情報処理学会60年のあゆみ
第1編―学会60年のあゆみ
第3章 次の10年に向けて

 

3.1 次の10年の研究課題

3.1.1 現状

ここ数年,情報処理や通信技術のトレンドは大きく変化している.つい数年前にAR(Augmented Reality)/VR(Virtual Reality)などが大きく注目を集め,さまざまなデバイスが登場したあたりから,これらのトレンドが我々の生活に与える影響が大きくなってきたように思われる.その直後にビッグデータやIoTがブームのように取り沙汰された.さらに,それを追いかけるように深層学習(Deep Learning)が,ついで人工知能(AI)という言葉が広く使われるようになり,それに関連した多くのアプリケーションなどが作り出され,我々の生活に入り込んできている.ほかにもブロックチェーンを活用した仮想通貨などが広範囲に使われるようになり,またそれに伴って仮想通貨の流出などといった記事がニュースとして取り上げられるようになった.その一方で,長年研究開発が行われてきた量子コンピューティングが実用化へ向けて秒読み状態となっている.同様に,遠い未来の技術だと思われていた自動運転についても,急速にその実現性が高まり,技術以外の面(たとえば法規制についてなど)に関する議論も合わせて活発化している.携帯電話業界では,5Gにより多くのものが高速・低遅延で接続できるようになり,移動体通信を用いた新しいサービスが続々と実用化されることになるであろう.

3.1.2 信頼される情報通信システム

このように,情報通信技術によって我々の生活が目まぐるしく変わっていくという状況下で,今後重要になる研究課題はなんであろうか? 単純に10年前を思い返してみると,その当時予想された2020年と現実とがかなり乖離しているのは間違いのないところであろう.こと情報処理技術に関していえば,まだまだ発展途上分野であり,技術革新の速さ,新しい技術の与えるインパクトの大きさは多くの有識者の想像を超えたものになるのは仕方のないところである.ただし,社会情勢などを考えると,今後の10年間についての予想は(現在の延長線上にある限り,その部分については)比較的容易であり,それほど困難ではないともいえる.このため,確実に解決していかなければならない問題点はある程度明確に予想できる.1つ間違いのないところでいえるのは,情報処理技術が現実世界へ与える影響が飛躍的に大きくなっていることを考えても,情報処理システム自体の信頼性を高める必要があることであろう.たとえば,なんらかの情報処理システムが外部の悪意を持ったユーザに乗っ取られてしまった場合の影響力は数年前とは比較にならないほど大きいし,今後ますます大きくなっていくであろうことは間違いない.このため,より信頼性の高いセキュリティ技術の実用化が必要であろう.また,自動運転技術のように,物理的にクルマのような大きなものを,歩行者やほかの車両などが動いている道路上のような複雑な環境下で動かす技術の実用化も近いと考えられている.このような状況下では,AI,ネットワーク,制御システムなどが全体として十分な信頼性を確保することが必須であるとともに,Fail safeなシステムを構築することが必要となる.また,当然ながら複雑な状況(たとえばどのような選択をしてもなんらかの被害が避けられない状況下での,合理的な判断方法など)に対処する仕組みも必要であろう.そのような状況下も含めて,人間とのコミュニケーション手段や,情報システム自体の信頼性をどのように確保するか,という点も検討が必要であろう.さらにいえば,現在,スマートフォンなどのアプリケーションやカードを利用した際の,「よく分からないけど,情報がだれかに収集されている気がする」というような漠然とした不安感を持たれてしまう状況は,今後の情報処理技術の発展のためにも,また,個人個人の利便性を高めるためにも好ましい状況ではない.もちろん,これらに対応した法律などの整備も重要であるが,情報システム自体が個人情報の保護などを担保できるような仕組みができない限り,今後のさまざまなアプリケーションなどの発達は覚束ないことになってしまいかねない.

