現代社会において,健康問題や交通混雑,感染症など様々な社会課題が存在し,我々の生活や環境に影響を与えている.それらの社会課題の中には人々の行動の集積によって生じるものもあり,より良い社会の実現のために人々の行動変容を促すことが重要である.行動変容の重要性を想起させる昨今の象徴的な出来事として,新型コロナウイルス感染症(COVID-19) [1]の発生が挙げられる.コロナ禍においては,換気の悪い密閉空間(Confined and enclosed spaces),多数が集まる密集場所(Crowed places),間近で会話や発声をする密接場面(Close-contact setting)の三密(3Cs)を避けることが推奨され,クラスター発生防止のために呼びかけをはじめとする行動変容施策が実施されてきた[2].一方,人間の思考や社会構造は単純ではないため,たとえ自身の行動が課題解決に寄与すると認識していてもそのための行動に変更することは容易ではない.したがって,より高い確度で行動変容促進を可能とする手法の確立と,そのための行動変容効果の測定は社会課題解決のために意義がある.
行動変容のための従来研究は様々あり,代表的かつ効用の高いものとして,金銭的な報酬を提示する経済的インセンティブ[3], [4]が挙げられる.また,非経済的行動変容手法として,ゲームのルールやデザインをゲーム以外に適用するゲーミフィケーション[5]や行動経済学に基づき人間の心理に働きかける手法であるナッジ[6], [7]などが有効であると報告されている.
しかし,経済的インセンティブや非経済的行動変容手法は行動変容に有効な一方で,その効果は万能ではない.経済的インセンティブは適用領域が広く,その量が多いほど行動変容促進が期待できるが,その原資は通常有限である.また,一部の研究ではナッジは効果があるもののその効果は小さく持続性も低いことが示されており[8],報酬を必要としない行動変容手法の効果には限界がある.
そこで,効用の高い経済的インセンティブを金銭的報酬に依存しない非経済的行動変容手法に組み合わせる方法が考えられる.実際,経済的インセンティブにナッジを組み合わせた介入の有効性が報告されており[9], [10],経済的インセンティブやナッジ単体よりも組み合わせることでより行動変容を促すことが可能である.また,多くのゲーミフィケーション事例にはポイントやクーポンなどの金銭的価値に換算できる報酬が組み合わされることが多く[5],ゲーミフィケーションにおける経済的報酬はモチベーションの喚起に重要な要素である.一方,組み合わせによる相乗効果を図った手法の効果検証において,次の2点の経済的インセンティブの特性に留意する必要がある.1点目は,組み合わせる経済的インセンティブ量が適切でない場合,非経済的行動変容手法との組み合わせによる行動変容効果の測定が困難になってしまう点である.たとえば,経済的インセンティブ量が極めて多い場合,経済的インセンティブが占める行動への寄与率が高くなり,非経済的な行動変容手法の効果に関係なく行動変容に至る可能性が高くなってしまう.結果として,経済的インセンティブ以外の非経済的行動変容手法の効果測定が困難となる.また,逆に経済的インセンティブ量が極めて少ない場合,経済的インセンティブによる行動変容効果向上が期待できない.この多過ぎず少な過ぎない適切な経済的インセンティブ量を組み合わせることが重要である.2点目は,最初に提示した量が基準となりその後の効果が低減してしまうアンカリング効果[11]が働く可能性がある点である.つまり,はじめに多量の経済的インセンティブを提示することでその値が基準となるため,それ以降に提示する経済的インセンティブ量における行動変容効果が低減してしまう恐れがある.
本来,適切な経済的インセンティブ量を把握できていない状態でこのような組み合わせによる行動変容効果を測定する場合は,ランダム化比較実験により検証を行うことが望ましい.しかし,経済的インセンティブの種類の数をN1,非経済的行動変容手法の種類の数をN2とすると,検証群数はN1N2となり,一群あたりのサンプルサイズが小さくなり検証が困難になってしまう.
そこで本稿では,経済的インセンティブを組み合わせることを前提とした非経済的行動変容手法の効率的な効果検証を行うための実験設計方法について提案する.具体的には,経済的インセンティブのみの効果を測定するフェーズ1と非経済的行動変容手法に特定の経済的インセンティブ量を組み合わせるフェーズ2からなる2段階の実験設計である.
