都市部の公共交通の混雑度はコロナ禍を経て減少した*1.しかし,利用者の混雑への不快感はむしろコロナ禍前よりも高い水準となっており,2023年度に国土交通省によって行われたアンケート調査では,鉄道を利用するにあたり重要と考える情報として,約7割の利用者が「すいている時間帯が分かること」「すいている乗車位置が分かること」「現時点の混雑度が分かること」を選択している[1].
これに対して交通事業者は,利用者がピーク時の乗車を避けるように時間帯ごとの混雑度を公開したり,オフピーク時間帯にのみ利用できる割引価格の定期券を提供するなどの取組を始めている*2.これらの多くは金銭的インセンティブによって混雑回避を促すものであるが,保健や教育などの分野では人々が自発的に望ましい行動を選択するように促す仕掛けであるナッジを活用することで,金銭的インセンティブを用いずに望ましい行動を促すことに成功した事例が現れている[2], [3].
そこで我々は,金銭的インセンティブを伴わない純粋な情報提供による公共交通機関のピークシフト効果を検証することを試みた.具体的には,ナッジを応用して混雑回避行動を促す誘導案内システムを提案し,Webアプリケーションを試作して実地実証実験を行い,混雑回避提案の応諾率を求めて,応諾率から公共交通のピークシフト効果を推定した.特に,Webアプリケーションでは,経路の混雑情報に加えて寄り道先となる店舗情報や混雑回避を促すメッセージなど複数の情報を組み合わせてひとまとまりの行動として提案することを試みる.
本研究の以降の構成は次のとおりである.第2章では関連研究とその課題について述べ,第3章では提案するナッジ応用誘導案内システムについて述べる.そして,第4章にて実地実証実験によるピークシフト効果推計方法とその結果について述べ,第5章に考察を述べる.最後に,第6章にて本研究の結論をまとめる.
交通分野では,情報提供によって行動変容を促す取り組みとしてMM(Mobility Management)が行われてきた[5].特に,過度な自動車利用を公共交通へシフトさせるため,効果的なMMの実施方法について様々な研究が行われている[6].しかしMMでは,情報提供手段はアンケート調査や,個別訪問,グループディスカッションであり,近年一般に普及している携帯端末を介した情報提供や,対象者の行動に即した情報提供の効果については検証されていない.
Rosenfieldらは,メールでの情報提供と金銭的インセンティブの2種類の介入による自動車利用の削減効果をランダム化比較試験にて検証しており,実験の前後で,情報を提供した群と金銭的インセンティブを付与した群,および,介入を行わない対照群の自動車利用頻度には有意差が無かったことを報告している[7].この報告では情報提供と金銭的インセンティブのどちらにも効果が認められなかったが,被験者には自動車利用を減らそうという意図があったにも関わらず,公共交通サービスが不十分であったことがモーダルシフトを抑制したという考察が示されている.望ましい行動であっても被験者の日常生活において実行に移すことが困難であれば,インセンティブを与えたとしても効果は現れない.このため情報提供による誘引効果の検証は,ある程度実行が容易な“望ましい行動”を対象として実験を行う必要がある.
次に,提供する情報の内容に着目すると,太田らは,CO2排出削減効果の情報を提供することで,環境配慮行動が促されるとの仮説を立て,アンケート調査形式の実験を行った[8].その結果,CO2排出削減効果の情報提供により行動意図を高め得ることが示されているが,それが実際の行動にどのような影響を及ぼすかについては明らかにされていない.
また,谷口らは,金銭的インセンティブ付与について,環境配慮行動に対して関心の無い利用者に対して最初の行動を誘発するという効果があるが,内発的動機を外発的動機に置き換えてしまうという副作用があることを指摘している[9].金銭的インセンティブを与える施策は利用者に行動を起こさせるきっかけとしては有効だが,インセンティブを得るために環境に配慮した行動をしているという認識を植え付けることになり,本質的な行動変容にはつながりづらいことが予想される.
一方で,交通事業者らによって,ナッジを活用し混雑回避を促す取り組みも行われている[10], [11].ただし,これらの取り組みによる混雑緩和効果は公開されていない.定量的な評価結果があれば,今後の取り組みの効果を見積もる助けとなり,別の交通事業者が類似した取り組みをはじめる後押しにもなるため,こうした取り組みの結果が公開されることには社会的な意義があると考える.