3.1.3 社会的な課題

個々の技術については触れないが,近年話題に上がっているSDGs(Sustainable Development Goals:持続可能な開発目標)に代表されるような持続可能社会を考えた技術開発は当然であるが継続的に実施する必要がある.また,災害などの際の情報通信システムの脆弱性は,現代においては災害復旧の遅れにもつながるため,災害耐性が高い(レジリエントな)情報基盤を実現するための技術開発というのも重要なテーマであろう.もともと,インターネットが分散処理技術をベースに作られたことを引き合いに出すまでもなく,情報通信技術が特に現実社会への影響が大きくなってきている現状では,災害などにより情報通信システムがダウンしてしまうことは,社会インフラが停止していることを意味するため,耐障害性というのは重要なテーマとなるであろう.

3.1.4 経済的な課題

経済的な仕組みも大きく変わろうとしている.ここにも情報処理技術が広く,深く使われていることは明らかである.たとえば現金決済からキャッシュレス決済への動きは急激に加速している.さらに,従来,国家が管理・保証していた通貨の価値自体が仮想通貨などにより変わろうとしている.一方で,数多くのトラブル・事故などが報告されており,現在の通貨と同様な信頼を勝ち得ている状況には程遠い.国家が保証しない以上,法律などだけでは対応しきれず,技術的に課題をクリアしていく必要がある.

また,これらに合わせて,モノを所有するという概念も変わろうとしている.従来,車は所有して必要なときに利用する,という形態が普通であったが,情報処理技術により,必要なときに利用できることが保証されるようになって,車を保持しない,ということが普通になりつつある.同様にホテルやタクシーなどのシステムも大幅に変わりつつある.これらについても,現状はまだまだトラブルフリーという状態にはなっていない.技術的な解決方法を模索する必要があろう.

3.1.5 データサイエンスとAI

膨大なデータを扱う技術であるビッグデータや各種データを収集するIoTに加え,集まったデータを価値に転化するAIは産業における大幅な効率向上や熟練者を代替可能な自動化が期待され,適用の試みが急速に拡大している.AIと称されるアプローチは現在多く存在するが,注目すべきは人間がタスク設定を行って学習データを与えた機械学習の活用であり,目的を限定したAIである.これに対し,より汎用的なAIの実現を目指す研究も行われている.数理統計学的手法や各種の最適化手法に機械学習を加えたデータサイエンスの有用性は広く認識され,データ駆動的アプローチは自然科学,社会科学の双方において適用され,各種の産業分野で活用されている.適用の拡大とともに機械学習にともなう問題点も認識され,新たな研究課題となっている.たとえば説明可能性への要求は大きな課題であり,個別には学習の入出力を決定するタスク設定,高次元な入力と学習データの不均衡(過学習の危険),学習結果の解釈性,相関と因果の混乱,学習データの偏りによるバイアスなどによる不適切また信頼性の低い出力の問題がある.これらの問題は,機械学習が社会に実装されたときに公正さを損ね,差別を助長する可能性を含んでおり,説明性を担保するアルゴリズム,信頼性の定量的評価や向上策に関する研究が行われている.一方,データは新たな資源と称されるほどに有用であるため,データ自身を流通させる社会的スキームの必要性が議論されている.データが流通する市場の形成には権利の帰属やプライバシなど,法制的な課題が多く存在するが,技術的にも,データの有用性を失わない匿名化,暗号化状態で処理を行う暗号計算,データ主体が流通に関与する権限設定などが重要な研究課題になると思われ,議論が始まっている.