さらに本稿では,本実験設計方法に基づき実施した実証実験とその結果について提示する.飲食店におけるタイムシフトとテイクアウトを促進する実証実験を実施した結果,経済的インセンティブとの相乗効果を獲得したうえでナッジおよびゲーミフィケーションの効率的な検証が可能となることを確認した.
本章では,経済的インセンティブと非経済的行動変容手法としてナッジおよびゲーミフィケーションの概要を述べ,それらを組み合わせた関連研究について提示する.
インセンティブとは,人の意思決定や行動変容を促すための外発的な要因や報酬を表す.マズローの欲求階層理論[12]に従うと,一般的に物質的インセンティブ,評価的インセンティブ,人的インセンティブ,理念的インセンティブ,自己実現的インセンティブの大きく5種類が挙げられる.特に,人が生存するために必要な生理的欲求を満たすための物質的インセンティブの重要性が示唆されている.物質的インセンティブは,金銭そのものだけではなくポイントやクーポンなどの決済の代替となり得るもの,あらゆる物品やサービス等の人間の営みの中で価値のある報酬全般を指す.本稿においては,物質的インセンティブの中でも幅広い用途で活用可能な報酬である金銭そのものや金銭への置き換えが可能なポイントを“経済的インセンティブ”と定義する.
ゲーミフィケーションとは,ゲームのルールやデザインなどの要素をゲーム以外の物事に適用することを表し,サービスや組織の生産性向上,教育,ユーザエンゲージメント向上など幅広い領域の社会活動に応用されている[5], [13].元来,ゲームの要素は人間の行動や快楽,心理に基づいて設計されており,その仕組みを活用することで社会活動であってもゲームのようにモチベーションの向上や維持が可能となる.
ナッジ(Nudge)とは,Richard H Thalerらによって提唱された理論[6]であり,行動の意思決定の際に強制することなく自発的に当人や社会にとって望ましい行動を促す仕組みや仕掛けを表す.ナッジは,人間は必ずしも合理的には行動しないという特性を踏まえ,周囲の環境やこれまでの経験,直感等の先入観による認知の偏りや思考の癖に基づき設計される.こうしたナッジは様々あるが,本稿では認知バイアスに基づくフレーミング効果[14]によるメッセージングをナッジとして扱う.フレーミング効果とは,意思決定における選択肢において,論理的に等価であったとしても情報の提示の仕方によって心理的な受け取り方に変化が生じる効果である.たとえば,以下の2つの文章は等価であるため,どちらを見ても合理的に考えると同様の選択率のはずである.
しかし,人はリスクを回避しようとする傾向があるため,前者を見た方が手術を選択する可能性が高い.このように,フレーミングでは人の有する認知バイアスを考慮した文言設計にすることで,訴求効果の向上が期待できる.
これらの要素を組み合わせた相乗効果により行動変容を促進する事例はいくつか存在する.たとえば,エクササイズプログラムへの参加を促す研究[9]では,経済的インセンティブと非経済的行動変容手法を組み合わせた介入の有効性を示している.一方で,経済的インセンティブ量の妥当性については言及されていない.設定された経済的インセンティブ量が偶然妥当な値であった可能性もあり,異なる値の場合に同様の結果が得られるかは不明である.たとえば,経済的インセンティブ量が極めて多かった場合は他要素とは関係なく行動変容に至りやすいため,コントロール群と検証群に優位差が生じない可能性がある.同様に,経済的インセンティブ量が極めて少ない場合,コントロール群と検証群の優位差を確認できても経済的インセンティブによる効果は加味されない結果となってしまう.
また,経済的インセンティブではなくあくまでゲームの枠組みにおける報酬の文脈ではあるが,ポイントベースの報酬システムを有するゲーミフィケーションが及ぼす子供の健康行動への影響についての研究が存在する[15].この研究では,報酬の有無によって行動特性が変わることを示している.さらに,行動の強度によらず同一の報酬を提示したことから,報酬を最大化するために強度の低い行動ばかりを実行するようになる傾向を提示している.これは,行動の強度に応じた適切な報酬を設定することの重要性を示唆しているが,行動ごとの適切な報酬の設定方法については言及していない.
さらに,様々なゲーミフィケーションの研究に関する文献のレビュー論文[5]も存在し,ゲーミフィケーションにおける報酬として経済的インセンティブが組み合わせられることが多いことが分かる.一方で,インセンティブによってゲーミフィケーションで高められた動機付けの効果が低減し,ゲーミフィケーションの本質的な効果が損なわれる可能性があることが報告されている.