前節で述べたように,金銭的インセンティブを伴わない情報提供による公共交通機関の混雑緩和効果については,定量的な評価はなされていない.また,どのような情報提供が移動に関する行動変容に有効であるかは評価されていない.
そこで,本研究では,これらの2点を明らかにすることを目的とする.
情報提供による公共交通機関の混雑緩和効果を検証するために,ナッジを応用して望ましい行動選択を促す誘導案内システムを提案する.
英国の行動デザインチームBehavioral Insight Teamは,ナッジを用いた効果的な行動介入のためのフレームワークである“EAST”を定義している[12].EASTは,Easy,Attractive,Social,Timelyの4項目と11個の小項目から構成されるが,本研究では11個の小項目の内の8項目を選び,表1に示すように誘導案内システムに対して応用する.

まず,人が移動を計画するときや出発するときに合わせて行動変容を誘発する情報を提供するため,広く普及している経路検索サービスを介して情報提供を行い,移動中に確認できるよう検索した経路を保存できるようにする(表1のT-1, T-3).次に,面倒な手順を除き,なるべく簡単な方法で情報を提供するため,利用者に代わり混雑回避経路を検索し,選択肢として提示する(表1のE-2).さらに,利用者の関心を引くために,遅延や混雑など多くの人にとって役に立つ情報や,経路上の店舗を案内する(表1のA-1).最後に,社会規範を示し貢献意欲に訴えるために望ましい行動をとっている人の多さや,協力に応じることで社会貢献できることを示すメッセージを表示する(表1のS-1).これには「車内混雑緩和に協力いただきありがとうございます.安心で快適な車内空間を一緒につくりましょう.」のように感謝を示す文面,「寄り道で地元のお店を応援しよう!」のように地元への愛着を想起させる文面,「案内を受け取った人の30%がピークシフトに協力しています」のように同調意識に訴える文面がある.
前節で述べたように本研究で提案する誘導案内システムは,経路検索サービスを介して情報提供を行う.一般に,経路検索サービスは,目的地,出発地,出発または到着時刻等から成る経路検索条件を利用者から受付け,それらの条件を満たす経路情報の集合を利用者に提供する.ここで,経路情報は,与えられた出発地点から到着地点まで公共交通を利用して移動するための交通便や乗り場,発車時刻などから成る.都市部においては,複数の経路が利用できる場合が多く,経路検索サービスは最も早く到着する経路や,最も運賃が安い経路など,利用者の観点で良いとされる経路情報を優先的に提供する.
これに対してナッジ応用誘導案内システムは,利用者が与えた経路検索条件を元にしながら望ましい行動を促す経路情報を優先的に提供する.たとえば,混雑を回避する経路の利用を促す場合には,混雑度が一定値以下の区間で構成される経路情報が優先される.この経路は社会的な観点で望ましい経路であり,利用者の観点から最も良い経路ではない場合もある.しかし,利用者が混雑を回避することの意義を理解し,その経路を使うことによって生じる損失が許容可能な範囲であれば,利用者はその経路を選択することもあると考えられる.
以降,通常の経路検索で得られる経路情報を「通常経路情報」,誘導のために生成した経路情報を「誘導経路情報」とし,この2種類の経路情報を組にして提供することを「誘導案内」と呼ぶ.
ナッジ応用誘導案内システムの構成を図1に示す.ナッジ応用誘導案内システムは,混雑度付き経路情報を生成する機能と,利用者の携帯端末で稼働する誘導案内アプリケーションから経路検索要求を受け取り通常経路情報を生成する機能,通常経路情報の区間ごとの混雑度を判定する機能,混雑度が一定のしきい値以下の区間で構成される混雑回避経路を生成する機能,店舗情報サービスを利用して経路情報に寄り道店舗情報を追加する機能を備える.便や区間の混雑度は交通事業者が保有する輸送実績から季節,曜日,時間帯変動を考慮して推定した値を用いる.そして,通常経路情報の混雑度がしきい値よりも高い場合には混雑を回避する誘導経路情報を生成し,通常経路情報とともに誘導案内アプリケーションに返す.
ナッジ応用誘導案内システムの混雑回避経路について説明する.混雑を回避するには,移動時刻を変更するか,移動経路を変更するかという選択肢があり,移動時刻を変更する場合には前倒しか,後ろ倒しかを選択するため合計3通りの混雑回避経路が考えられる.さらに,移動時刻や移動経路を変えることで待ち時間が生じる場合には,その時間に店舗への立寄りを促す経路も考えられる.これらをまとめた混雑回避パターンを図2に示す.誘導案内では,これらの混雑回避パターンに基づく経路を生成し,利用者に選択肢として提示する.
