教材を無料で外部公開している[30].IBMはこのプログラムを通じて,社会的企業であるソーシャルビジネス事業者,NPO,自治体などの運営パートナーと連携し,就労に向けたビジネスやITスキルの向上,いわゆるリスキリングを強力に支援している.第1章では,日本人の学びに対する消極性から企業側が強い主導権を持ってリスキリングを推進する必要性について述べたが,組織の枠を超えて教育機関,行政などとも連携し,社会全体でリスキリングを後押ししていくことこそが,効果的なリスキリングの推進には必要不可欠であると考える.

2024年5月23日,日経フォーラム第29回「アジアの未来」晩餐会にて,岸田総理が東南アジア諸国連合(ASEAN)と共同で「今後5年間で10万人の高度デジタル人材育成を目指す」ことを表明し,AIや半導体の人材育成に向けて,東アジア・アセアン経済研究センター(ERIA)が産官学のハブとなり,ASEAN各国の工科大学とも連携していくことを述べている[31].今後もこのような産官学連携の流れが加速していくことで,一企業に閉じた形ではなく,社会全体でリスキリングが進んでいくことを期待している.

既存の社員の能力を最大化するリスキリングをより効果的なものにするために,本稿が一助となれば幸いである.

参考文献
新矢貴章

新矢貴章
TKSHINYA@jp.ibm.com

2002年日本IBMに新卒入社.官公庁部門にてシステム構築の経験を積み,プロジェクト・マネージャーとして活動.社内の人材育成として2016年以降新入社員組織のマネージャーを務め,2018年以降新入社員研修の企画・運営のリードを複数回担当.その経験を活かし,現在はラーニング&ナレッジ部門にて,社員のスキル育成に取り組んでいる.

藤岡里織

藤岡里織
SAORIF@jp.ibm.com

日本IBM IBM Consulting 事業本部 人材育成担当リーダー.新卒でIBM入社,アーキテクトとして活動の後,若手育成プログラム推進担当およびマネージャー経て,ラーニング&ナレッジ部門へ.2024年以降ラーニング&ナレッジ部門リーダーとして,社員スキル育成を担当.「研修提供」にとどまらず,社員が主体的に学び続け,変わり続ける組織の実現を目指している.

山田淑子

山田淑子
YSYAMADA@jp.ibm.com

日本IBM Technology事業本部 セールス・イネーブルメント部長および全社ラーニング&ナレッジ スクワッドリーダー.通信・メディア業界のコンサルタントとしてCRM領域のプロジェクトに従事後,2006年よりラーニング&ナレッジ部門に異動,以降人材育成のプロフェッショナルとしてコンサルタントおよび営業のスキル育成に携わる.現在は日本IBMの継続的に学び続け成長する文化の促進に取り組んでいる.

投稿受付:2024年6月6日
採録決定:2024年7月31日
編集担当:福原知宏(マルティスープ(株))

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