これらの関連研究を踏まえると,経済的インセンティブをナッジやゲーミフィケーションに組み合わせる際に適切な量でない場合に動機付けの効果が低減してしまう可能性があるため,適切な経済的インセンティブ量の設定方法には課題があると言える.
本稿では,経済的インセンティブとの相乗効果を獲得した非経済的行動変容手法の効果検証を効率的に行うことを目的とし,組み合わせるための経済的インセンティブ量の設定方法に焦点を当てた実験設計方法を提案する.具体的には図1のとおり,経済的インセンティブのみで効果測定を行い,目的に応じた経済的インセンティブ量を特定するフェーズ1と,非経済的行動変容手法にフェーズ1で特定した経済的インセンティブを組み合わせて効果測定を行うフェーズ2の2つのフェーズから成り立つ.
フェーズ1では,目的の行動変容を促すために適切な経済的インセンティブ量を特定するための効果測定を行う.そのために経済的インセンティブをある程度少ない量からある程度多い量まで設定し,行動変容効果を測定する.その際,はじめに与える情報がのちの意思決定に影響を及ぼすアンカリング効果[11]が働く可能性があることを考慮する.すなわち,最初に多量の経済的インセンティブを提示した場合,それよりも少ない経済的インセンティブによる介入の行動変容効果が低下する恐れがある.そこで,はじめに少ない経済的インセンティブ量を提示し,徐々にインセンティブ量を増加させる方法をとる.
次に,経済的インセンティブのみによる介入結果をもとに適切な経済的インセンティブ量を選択する.その際,促したい行動や検証したい内容,許容できる行動変容率,インセンティブ原資などを鑑みて総合的に判断する必要がある.たとえば,平均的な行動変容率を組み合わせることを目的とするのであれば,経済的インセンティブ全体の平均行動変容率を基準とし,その基準やそれに近い行動変容率である経済的インセンティブ量を適切と判断することができる.
フェーズ2では,選択した1種類以上の経済的インセンティブ量に非経済的行動変容手法を組み合わせる.相乗効果が見込めない経済的インセンティブ量を除くことで,非経済的行動変容手法の効果検証の際,経済的インセンティブによる行動変容効果を反映させた検証が可能となる.また,多量の経済的インセンティブ量を除くことで,経済的インセンティブの過剰な影響を受けにくくなるため,非経済的行動変容手法の効果検証が可能である.つまり,本実験設計方法では,経済的インセンティブによる行動変容効果を加味したうえで非経済的行動変容手法の効率的な効果検証を可能とする.
本章では,第3章で述べた実験設計方法に基づき実施した実証実験の内容とその結果について提示する.
株式会社NTTドコモと九州大学は,コロナ禍における混雑緩和を目的として,2021年度に九州大学伊都キャンパスで行動変容を促す実証実験を行った.なお,本実証実験は,九州大学倫理委員会の承認(承認番号:シス情認2021–08)を得て実施したものである.
混雑緩和のための行動変容の実証実験全体像を図2に示す.具体的には,ランチタイムにおける混雑回避を想定し,キャンパス内にある4つの飲食店でランチタイム前(11:00~12:00)もしくはランチタイム後(13:00~14:00)に訪問を促すタイムシフト,ランチタイム(12:00~13:00)にイートインではなくテイクアウトを促す行動変容の検証を実施した.非経済的行動変容手法であるナッジやゲーミフィケーションに経済的インセンティブを組み合わせた行動変容効果の検証のため,本提案に基づき実験設計を行った.
実証実験への参加を希望した九州大学の学生約1,600名を対象に実証実験専用アプリケーションを配布した.実証実験専用アプリケーションを通じて,混雑緩和を目的としたタイムシフトおよびテイクアウトの行動変容のためのキャンペーン情報を対象日にそれぞれ1日1回の配信を行った.PUSH通知配信を行動変容の起点とし,アプリでPUSH通知と同様の文言およびキャンペーンの詳細確認ができる仕様とした.被験者はタイムシフトまたはテイクアウトを行うことで,経済的インセンティブとしてNTTドコモが提供するdポイントを受け取ることが可能である.なお,行動変容に必要なポイント数は個人差が存在すると考えられるが,本実証実験は経済的インセンティブと非経済的行動変容手法の相乗効果を獲得した行動変容効果の測定が可能であるかを検証するためのものである.したがって,本実証実験においてはユーザごとの経済的インセンティブに対する効果は考慮せず,設定したポイント数を一律で提示および配布した.