寄り道店舗は,乗車駅,降車駅,乗継駅を起点として一定の距離内にあること,混雑回避のための待ち時間以内で立寄り可能であることを条件として選択する.さらに,昼間の移動時には昼食を取る,帰宅時には買い物をするなど,生活時間帯に合った種別の店舗を提案することで,立寄りを促す.
なお,誘導経路情報を構成する交通機関の混雑度や店舗情報は,利用者が一般的な経路検索サービスや,交通事業者Webサイト,店舗案内サービスを利用することで入手可能なものである.しかし,外出中に複数のサービスを使い分けて,検索条件を何度も変更しながら,これらの情報を探索することは負担が大きい.そこで,提案する誘導案内システムは,利用者に代わり混雑回避経路や寄り道店舗を検索し,ひとまとまりの具体的な行動として提案する.これにより,利用者は混雑回避可能な経路を試行錯誤することなしに選ぶことができ,行動変容の確率を高められると考える.
誘導案内システムによる情報提供のピークシフト効果を検証するために実地実証実験を実施した.
実地実証実験は,西日本鉄道株式会社のご協力をいただき,2022年2月10日から3月17日までの36日間,福岡県にて実施した.対象エリアは福岡の都心部である天神・博多・薬院,郊外との結節点である大橋,郊外の中核都市である久留米とした.誘導案内の対象交通手段は,これらのエリア内を運行する西鉄バスと,西鉄電車(貝塚線除く)である.
本実験では,誘導案内を実現するWebアプリケーション(以降,誘導案内アプリケーションと呼ぶ)を構築して,被験者に利用してもらい,①誘導案内アプリケーションの操作ログ分析,と②事後アンケートの2つの方法で,混雑回避提案の応諾率やピークシフト効果を評価した.被験者は,日常的に天神や博多,久留米地区へ移動する人を広く一般から募集し,822人に参加いただいた.この募集は,西日本鉄道株式会社ホームページ,および,LINE*3,(株)日立製作所ホームページを通じて行った.
被験者属性については,男性が37.6%,女性が40.3%,その他2.7%,回答なしが19.5%であった.事後アンケート回答者人数は165人であり,男性が41.5%,女性が51.6%,その他4.4%,回答なしが2.5%であった.
本実証実験のために開発した誘導案内アプリケーションでは,利用者が経路検索を行った際に,通常経路情報の区間ごとの混雑度を,空いている(混雑度1),やや空(混雑度2),やや混(混雑度3),混雑(混雑度4)の4段階で表示する.一般に,車両の混み具合は1台の車両に乗車した人数を車両の定員で割って導かれる混雑率で表される.本研究でも混雑率はこの定義にしたがって求める.混雑度はこの混雑率を簡易化し4段階で表現した指標である.経路情報,および,混雑度は,西日本鉄道株式会社より提供いただいた情報に基づき便・区間単位で算出した.特に混雑度は,便数や車両定員を含む運行計画情報と輸送実績から年次変動,季節変動,時間変動,天候の影響,および,COVID-19による外出抑制状況を考慮して予測した値を用いた.
そして,最大混雑度が3以上の区間がある経路については,図3,図4に示すように「出発時刻をずらす」「混雑していないルートを調べる」「気軽に行ける寄り道先を見る」の3種類の混雑回避ボタンと,協力を促すメッセージを表示する.利用者がいずれかのボタンを押下すると,誘導案内アプリケーションは混雑を回避する誘導経路情報を3件提案する.
なお,本実証実験では協力を促すメッセージの効果を比較するため,「人気のお店に寄ってみませんか?」「寄り道してゆったり移動しませんか?」のような個人の関心を引く文面と,「寄り道で地元のお店を応援しよう!」のような社会貢献意欲に訴える文面を表示し,メッセージの特徴と混雑回避ボタンの押下率の相関を分析した.この分析結果は別報として報告する予定である.
