情報技術は,いまや企業活動を支える基盤であるにとどまらず,事業の根本的な構造,組織の働き方,顧客との接点,さらには社会制度や教育の在り方にまで深くかかわる存在となりました.生成AIの急速な業務適用,クラウドネイティブアーキテクチャへの移行,データドリブンな意思決定の推進,レガシーシステムの刷新など,企業が向き合う課題は広がりを見せています.さらに,巧妙化するサイバー攻撃への対策や事業継続(BCP)への対応も求められており,これらの課題は高度化し,複雑化の一途をたどっています.今日の情報技術の活用には,単なる最新技術の導入にとどまらない,組織的かつ総合的な「実践力」が問われていると言えます.
デジタルプラクティスは,現場の技術者や利用者の皆様が日々のIT活用の中で見いだした膨大な経験や知見を社会全体で共有し,実務に直接役立つ情報を提供することを目的として2010年に創刊されました.現在,IT関連業務に従事する技術者は国内だけでも百万人を超え,利用者は数千万人に達します.現場の最前線で積み重ねられてきた知見は,本来であれば広く共有されるべき貴重な財産ですが,個人や組織内など限られた範囲でのみ再利用されるにとどまることも少なくありません.本特集「企業における情報技術活用のプラクティス」は,こうした埋もれがちな実践知を社会全体で再利用可能な知見として整理し,研究者の学術的成果と社会実装の現場を結びつけるべく,企業コミュニティや関係団体において創出された優れた実践成果を広く紹介する目的で企画いたしました.本号においても,幅広い領域から実践的価値の高い8編の論文をご寄稿いただいております.
日立ITユーザ会より推薦いただいた黒本康介氏の論文「三菱UFJダイレクト刷新プロジェクトについて」では,金融機関におけるきわめて重要な顧客接点であるダイレクトバンキングサービスの刷新プロジェクトが紹介されています.高い信頼性と可用性が求められる金融サービスにおいて,利用者体験の向上とシステムの安定性・将来への対応力をいかに両立させるかは多くの企業の共通課題であり,大規模サービス刷新における貴重な実践知を提供するものです.
BIPROGY研究会より推薦いただいた松田裕介氏らの論文「生成AIを用いた設計書レビュー支援のための図表解釈精度評価」は,設計書レビュー業務に対し,マルチモーダルLLMを用いて業務フロー図やCRUD表の解釈精度を評価した先進的な取り組みです.画像入力とDSL(Mermaid)入力の比較を通じ,AIが機械的な整合性不備を高精度に検出できる一方,運用ルールなどの意味理解には限界があることを実証し,開発プロセスへAIを組み込むための現実的な評価観点を示していただきました.
IBM Community Japanからは2編をご推薦いただきました.中島航馬氏の論文「自律学習支援型AIを用いた未経験エンジニア研修における事例研究」は,IT人材不足に対し,未経験エンジニアの研修に直接解答を示さず調査方針をヒントとして与える「自律学習支援型AI」を導入した事例です.基礎学習における教育工数の削減や主体性向上に有効である一方,応用課題や実務文脈の補完には講師の役割が不可欠であるという,AIと人間の適切な協働の在り方が示されています.永里和哉氏らの論文「自然言語からの最適化モデル自動構築と自己修正」は,専門知識を要する数理最適化モデルの構築をLLMを用いて自動化するアプローチです.自然言語から変数や制約を抽出してモデルを自動生成し,実行結果のエラー検出と修正を自律的に反復する仕組みを構築した取り組みです.モデリングの専門知識と業務知識の橋渡しをAIが担うことで,構築工程の効率化と大幅な時間短縮が可能となる方向性を提示しています.
アシストソリューション研究会より推薦いただいた佐藤洋輔氏らの論文「データ利活用初学者向け 仮説検証実践フレームワークの提案と有効性検証」は,データ分析の初学者が自律的にデータを利活用するためのフレームワーク(シン・KKD)を提案し,有効性を検証したものです.技術先行型の学習から脱却し,「あるべき姿」と「現状」のギャップから問題を導出する課題解決型のアプローチを段階的に反復実践させることで,初学者の論理的思考能力や問題解決プロセスへの理解が大きく向上することが確認されています.
プログラミング能力検定協会より推薦いただいた飯坂正樹氏らの論文「大学入学共通テスト『情報I』と高等学校の現場での情報教育」では,共通テスト「情報I」の出題傾向の分析と,教育現場での実践が報告されています.難化したテストにおいてデータ活用の理解やプログラミングの思考力が問われる現状を明らかにし,昭和女子大学附属昭和高等学校,北海道札幌北高等学校,ラ・サール学園などにおける教育の最前線の工夫を通じ,今後の大学教育や社会との接続に向けた重要な知見を提供していただきました.
日本アクチュアリー会より推薦いただいた本山智暉氏らの論文「生命保険業界におけるレガシーシステムの課題とクラウドネイティブ化への移行戦略」では,安定稼働を続けてきた業界の基幹システムが抱える深刻な課題について論じられています.エンジニア不足や複雑な商品性に起因するシステム維持・刷新上の課題を浮き彫りにし,クラウドリフトからクラウドネイティブ化への段階的移行アプローチを提唱し,持続可能なIT基盤への移行に向けた戦略が示されています.
BIPROGY技報より推薦いただいた飯田優氏の論文「ミッションクリティカルシステムにおけるRPO/RTO短縮に向けた取り組み」では,重要システムにおける事業継続性の向上を目的として,目標復旧時点(RPO)および目標復旧時間(RTO)の短縮に向けた実践が紹介されています.デジタル依存度が高まる現代において,システム障害や災害発生時における迅速な復旧能力の確保という経営課題に対し,多くの読者の参考となる具体的なアプローチが示されています.
本号に掲載された各論文に共通しているのは,単なる新技術のトレンド追随にとどまらず,「現場の課題」を起点として,組織,業務プロセス,利用者,人材育成との関係の中で情報技術をいかに統合し価値を生み出すかという実践の姿が克明に描かれている点です.生成AIの活用,クラウドネイティブ化,レガシーシステム刷新,情報教育,ミッションクリティカルシステムの継続性確保はいずれも,技術そのものだけで完結する課題ではありません.そこには,現場への定着,リスクへの対応,将来変化への備えといった実践ならではの多角的な観点が不可欠です.
情報処理学会として,こうした企業および団体における「実践知」を社会へ広く還元することは,産業界と学術界の架け橋となり,情報技術の健全な発展に寄与するきわめて重要な活動であると考えます.デジタルプラクティスが,現場の技術者,利用者,研究者,教育関係者,そして経営層を含む多様な読者にとって,相互に学び合い,日々の実践と社会をつなぐプラットフォームとしてさらに進化していくことを願ってやみません.
最後に,多忙な実業務の傍ら,貴重なプラクティスをご執筆いただいた皆様に心より敬意を表します.また,本特集の企画・運営に多大なご協力をいただいた各協業団体の事務局,委員会,学会事務局の皆様,ならびに特集号コーディネータとしてご尽力いただいたデジタルプラクティス編集委員会の長坂健治氏に厚く御礼申し上げます.
(2026年7月4日受付)
斎藤彰宏
saitoha@tdp.ipsj.or.jp
日本アイ・ビー・エム(株)シニア・コンサルタント.1995年日本アイ・ビー・エム入社,長野オリンピックプロジェクトなどを経て,ITアーキテクト・コンサルタントとして企業・官公庁のシステム設計に従事.2011年より現職.本会会誌編集委員(2018〜2022),会誌編集委員会デジタルプラクティス専門委員会主査(2022〜2026),本会技術応用担当理事(2025年〜).
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