行動変容に至ったかの定義は図2中段に示すように,キャンペーン情報受信後にアプリのキャンペーン画面の“参加する”ボタンを押下し,特定の時間帯に対象店舗に設置されたQRコードを現地でスキャンすることである.特定の時間帯とは,タイムシフトについては混雑時間帯を避けた指定の時間帯,テイクアウトについては指定の混雑時間帯のことを指す.今回はコロナ禍における混雑回避という社会的需要に基づき,タイムシフトとテイクアウトという混雑回避行動の有無について分析する.なお,参加者が十分に集まらなかった場合を考慮し,タイムシフトおよびテイクアウトをコロナ禍における混雑回避行動として合わせて分析を実施した.また,被験者には,アプリケーションプライバシーポリシーや説明会を通じて三密回避のための実証実験である趣旨を事前に伝えることで,参加の際はタイムシフトやテイクアウト等の意図する行動変容を促した.さらに,不正によるポイント取得を検知した場合はアカウント停止とポイント剥奪の可能性があることを周知することで,実験者の意図しない行動を抑制した.
このキャンペーン情報の配信を通じて,経済的インセンティブ,ナッジおよびゲーミフィケーションの検証を実施した.その際の経済的インセンティブ量の設定,検証群の設定および実施スケジュールは図3に示すとおりである.なお,フェーズ2以降の経済的インセンティブ量は実証開始前にあらかじめ設定したものではなく,フェーズ1の結果を踏まえ設定したものである.また,被験者の多くは学生であるため,夏季休暇期間および休日の影響を考慮し,大学の休講日を避けたうえで検証を実施した.具体的には,経済的インセンティブの検証を行うフェーズ1を2021年5月31日~2021年8月6日,ナッジに経済的インセンティブを組み合わせた効果検証を2021年10月4日~2021年12月3日,ゲーミフィケーションに経済的インセンティブを組み合わせた検証を2021年12月6日~2021年12月24日に実施した.
本実証実験におけるフェーズ1として,dポイント配布による行動変容の検証を実施した.本フェーズにおける配布ポイント数は[1, 5, 10, 50, 100, 150, 200]であり,週次でポイント数を増加させた.なお,週ごとのポイント数は単一の設定ではなく,[1, 10, 50]や[1,10]のように3つないし2つのレンジを設定した.その際,単調増加という規則性を持たせないために日ごとのポイント数はその週のレンジ内からランダムに選択した.
また,PUSH通知タイトルを“お得な情報({店舗名})”とし,通知本文にポイント数を明記した.具体的には,“混雑時間帯({hh:mm−hh:mm})をずらしてご利用で{n}ポイントGET!!”,“混雑時間帯({hh:mm−hh:mm})はテイクアウトをご利用で{n}ポイントGET!!”である.{店舗名}はいずれかの店舗名,{hh:mm−hh:mm}は混雑時間帯,{n}は提示ポイント数を表している.なお,これらの文言はアプリのキャンペーン画面にポイント獲得の判定条件であるキャンペーン時間とともに表示した.
本研究とは別に,筆者である落合らは本実証実験データを利用して店舗混雑状況やユーザのアプリ利用状況に応じたダイナミックプライシングのための複数のモデルを構築した[4].今回の検証においては,続くフェーズ2で組み合わせる経済的インセンティブ量の抽出のためにそのモデルの一部を利用し,図4に示すとおり,ポイントPが与えられたときの行動変容率Bのモデル化により需要予測を行った.本節では,そのモデルについて概説し,組み合わせる経済的インセンティブ量決定までのプロセスについて述べる.