利用者が「出発時刻をずらす」ボタンを選択した場合に表示される時刻変更提案画面を図3に示す.時刻変更提案は経路を変更せずに出発時刻を変更することで混雑度が2以下となる誘導経路情報を作成して利用者に提示する.誘導経路情報は利用者が指定した検索条件によって異なり,出発時刻が指定されている場合はその時刻より出発時刻が遅くなるよう後ろ倒しになり,到着時刻が指定されている場合はその時刻までに到着するよう出発時刻が前倒しになる.
利用者が「混雑していないルートを調べる」ボタンを選択した場合に表示される経路変更提案画面を図4に示す.経路変更提案は,通常経路情報とは異なる経路であって,混雑度が2以下となる誘導経路情報を提示する.利用する便が変わるため出発時刻も変更になり,時刻変更提案同様に,利用者が指定した検索条件で出発時刻が指定されている場合は出発時刻が後ろ倒し,到着時刻が指定されている場合は出発時刻が前倒しになる経路を提案する.
誘導案内アプリケーションは,通常経路情報が混雑度3または4の区間を含む場合に,混雑回避のために商業施設への寄り道を促す.寄り道を提案する店舗は,混雑見込みの区間よりも手前にある出発地,および,乗継地の周辺にある店舗である.このときに,誘導案内アプリケーションは,混雑見込みの区間の混雑度が2以下になる乗車時刻を調べ,それまでの待ち時間に応じて店舗を選択する.そして,店舗での滞在後に混雑度が2以下の便を利用して目的地へ向かう経路情報を提案する.
利用者が「気軽に行ける寄り道先を見る」ボタンを選択した場合に表示される寄り道提案画面を図5に示す.経路上の出発地,到着地,乗継地に「寄り道おすすめ」ボタンと「車内混雑緩和に寄り道でご協力ください」「寄り道で地元のお店を応援しよう」など,寄り道を促すメッセージが表示される.このボタンを押下した場合には,おすすめの寄り道先として最大6件の店舗が提案される.提案される店舗は起点となるバス停からの距離が500 m以内の店舗の中から,朝はカフェやコンビニエンスストア,昼や夕方は飲食店,および,服飾・雑貨の小売店を提案する.また,誘導案内アプリケーションの初回ログイン時アンケートで,利用者の店舗選択基準として,駅やバス停からの徒歩距離を重視するか,リーズナブルさを重視するかなどを質問し,複数の候補店舗がある場合はこれら2つの基準により当てはまるものを優先的に提案する.提案する店舗情報は,外部の店舗情報サービスを利用して取得している.
寄り道提案画面で提案された店舗一覧から,利用者が店舗を選ぶと,その店舗の詳細ページに移動し,メニューや営業時間などの詳細内容を確認することができる.そして利用者が,その店舗を寄り道先として選択すると,通常経路情報にその店舗への立寄りが追加され,店舗利用の後に続く乗車便が変更される.
なお,本実証実験では,沿線の店舗利用を促すため,混雑区間が無い場合であっても,通常経路上に「寄り道おすすめ」ボタンを表示して,寄り道の提案を行った.
利用者には,上記の機能を持つ誘導案内アプリケーションを,一般的な経路検索アプリケーションと同様に利用してもらうよう依頼した.そして,利用者の操作ログから混雑回避案内の応諾率を求めた.混雑回避案内の応諾率とは,混雑回避案内が表示された検索の回数に対して,混雑回避ボタン(出発時刻をずらす/混雑していないルートを調べる/気軽に行ける寄り道先を見る)が押下された回数の割合である.
さらに,事後アンケートでは,誘導案内アプリケーションで提供したどの情報が,混雑回避行動を促進したか質問した.
ピークシフト効果を検証するには,誘導案内アプリケーション導入前後の対象便の混雑度を比較すべきである.しかし,西鉄バスの主要路線の1日の輸送人数は29.5万人*4であるのに対して,今回の被験者は822人でありピークシフト効果は現れづらい.このため誘導案内アプリケーションが一般的な乗換案内アプリケーションと同程度に普及した場合のピークシフト効果を推計する.便ごとに効果を推定するため,推計の対象範囲は日常的に対象便を使う乗客であり,乗客人数に普及率を乗算し,その人数に混雑回避提案が届けられるものとして効果を推計する.以下,この推計方法について述べる.