3.1.6 未来のコンピューティングと解かれるべき問題

膨大なデータを扱うことの有用性が明確になるほどコンピューティング性能の向上に対する要求も高まる.もとより大規模な演算を必要とする計算化学や気象シミュレーション,物理的シミュレーションなどに用いられるスーパーコンピュータの分野では,並列配置されるノードの高性能化と省電力化,ノード間接続のネットワークトポロジ,効率的並列化のアルゴリズム,複数ジョブのスケジューリングなどが課題とされ,性能向上が継続的に行われている.また従来の古典的コンピュータをはるかに超えると期待される量子コンピュータの技術は過去10年の間に実用化に向けて大きく進展した.アニーリング型とゲート型では状況が異なり,前者については対象が組合せ最適化などイジングモデルのエネルギー最小化に帰結可能な問題に限定されるものの,商用機が登場し,必ずしも量子性を活用しないタイプの装置を含め,交通の混雑解消など現実の問題解決に適用されるようになった.機械学習への適用も期待されている.後者はより汎用的なチューリングマシンを目指し,数十量子ビットのプロセッサ開発が報告されている.現時点では量子ビットが不安定なためNISQ(Noisy Intermediate-State Quantum)と呼ばれる段階であり,量子ビット数を拡大したうえで誤り訂正が必要とされている.対象とする問題として,量子超越性の確認に適したアルゴリズム,既存のアルゴリズムにおける量子コンピュータの優位性評価など,量子コンピュータの開発と深くかかわる問題が研究されている.また量子コンピュータが実現された場合に現実的な時間で暗号が解かれる可能性に対抗する対量子暗号の開発なども新たな研究課題である.

3.1.7 情報処理技術と産業・社会の接点

業務一般の情報化による効率向上はディジタル変革そのものであり,情報処理技術の浸透があらゆる分野で進行中である.また,ほとんどの産業が情報処理技術の進展による変革を迫られている.たとえば製造業では物理的な機器や部材の状態をIoTによりセンシングしてデータ化し,仮想空間上の機器や設備を用いたシミュレーションによって最適化した後に物理空間の製造に転写するCPS(Cyber Physical System)やデジタルツインの実現が進められている.またAR/VRなどの3Dグラフィクス技術がインタフェースに活用され,人間の設計や検証を支援している.ほかにも各分野に特有の情報管理や機械学習の活用などによる大幅な効率化が,○○インフォマティクス,○○テックなどと呼ばれて産業への寄与とともに融合的な研究テーマを生み出している.たとえばマテリアルインフォマティクスでは材料の組成の膨大な組合せから有望な組合せを機械学習によって抽出し,ロボットによる実験の結果から絞り込んだ後に人間が深く取り組む新材料の効率的開発が行われている.またバイオインフォマティクスでは遺伝子情報の分析や活用により,疾病の要因分析や環境汚染および生態系に配慮した工業製品の設計が試みられている.他にも○○に健康,金融,教育,デザイン,サービスなどを対応させた研究が行われている.情報処理技術の進展は産業ばかりでなく,人間社会の課題にも貢献しつつある.たとえばAR/VRはメディアや娯楽の幅を広げ,ソーシャルネットワーキングやゲーム,e–スポーツなどは世代や行動範囲を超えたコミュニティの形成という視点からも分析されている.これらの考察や研究についても着実な進歩が望まれる.

3.1.8 倫理・法制と社会

技術が進化する速度が速いほど社会にもたらす変化も急激かつ深刻なものになり得る.ELSI(Ethical,Legal and Social Implications)は今やあらゆる科学・技術の分野で不可避の議論である.情報処理分野では近年,AIが人間を代替することによって生じうる倫理問題,また欧州のGDPR(General Data Protection Regulation)や我が国の改正個人情報保護法のように個人情報のディジタルデータ化にかかわる法制についても議論がなされている.本会においても関連する研究会が活動しており,今後研究の深化とともに広範囲な啓発活動が必要である.

3.1.9 次の10年を超える課題

情報処理技術の10年先を見通すことは困難だが,困難さは同時に可能性と魅力を意味している.未来社会のデザインや地球環境の持続性に関する課題意識と情報処理技術の接点から次の10年,さらにその後に続く新たな研究課題の登場が期待される.研究者には技術の進歩が何かを置き去りにし,ときには何かを毀損する可能性についても考える謙虚さが必要である.謙虚さとは技術と社会とがともに進化するように考えることである.本会は今後も議論と啓発を続け,社会的責任を果たしていく.

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