本検証におけるログとして日ごとに介入回数xiと介入結果である実際の行動変容回数yiが蓄積される.すなわち,行動変容率はyiをxiで除算することで得られる.利用するモデルは,価格弾力性ξと一般化線形モデル(GLM: Generalized linear Models)であるポアソン回帰に基づく手法[4], [16]を採用し,観測が小さな単位で行われる場合でも有効であるとされている[16].価格弾力性とは,価格が変化したときの需要の変化を数値化する経済学の概念であり,今回は配布ポイント数を価格,行動変容率を需要と置き換えてモデル化を行った.まず,ポイントPと行動変容率Bの関係を表す指標である価格弾力性ξは次式で定義される.\[\xi = - \frac{\Delta B/B}{\Delta P/P}\](1)
価格弾力性ξがモデル化におけるポイント範囲内で一定であると仮定し,差分関係が微分関係であるとすると以下となる.\[ - \xi \frac{1}{P} = \frac{1}{B}\frac{dB}{dP}\](2)
これを解くとCを積分定数として需要予測曲線は次式で表される.\[B = C{P^{ - \xi }}\](3)
次に,(4, 5)式のとおり対数リンク関数を用いるGLMによって需要曲線をモデル化することができる.\[\log B(P) = {\beta _0} + {\beta _1}\log P\](4)
\[B_{GLM}(P) = e^{\beta _0}P^{\beta _1}\](5)
ここで,βはGLMの係数を表す.式(5)は,ポイントPのみを特徴量としているが,GLMにおける線形予測子に他の特徴量を組み込むことが可能である.なお,今回利用したモデルにおける予測値と実測値の平均絶対誤差(MAE: Mean Absolute Error)は0.0036であり,このモデルを含む複数のモデルの性能評価は落合らの論文で実施されている[4].
今回の検証において達成すべき行動変容率を1%以上と定め,それ以上の行動変容率であるポイント数を組み合わせることとした.また,本施策におけるポイント原資の都合上,上限を200ポイントと定めた.したがって,フェーズ2で組み合わせる適切なポイントのレンジとして,10~200を抽出した.さらに,図5に示すとおり行動変容率の予測モデルの傾きを描画した.およそ70ポイントを境にポイント数の増加に対する行動変容率の増加率が一定になることを確認した.
今回用意した経済的インセンティブのパターン数は7種類であるため,最大で(7−2)×非経済的行動変容手法の種類数だけ検証パターンの削減が可能となった.また,価格弾力性をモデル化した結果,約70ポイントを境に行動変容効果の増加率が一定になっている.これは,それ以上ポイント数を増やしても増加率向上は期待できないため,ポイント数に対する行動変容効果を高めるためには70ポイント前後が適切と解釈できる.また,一定であるということは行動変容効果が向上する余地があるということであり,非経済的行動変容手法を組み合わせた相乗効果でより行動変容を促せる可能性がある.
フェーズ1の結果を踏まえ,ナッジをPUSH通知に適用した検証を実施した.10月,11月それぞれでコントロール群と2つの検証群の計3群にユーザを均等に割り振り,表1のPUSH通知文を群ごとに配信した.検証群の文言はそれぞれ,決定回避の法則,利得選好,希少性バイアス,同調性バイアスを考慮し作成した.決定回避の法則は選択肢が増えるほど選択しづらくなる心理効果であり,PUSH通知上の選択肢が増えることによって行動変容しづらくなるのかを検証する.利得選好は得をすることを好む心理や思考であり,利得を強調することで行動変容効果が向上するのかを検証する.今回の検証においてキャンペーンに参加することでポイントを獲得できることを被験者は理解しているが,そのことを常に意識しているわけではない.したがって,既知の情報であっても明示的かつ具体的に利得を示すことで行動変容が期待できる.同調性バイアスとは,正確な情報を得たり多数派に迎合するために他者の言動に合わせる心理効果であり,同調を促すことで行動変容効果が向上するのかを検証する.希少性バイアスとは,希少性があるという情報によって主観的な価値が増加する心理効果であり,限定であることを強調することで行動変容効果が向上するのかを検証する.
これらの認知バイアスを考慮した文言を適用する群とコントロール群を比較することで,各認知バイアスを考慮した文言そのものの行動変容効果を検証する.また,コントロール群について,利得の群との対比のためにPUSH通知文においては具体的なポイント数の言及をせず,簡素な介入文言で特定店舗へ訪問を促した.なお,PUSH通知内容に記載される店舗名は1つないし2つであるが,記載以外の店舗であっても行動変容によりポイントの獲得が可能である.
また,ポイント数ごとの行動変容効果を確認するためにフェーズ1で得られた結果を踏まえ,[10, 50, 100, 150, 200]ポイントを経済的インセンティブとして組み合わせ,フェーズ1と同様にはじめのうちは少ないポイント数で配布し,徐々に増加させた.