誘導案内アプリケーションの操作ログから,混雑回避ボタンが押下された割合(応諾率)を求める.応諾率は,混雑回避への協力の意思があり条件が合えば経路変更提案を受け入れる利用者の比率である.混雑回避ボタン押下は当初の検索条件から外れる他の経路を見ることなので,経路を変えても良いという意思表示と見なし,このボタンが押下された割合を応諾率として用いる.なお,利用者が「出発時刻をずらす」ボタンを押下して経路を調べたが,都合に合う経路が無かったので,次は「混雑していないルートを調べる」ボタンを押下して経路変更を試みるなど探索的な操作をすることも想定される.そこで,同一目的地,同一出発または到着時刻の経路検索において混雑回避ボタンが複数回押下された場合には,最後に押下されたボタンを最終的に応諾したとみなす.
この応諾率から,混雑回避提案に協力してくれる利用者数を計算する.路線やバスの系統によって利用者属性が異なることを考慮すると,応諾率は個別に求めることが望ましいが,路線・系統別にするとデータ数が少なくなり精度が落ちるため,今回の実証実験では対象エリア全体で応諾率を求める.
利用者が「出発時刻をずらす」または「混雑していないルートを調べる」の混雑回避提案で選択した誘導経路情報と,元の通常経路情報との出発時刻の差分の分布を求める.この分布は,利用者がどの程度の出発時刻変更を許容するかを示すものであり,前後30分単位の変更幅に対する度数分布表として,手順3にて乗車便変更人数の算出に用いる.
推計の対象とする鉄道路線またはバス系統について,輸送実績から乗車人数を予測し,各便の駅または停の出発時乗車人数を付与した乗車人数付運行計画表(図6)を作成する.図6ではXYX便のA停発車時の乗車人数,つまり,区間AからBの乗車人数は45人である.この表から混雑度が3または4となる便と区間を選択し対象便・対象区間とする.
次に,その対象区間の乗車人数に誘導案内アプリケーションの普及率を乗算して誘導案内アプリケーションが普及した場合の誘導案内アプリケーション利用者数を求める.そして,更にその人数に混雑回避提案の応諾率を乗算し乗車便の変更に応じる応諾人数を求める.この応諾人数aPiは,区間iの乗車人数をPiとし,アプリケーション普及率をu,応諾率をaとして以下の式で表される.\[a{P_i} = {P_i} \cdot u \cdot a\]
ただし,多くの利用者はある時刻までに目的地に着くように移動しており,ピークシフトへの協力の意図があったとしても許容可能な時刻変更の向きと変更幅には制限がある.このため,制限の範囲内で空いている便があるかを確認し,空いている便がある場合のみ乗車便の変更が行われるものとする.そこで,応諾人数を手順2で求める変更幅の度数分布に応じて按分し,前後便への移動が許容できる乗車便変更人数を算出する.具体的には,変更幅jへの変更を許容する乗車便変更人数cPi,jは以下の式で求める.nsは度数分布表における変更幅Sの度数であり,Sは変更幅の集合である.変更幅は手順2で作成する分布によって決まる.たとえばS={-60~-30, -30~0, 0~30, 30~60} は30分単位で60分後ろ倒しから60分前倒しまでの4つの変更幅の集合を表す.\[cP_{i,j} = aP_i \frac{n_j}{\sum \nolimits_{s \in S} n_s}\]
次に,対象区間の出発時刻から変更幅jまでの間に区間iを走行する前後便の混雑度を乗車人数付運行計画表で確認し,対象便より混雑度が低い便を探す.該当する便がある場合にはその便を移動先として選択し,乗車便変更人数Ci,jを1人ずつ移動先の便に割り付ける.なお,移動先の便の混雑度が割り付けによって3または4に変化する場合には,その手前で割り付けを終了する.変更幅jで空いている便が無い場合には乗車便の変更は行われないものとする.
以上の処理をすべての変更幅について実施する.そして,割り付けに成功した人数を,予測した乗車人数から引き,変更先へ加えることで誘導案内アプリケーション導入後の区間iの乗車人数を推計する.
ここで,図6の乗車人数がどの程度の混雑であるかについて補足する.一般的な路線バスの仕様は座席30席,つり革8個,ポール13本であり,乗車人数が21人の場合は空席が残っているが,56人では席やつり革はすべて埋まり立ち客が多い状況である.
実証中の経路検索について,通常経路情報が混雑度3または4となったのは3773回中の789回で約21%であった.そして,混雑度3または4の場合の混雑回避ボタンの押下率は約28%であった.各ボタンの押下率を図7に示す.
