2024年4月,政府の量子技術イノベーション会議が公表した「量子産業の創出・発展に向けた推進方策[1]」では,量子コンピュータは「限定的用途ではあるものの,開発段階から利活用段階に発展しつつある」とされている.
長期に目標となる技術であると考えられるFTQC登場まで,まだ相当の時間を要する現段階の技術であっても,今まで不可能であった処理を可能にするという,量子関連技術に基づく新しい計算処理(以下,量子計算)の価値を感じさせる応用が,当社の経験からも,少しずつ現れてきている.
本稿では,当社における量子計算のアプリケーション事例創出の取り組みを踏まえ,量子技術によるデジタル・トランスフォーメーション(以下,QX)に辿り着くためのシナリオと,量子計算の利活用段階に向けたポイントについて考察したい.
量子計算には,汎用性の高い用途を想定したゲート方式と,組合せ最適化問題に特化したイジングマシン方式がある.
ゲート方式のハードウェアについては,超伝導方式を始めさまざまな方式が提案されており,各社,実用レベルに向け各研究機関でそれぞれの方式で改良が進められている.
一方イジングマシン方式のハードウェアについては,すでに10年以上前からカナダのD-wave Systems社が商用提供を進めているが,まだ大規模な問題をハードウェアだけで扱えるような環境は実現できていない.
こうした中で,ゲート方式,イジングマシン方式双方で,古典計算環境上で量子計算をシミュレーションする新しい古典計算のソフトウェアが現れている.
特に,イジングマシン方式では,複数の国内ベンダから,量子インスパイアードのイジングマシンと呼ばれるタイプのソフトウェアが提供されており,すでに実用レベルにある.当社の量子インスパイアード最適化ソリューションSQBM+もこのタイプに属するソフトウェアである.
量子インスパイアードのイジングマシンでは,量子技術由来のアイデアと古典の計算環境の最新機能を組み合わせ,それぞれの良さを活かすことで,従来の計算を凌駕する高い性能を実現し,またそれによって量子計算の新しいアプリケーションが生まれつつある.
量子計算は,量子技術による通信や,量子技術によるセンサやデバイスなどと組み合わせて,長期にQXを実現する中心となる技術であるが,FTQCのレベルに達するまでには,これから長期にわたって,社会のあらゆる分野で,また基礎技術,応用技術の両面でイノベーションが続く必要がある.
QX実現のためには,量子計算に取り組むユーザ企業・プラットフォーム企業・アプリケーション開発企業・製品ベンダ企業・研究機関・教育機関などからなる量子産業のエコシステム(以下,エコシステム)が,産業として自らの活動を成立させ,投資・人材開発・研究開発を通じて活発なイノベーションを支えるという,産業の好循環が欠かせない(図1).
量子計算の発展のシナリオとしては,たとえば,次のようなサイクルが想定される.
このようなサイクルを始動させるためには,まず,エコシステムの中心となるユーザの獲得から始める必要がある.イノベーター理論において初期採用者と呼ばれるこうしたユーザに向けては,量子技術が単に新しいだけでなく,真に有効であることを示す必要がある.こうしたことを踏まえ,当社は,すでに実用レベルにある量子インスパイアードのイジングマシンを使って,ユースケースの創出に取り組んでおり,当社としては,これによってFTQCを待たなくても量子技術は有効であることを示したいと考えている.
量子の有効性を示すユースケース創出の領域として,当社では,金融と創薬分野に注力している.ここでは,創薬の分野で,創薬スタートアップ企業であるAOI Biosciences(株)☆1と共にSQBM+アロステリック創薬への応用の取り組んだ事例を紹介する.
アロステリック創薬は,タンパク質の活性部位ではない領域による機能調節(アロステリック制御)を利用した創薬である.アロステリック制御を利用することで,標的タンパク質に特異的に作用する薬剤を創出することができ,また従来活性部位の構造から創薬の対象として適さないとされていたタンパク質を,創薬の対象の候補として見い出せることが特徴である.
アロステリック制御部位の同定には膨大な数のin vitro(試験管内)実験が必要であり,これを計算によって代替する手法の確立がアロステリック創薬の課題となっていた.これまで古典計算による手法も提案されていたが,必ずしも満足する性能・精度での予測ができていなかった.当社は,アロステリック制御予測を組合せ最適化問題に帰着させ,量子計算によって,従来手法では不可能であった精度でアロステリック制御を予測する手法を開発した(図2).
アロステリック制御の予測手順は次のとおりである.
本手法によって,アロステリック部位が既知のタンパク質に対して高精度にその部位を推定できることが確かめられており,現在,AOI Biosciences(株)では,この計算に基づく事業を展開している.
量子計算は,まだそれ自体が直接新たな価値を生むという段階にはなく,計算の高速性によってアプリケーションの価値を間接的に高めるというところから,適用が始まると考えている.特に,これまでニーズはあったものの,古典計算だけでは実現できなかったアプリケーションが,量子計算の最初のターゲットになる.この際,多くの場合,量子計算だけでアプリケーションを構成することはなく,全体の処理は古典計算との組合せで実現される.
アロステリック創薬はこの例であり,古典計算により算出された経路集合をインプットにし,後段でSQBM+による組合せ最適化計算を行うという量子・古典ハイブリッドの処理となっている.このほか,次のようなパタンも見られる.
アプリケーションの実現方式が量子・古典ハイブリッドになることに対応して,量子産業のエコシステムは,古典計算のエコシステムと独立して発展するのではなく,両者が連携し,その中で徐々に量子計算の割合を増やしていく,という展開のしかたになると考えられる.
2024年『情報処理』9月号の特別解説「量子コンピュータの現在地とこれから[2]」では,「実ビジネスで利用できるFTQCが登場するまで,20~30年以上の長い年月が必要である」という見通しが示されている.
この長い年月に向けて,まず今使える技術によって魅力的なユースケースを生み出し,量子技術が真に役に立つことを示すのが重要な時期にあると考えている.
岩崎元一(正会員)
motokazu.iwasaki@toshiba.co.jp
1985年東京大学理学部数学科卒業.同年(株)東芝入社.オペレーティングシステム開発,プラットフォーム商品企画,事業企画を経て,2018年より東芝デジタルソリューションズ(株)において量子関連技術の事業開発に従事.
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