本検証の行動変容結果を表2,表3に示す.本検証におけるログとして日ごとに介入回数と介入結果である行動変容回数が蓄積される.介入回数は,参加者へタイムシフトまたはテイクアウトを促すPUSH通知配信を行った総数を表す.行動変容回数は,介入が行われた参加者のうち,実際にタイムシフトまたはテイクアウトの行動変容に至った総数を表す.これらのログを用いて行動変容率(BTR: Behavior Transformation Rate)を(6)式,行動変容受容率(BTAR: Behavior Transformation Acceptance Rate)を(7)式から算出した.\[BTR({\boldsymbol x}, \ {\boldsymbol y}) = 100 \frac{\sum_{i = 1}^N y_i }{\sum_{i = 1}^N {x_i}}\](6)
\[BTAR({\boldsymbol x}, \ {\boldsymbol y}) = 100 \frac{\sum_{i = 1}^N y_i} {\sum_{i = 1}^N x_i} \frac{100}{BTR({\boldsymbol x}_{ctr}, \ {\boldsymbol y}_{ctr})}\](7)
なお,Nは介入日数,xiはある日付の介入回数,yiはある日付の行動変容回数を表す.行動変容受容率は,コントロール群と検証群の行動変容効果を比較するための指標であり,コントロール群の行動変容率BTR(xctr, yctr)を基準とした相対値である.利得と同調性の検証群においては行動変容受容率の向上はみられなかったが,決定回避の検証群は全体で20.3%,希少性の検証群は全体で35.2%の向上が確認できた.
また,ポイント数と各検証群における行動変容受容率の相関係数を表4に示す.決定回避,希少性および同調性の検証群において,ポイント数と行動変容受容率には正の相関があることを確認した.
ナッジを適用していないコントロール群と比較してナッジを適用した検証群の行動変容効果が高いということは,ナッジに経済的インセンティブを組み合わせたことによる相乗効果が得られていることにほかならない.すなわち,フェーズ1の結果を踏まえ抽出したすべてのポイント数に関して,組み合わせによる相乗効果を獲得して効果検証が可能な経済的インセンティブであったと言える.
また,表4のとおり,今回観測した範囲で決定回避,希少性,同調性の検証群とポイント数に正の相関がみられたことから,今回のナッジと組み合わせる場合の相乗効果は経済的インセンティブ量に応じて高くなっていくと推察できる.すなわち,ナッジに経済的インセンティブを組み合わせる場合,その相乗効果は経済的インセンティブ効果の単純な上乗せではなく,経済的インセンティブ量に応じて効果向上が見込めることが知見として得られた.一方,経済的インセンティブ量が極端に多い場合,非経済的行動変容手法の有無によらず行動変容に至る可能性が高い.つまり,経済的インセンティブ量が多くなるほど行動変容受容率は1に収束していくと考えられ,許容できる行動変容受容率と経済的インセンティブ原資を踏まえて組み合わせる経済的インセンティブ量を決定することが重要である.
さらに,各検証群の結果について今回のナッジの特徴から考察する.決定回避の検証群は元々選択肢を増やすことで決定回避の法則に則り行動しづらくなる仮説を立てていたが,逆に選択の幅を広く感じることで行動がとりやすくなったものと考察する.これは選択肢が少なすぎると自由を制限されているように感じる心理的リアクタンスが働くため,選択肢が1つよりも2つのほうが行動しやすくなると推察する.利得の検証群は利得を感じさせる表現であったが,フェーズ1の文言に近い表現のため効果が摩耗していたと考えられ,より利得を強調した表現にする工夫が必要である.希少性の検証群は,“期間限定”という表現により,希少性バイアスが働き店舗への訪問およびポイント獲得に感じる価値が高まったと言える.同調性の検証群は,“みんなで”という表現がかえって一人で行動したい人の足枷になってしまったと推測する.
次に,時間経過による行動変容率の変化について考察する.10月,11月それぞれの月において,基本的には月末にかけて配布ポイント数が増加していくが,配布ポイント数が高いほど行動変容率も高い結果となっている.すなわち,今回観測した範囲においては,時間経過による行動変容効果の減衰よりも配布ポイント数増加による効果が上回っており,検証の実施期間と配布した経済的インセンティブ量は妥当であったと言える.一方で,表2および表3のコントロール群に着目すると,11月は10月と比較してすべての配布ポイント数において行動変容率が低下している.これは,時期による学生の忙しさや季節などの環境要因に加え,10月と11月のコントロール群において同一のメッセージが提示されたことによる,ユーザの慣れが行動変容率に影響を与えた可能性が示唆される.すなわち,同様の検証設定で期間を更に延長した場合,行動変容率が著しく低下するリスクが考えられる.このような状況を回避するためには,コントロール群の文言を刷新したり,経済的インセンティブの幅を見直したりするなど,介入に対する効果を高めるための工夫が必要である.