次に,時間帯別の混雑回避ボタンの押下率を図8に示す.混雑が発生しやすい朝7~10時台,夜16~19時台の混雑回避ボタン押下率はそれぞれ29.3%,36.3%であった.この時間帯別の混雑回避ボタン押下率を応諾率としてピークシフト効果の推計に用いる[13].
出発時刻の変更幅の分布を図9に示す.変更幅とは利用者が「出発時刻をずらす」または「混雑していないルートを調べる」の混雑回避提案を受け入れたときに選択した誘導経路情報と,元の通常経路情報との出発時刻の差分である.差分の平均値は31.2分,標準偏差は99.6分であり,30分以内の後倒しを選択する被験者が多いという結果であった.
ピークシフト効果を推計するには,誘導案内を届けられる利用者の割合を考慮する必要がある.このため,事後アンケートで交通系アプリケーションの利用について質問した.アンケートの結果,西日本鉄道株式会社が提供する「にしてつバスナビ」の利用者が最も多く,回答者の77.4%が利用していた.そこで,本実験ではこの利用率は交通系アプリケーションが到達し得る普及率であると考え,誘導案内アプリケーションの普及率を77.4%としてピークシフト効果を推計する.
実験対象エリアでは鉄道よりバスの混雑率が高いため,本研究ではバスを対象としてピークシフト効果を推計することにした.まず,福岡市都心部から混雑率の高いひとつの区間を対象として選定し,その区間を運行する複数系統の便の乗車実績から,その区間の混雑率の時間推移を作成した.これを,バス系統Xの区間ABとし,この区間ABを対象としたピークシフト効果を推計する.系統Xの区間ABの朝,夜別の推計ピークシフト効果を表2に示す.推計ピークシフト効果とは,4.2.1で述べた方法で予測した便・区間単位の乗車人数から求めた混雑率と,4.2.2で述べた方法で推計した誘導案内アプリケーション導入後の乗車人数から求めた混雑率との差分である.

推計の結果,上り方向のA停→B停では,朝ピーク時は12.0ポイント,夜ピーク時は13.2ポイントの混雑率削減効果が見込める.下り方向B停→A停の朝ピーク時は20.8ポイント,夜ピーク時は11.0ポイントの混雑率削減効果が見込める.
区間ABの上り方向の混雑率推計値の時間推移を図10に,下り方向の混雑率推計値の時間推移を図11に示す[13].なお,図10は30分ごとにA停からB停を運行する複数の便の混雑率最大値を取ったものである.最も混雑率削減効果が高かったのは朝の下り方向である.下り方向では朝の混雑継続時間が比較的短く,一定時間内の時刻ずらしで空いているバスを見つけやすい.一方,上り方向については,朝より夜の混雑継続時間が短いにも関わらず削減効果は朝のほうが高い.これは,夜の上り方向の混雑率がそもそも高くないために,混雑回避提案の回数が少なかったからである.
バスの混雑率について補足説明を加える.鉄道であれば混雑率が100%超えることは珍しくないが,図10,図11に示す混雑率は誘導案内アプリケーション導入前であっても100%に達していない.しかし,バスの混雑率は鉄道に比べ低い値で表されるため鉄道と単純比較することはできない.国土交通省が公開する「公共交通のリアルタイム混雑情報提供システムの導入・普及に向けたガイドライン(バス編)」*5では,座席がすべて埋まり,座席側のつり革・手すりが半分以上利用されている状況を「混雑」と定義している.この定義に基づいて「混雑」時の乗車人数を計算すると,一般的な路線バスの仕様は定員70人,座席30席,つり革8個,ポール13本として,座席とつり革を38人が利用し,ポールを7人が利用している状況となるので乗車人数は45人である.この場合の混雑率は64%であり,バスにおいては100%に達していなくても十分に「混雑」した状態となる.
誘導案内アプリケーションで提供した情報が移動に関する行動変容に有効であるかを操作ログ,および,事後アンケートにて確認した.
実証期間を通して,寄り道提案を行った経路検索の回数は2256回であり,寄り道先となる店舗一覧が表示された回数は7345回であった.1回の経路検索に対して3通りの経路が提案され,1つの経路について,乗車停と乗継停など複数の地点を選んで店舗一覧を表示できるため,店舗一覧表示回数は検索回数の3倍以上となっている.
4.2.1で説明したように,店舗一覧表示画面から被験者が店舗を選択して店舗情報を閲覧し,「ルートに追加」ボタンを押下すると,その店舗が経路に組み込まれる.この「ルートに追加」ボタンの押下回数は730回であった.
以上より,検索回数に対する「ルートに追加」ボタンの押下回数,すなわち検索回数に対する店舗情報閲覧率は29.5%であり,店舗一覧の表示回数に対する店舗情報閲覧率は9.9%であった.経路検索3回のうち1回は,寄り道おすすめ店舗の詳細情報が閲覧されていたことになる.
次に,混雑の有無別に店舗一覧表示回数に対する店舗情報閲覧率を表3に示す.空いている場合,つまり混雑度1または2の場合の店舗情報閲覧率は9.5%,混んでいる場合,つまり混雑度3または4の場合は11.1%であった.経路が混雑している場合は,閲覧率が絶対値で1.6ポイント,相対値で16.8ポイント高くなっている.この結果についてカイ二乗検定を行った結果,p値は0.047であり有意差があることが認められた.この経路上の店舗情報表示は,検索エンジンにてキーワード検索を行った際にキーワードに関連した広告が表示されるキーワード連動型広告に近いと考えられるため,店舗情報閲覧率を上記広告のCTR(Click Through Rate)と比較する.一般的なCTRは,検索連動型の広告で3.17%,Webサイトやアプリ上のディスプレイ広告で0.37%程度である*6.本実験の店舗情報閲覧率はそれらを上回っており,経路案内と合わせて寄り道店舗情報を提供することの広告効果は高い.また,CTRを1%でも向上させるために様々な工夫が重ねられていることを考慮すると,1.6ポイントはわずかな差ではあるが,混雑情報表示は店舗情報の閲覧率を高めるに有効な手段であるといえる.

実証実験後にアンケートを行い,誘導案内アプリケーションで提供した情報の有用性について調査した.質問項目を以下に示す.
Q.1 Webアプリのルート検索で表示されていたバスや電車の混雑情報は参考になりましたか?
Q.2 Webアプリを使っているときは,混雑を避けた移動をしようと思いますか?
Q.3 Webアプリで表示された以下の情報(図12)は行動選択にどの程度影響を与えましたか?
Q1, Q2の回答結果を図13に示す.68.3%の回答者が混雑情報を参考にしており,84.1%の回答者が誘導案内アプリケーション利用時には混雑を避けた移動を意識していたことが分かる.
Q3の回答を図14に示す.半数以上の回答者が混雑情報や遅延情報をきっかけに「行動を変えようと思った/行動を変えた」と回答している.また,おすすめの店舗情報やメッセージについても,3割から約4割の回答者が行動を変えるきっかけとなったと回答している.
以上より,経路検索アプリケーション上でこのような情報を提供することは,混雑回避や沿線の店舗利用を促すために有用であると考えられる.
本研究の実証実験では,誘導案内アプリケーションの操作ログに基づいて,情報提供のみで利用者が自ら行動を変える確率(応諾率)を求め,公共交通のピークシフト効果を推定した.その結果,混雑回避提案の応諾率は28%であった.混雑時には,アプリケーション利用者の4人に1人は混雑回避提案に応じる可能性があること示している.さらに,上記の応諾率に基づいてピークシフト効果を試算し,ピーク時の混雑率を最大20.8ポイント低減できる見込みであることが分かった.今回は,評価用に複数系統をひとつにまとめた仮想的な系統Xを定義したが,複数系統のバスが運行する区間では,発着地点や運行距離が異なる便が混在するため,混雑率の高い便の後に比較的空いている便が来ることがあり,単一の系統よりも複数系統で試算するほうが,効果が現れやすい可能性がある.一方で,混雑が激しく乗車するまで何便か見送るような場合には,空いている前後の便を見つけることができないため,ピーク時の混雑率を下げることは難しい.本研究の誘導案内は,混雑度に差がある便が混在する区間や混雑が比較的短時間で収まる区間に適した手法である.
事後アンケートでは,混雑情報は行動を決める重要な情報であることが確認された.それゆえに,予測が外れ混雑回避を提案されたにも関わらず,実際には混雑していないという状況を経験した利用者は混雑回避提案に応じなくなることが想像される.混雑回避提案を受け入れてもらうには混雑度の予測精度が重要である.なお,今回の実証実験では「79%の被験者が体感と差が無かった,または,ほとんど差が無かった」と回答している.