フェーズ1の結果を踏まえ,ゲーミフィケーションに70ポイントの経済的インセンティブを組み合わせた検証を実施した.従来研究[13]を踏まえ,本検証用アプリケーションに適したゲーミフィケーション要素として,代表的な5つの機能を実装した.具体的には図6に示すとおり,バッジ,チームメイト,パフォーマンスグラフ,ポイント,リーダーボードの5つである.チームメイトとは,他のプレイヤーやノンプレイアブルキャラクターとチームを組むことで競争や協力を促すものである.バッジとは視覚的に成果を表現するものであり,チーム内の行動変容の総数に応じたバッジを提示した.ポイントとは,これまでの達成状況を数値で表現するものであり,行動変容回数を提示した.パフォーマンスグラフとは,達成状況を視覚的に表現するものであり,行動変容回数を視覚化した.リーダーボードとは,ユーザ間の相対的な達成状況を示すものであり,ランキング形式でチームごとの行動変容回数を確認できる仕様とした.
本検証は,これら5つの要素それぞれの効果や動機付けに対する寄与度を検証することが目的ではなく,5つの要素の複合的な効果に,経済的インセンティブを組み合わせた際に行動変容効果が向上するのかを検証するものである.したがって,5つの要素すべてを適用する検証群とゲーミフィケーションを適用しないコントロール群を設けた.さらに,今回はチームメイト要素におけるチーム人数による行動変容効果を検証することを目的とし,5人チーム,10人チーム,15人チームの検証群を設け被験者をランダムに振り分けた.5人チームは185人37組,10人チームは190人19組,15人チームは180人12組で構成される.なお,すべての群で共通でPUSH通知タイトルを“ランチタイムがお得になるキャンペーン!”,PUSH通知本文を“店舗名に行ってみよう!”として配信を行った.
本検証の行動変容結果は表5に示すとおりであり,いずれの検証群も行動変容受容率が向上していることを確認した.また,チーム人数が少ないほど行動変容受容率が向上する結果となった.
すべての検証群の行動変容受容率が向上しており,検証群ごとの効果の違いも観測できたことから,経済的インセンティブとの相乗効果を獲得したうえで検証ができたと言える.これはナッジの検証結果と同様であり,本提案手法の有効性を支持するものであった.
また,チーム人数が少ない群ほど行動変容受容率が向上している結果について,チーム人数が多くなるほど主体性が損なわれ,行動変容ひいては混雑緩和という社会性の高い行動を取りづらくなるためだと推測する.つまり,今回のゲーミフィケーション要素を含むチームメイトについては,5人以下で構成することで高い行動変容効果の獲得が可能という示唆を得られた.
本稿では,経済的インセンティブとの相乗効果を考慮したうえで,非経済的行動変容手法の行動変容効果を効率的に検証するための実験設計方法を提案した.本提案手法に基づき実験設計を行った混雑緩和のための実証実験を通じて以下のことが分かった.まず,非経済的行動変容手法に組み合わせるための経済的インセンティブ量を先に測定し分析することで,組み合わせのパターン数を削減し効率的な検証が可能となることを確認した.次に,適切な経済的インセンティブ量を非経済的行動変容手法に組み合わせることで相乗効果の獲得が可能になることに加え,単純な効果の上乗せではなく経済的インセンティブ量に応じた相乗効果の獲得が可能であるという示唆を得た.さらに,経済的インセンティブの過剰な影響を受けることなく,ナッジやゲーミフィケーションの効果検証が可能であった.したがって,提案手法は経済的インセンティブとの相乗効果を獲得したうえで効率的な効果検証を可能とした.
ただし,今回の実証実験の被験者が学生であることや,適用した経済的インセンティブがdポイントであるという制約があったことには注意したい.つまり,学生意外の属性や他の経済的インセンティブを用いても同様の結果が得られるかについては今後,さらなる検証が必要である.
今後の研究としては,組み合わせによる相乗効果を最大化しかつ,効果検証に影響を及ぼさない最適なインセンティブ量を選定する手法の確立が有意義である.また,個人ごとに行動変容に至るための経済的インセンティブ量を最適化する手法が確立された場合は,本提案と組み合わせることで全体の行動変容率向上が期待出来る.本稿が行動変容の実験の手がかりになり,それにより人々がより良い選択が可能になる社会になることを願っている.
謝辞 本実証実験に参加した九州大学の学生および実証実験の運用に関わった株式会社イマーゴiQLabに感謝の意を表す.
2020年筑波大学大学院システム情報工学研究科博士前期課程修了.同年,株式会社NTTドコモに入社し,R&D部門にてデータサイエンスと行動経済学をかけ合わせた研究開発に従事.現在は同社の経営企画部に所属.
2008年千葉大学大学院博士前期課程修了.同年,株式会社NTTドコモ入社.SNS,位置情報,ヘルスケアデータやスマートフォンログ解析,FinTech分野の研究開発に従事.2017年東京大学大学院工学系研究科博士後期課程修了.2020年8月より東京大学特任助教.博士(工学).情報処理学会(シニア会員),ACM,日本データベース学会各会員.
2019年大阪大学大学院工学研究科電気電子情報通信工学専攻博士前期課程修了.修士(工学).株式会社NTTドコモにて,行動経済学およびゲーミフィケーションの研究開発や決済系サービスのマーケティングを経験.
2008年NTTソフトウェア株式会社入社.(現社名:NTTテクノクロス株式会社)以降,位置情報活用システム開発,RFID活用システム開発,ビッグデータ分析システム開発に従事.
1998年東京工業大学工学部卒業,2000年東京工業大学大学院理工学研究科電子物理工学専攻修了,同年株式会社NTTドコモ入社.以降,無線LANシステム開発,3G/LTE装置開発,5G研究,3GPP標準化,IEEE802標準化,ARIB標準化,ビッグデータ分析に基づくサービス開発等に従事.2005年度電子情報通信学会学術奨励賞受賞,2023年度情報処理学会業績賞受賞.現在,日本電信電話株式会社.
2008年株式会社NTTドコモ入社.以降,3G/LTE装置開発,位置情報技術開発,光ブロードバンドサービス開発,ビッグデータ分析に基づくサービス開発等に従事.2023年度情報処理学会業績賞受賞.
2012年東京大学工学部建築学科卒業.2014年同大学大学院工学系研究科修士課程修了.2015年株式会社NTTドコモに入社.2022年より日本電信電話株式会社.2024年より現職.
1994年NTT移動通信網株式会社(現NTTドコモ)入社.以来,移動通信システム開発,ビッグデータ解析,FinTech技術開発に従事.現在の研究分野は,因果推論に基づく経済圏・経済効果に関する分析,量子アニーリングを用いたネットワーク最適化など.博士(工学).
1997年日本電信電話株式会社入社,2012年株式会社NTTドコモに転籍.以来,携帯電話の位置情報を活用したサービス開発・提供およびドコモの研究開発戦略・計画策定業務に従事.
2016年株式会社NTTドコモに入社し通信事業のセールス担当として従事.2021年よりdポイントクラブ会員事業に携わり,dポイントに関する企画・施策立案・利用促進の業務を担当.
(株)NTTドコモ所属.(株)インテージとの合弁会社である(株)ドコモ・インサイトマーケティングの設立を担当し,同社に出向.アンケート会員基盤や両親会社のデータを掛け合わせたDMPを構築.NTTドコモ復帰後は,dポイントクラブ会員基盤の会員拡大やアクティブ化,データ活用による新たな価値創出などの業務を経て,現在はコンシューマサービスカンパニー カンパニーコーポレート部に所属.
慶應義塾大学経済学部教授・理化学研究所AIPセンター経済経営情報融合分析チームチームリーダー.2004年東京大学大学院総合文化研究科広域科学専攻修了.博士(学術)・博士(経済学).2021年から2023年まで行動経済学会会長.2024年2月から現在までLondon School of Economics and Political Science客員教授.
2006年慶応義塾大学大学院理工学研究科後期博士課程修了.博士(工学).同大学助手,九州大学助教,奈良先端大学准教授を経て,2019年より九州大学大学院システム情報科学研究院教授.IoTとAIによる行動認識と行動変容に関する研究に従事.
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