次に,被験者について考察する.実験に参加した被験者は公共交通に関心を持つ人々であり,一般的な利用者より経路検索アプリケーション普及率や応諾率が高いと考えられ,ピークシフト効果にセレクションバイアスが生じている可能性は否定できない.この点を考慮すると,本研究で推定したピークシフト効果は高めに算出されている可能性がある.
続いて経路検索アプリケーションを通じた混雑回避提案の有効性について考察する.朝夕のピーク時は一般的に通勤通学客の利用が多いが,毎日同じ経路を利用する通勤通学者は,必ずしも移動の度に経路を検索しない.しかし,図8の時間帯別応諾率が示すように,今回の実証実験では朝夕の混雑時間帯に経路検索が行われていることが確認され,通勤通学者にも混雑回避提案を届けられたと考える.なお,「にしてつバスナビ」は遅延情報を表示しており,毎日使う経路でも実際の到着時刻を確認するために見るという使い方がある.今後,遅延に加え混雑情報や寄り道店舗情報が追加されれば,経路検索アプリケーションを開く機会が増え,ピークシフトの働きかけが対象とすべき人に届きやすくなるであろう.これは,前述したアプリケーション普及率や混雑回避への意識を高める有効なアプローチになる.本研究で推計したピークシフト効果は意識の高い利用者を対象とした結果ではあるが,今後の取り組みによって人々の意識を高めていくことは可能であると考える.
残課題として,今回の評価では,経路変更を選択した利用者が,他系統のバスに変更することで新たに生じる混雑は考慮していない.また本研究の実証実験では,利用者が実際に提案された混雑回避経路で移動したかは確認できていない.これを確認するには,記名ICカードなどで記録した個人の乗車実績との照合が必要であり,乗車実績という個人情報の利用許諾と適切な管理機能を備えた実証システムを構築することが求められるため今後の課題である.
さらに,本研究では交通便の混雑回避という課題に着目したが,誘導案内システムは,混雑する駅での乗り換えを避けてもらう,工事により設備の一部が使えない駅を回避してもらうといった他のユースケースでも活用可能なものと考えられる.
最後に,本研究の実証実験では,金銭的インセンティブ提供は行わなかったにも関わらず,822人の一般の被験者に参加いただくことができた.これは,公共交通の混雑緩和への関心の高さを反映していると考えられる.今後,ナッジをはじめとする行動科学の知見を活用して人々の協力を促し,自主的な行動変容を促す仕組みが期待される.
本研究では,ナッジを応用して金銭的インセンティブを伴わない情報提供のみで混雑回避行動を促す誘導案内システムを提案し,実地実証実験を行うことで,公共交通機関の混雑緩和効果を推定した.その結果,混雑回避を促す誘導案内情報を受け取った人の28%は提案に応じる可能性があることが分かり,ピーク時の乗車率を最大20.8ポイント低減できる見込みを得た.
今後は,実証実験で得られた知見を活かし,ナッジ応用誘導案内システムの改善に取り組む.
謝辞 本研究の実証実験は,西日本鉄道株式会社のご協力をいただき実施しました.実証実験にご協力いただいたみなさまに謹んで感謝の意を表します.
株式会社日立製作所 研究開発グループ システムイノベーションセンタ ビジネスアーキテクチャ研究部 主任研究員.都市交通に関する研究に従事.博士(情報科学).
株式会社日立製作所 社会システム事業部 モビリティソリューション&イノベーション本部 技師.鉄道事業者向けの駅や沿線エリアを対象としたDXソリューションの顧客協創・事業化推進に従事.
2013年北海道大学大学院情報科学研究科修士課程修了.同年,株式会社日立製作所入社.組込みシステムのソフトウェアテスト技術や行動変容の研究開発に従事.
2009年中国南開大学微電子学修士課程修了.2012年福井大学設計専攻博士号取得.2014年,株式会社日立製作所入社.現在技術系カーボンクレジット創出向けのMRVシステムの研究開発に従事.
株式会社日立製作所 研究開発グループデザインセンタ UXデザイン部 デザイナー.鉄道や航空分野の旅客案内サービスUI/UXデザイン,および,顧客との協創によるモビリティ分野のビジョンや新サービス創生に従事.
株式会社日立製作所 研究開発グループ システムイノベーションセンタ ビジネスアーキテクチャ研究部 ユニットリーダ主任研究員.モビリティに関するデジタルソリューション創生に従事.
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