会誌「情報処理」Vol.66 No.5(May 2025)「デジタルプラクティスコーナー」

量子技術の社会実装に向けて
─今実用的な量子インスパイアード技術による量子・古典ハイブリッドアプローチ─

岩崎元一1

1東芝デジタルソリューションズ(株)

 量子計算は,開発段階から利活用段階に移りつつあるが,量子計算の現時点の目標である誤り耐性量子コンピュータ(FTQC)のレベルに達するまでには,長期に,社会のあらゆる分野で,また基礎技術,応用技術の両面でイノベーションが続く必要がある.今後の量子計算の発展のためには,量子産業のエコシステムが,産業として自らの活動を成立させ,その中で,アプリケーションの開発を容易化する技術が進展し,教育が充実し,さまざまな人材が流入し,アプリケーション開発・実行のインフラが整備され,その中で技術革新が続くという,産業の好循環が欠かせない.産業の好循環を始動させるためには,今量子計算が真に有効なものであることを示し,初期採用者を獲得することが重要である.量子計算の分野で現時点で実用レベルにあるのは,量子インスパイアードのイジングマシンであり,東芝デジタルソリューションズ(株)(以下,当社)では,このタイプのイジングマシンSQBM+TMによる事例創出を進めている.当社では,ユースケース創出の領域として,金融と創薬分野に注力しており,たとえば創薬の分野で,アロステリック創薬への応用に取り組んでいる.アロステリック創薬では,タンパク質の立体構造をグラフでモデル化し,まず古典計算により,グラフ上でアミノ酸残基と活性部位のペアに対し経路集合を算出する.これをもとに,各アミノ酸残基に対し,アロステリック制御部位に含まれる可能性を示す指標を算出し,この指標を使ってSQBM+により組合せ最適化計算を行って活性中心に強い影響を与える領域を計算する.この事例に見られるように,今後量子計算の適用にあたっては,量子・古典ハイブリッドによる構成がポイントである.このほか量子・古典ハイブリッドとしては,古典計算の中で時間がかかる部分を量子計算で置き換えたり,量子計算が高速に生成する大量の近似解集合をもとに,古典計算で精密な計算を行い,全体としてより高精度・高性能な処理を可能にしたり,初期値によって計算時間が不安定になる古典計算に対して,前処理で量子計算を行い,良い初期値を与えることによって,処理を安定化するなどのパタンがある.こうした量子・古典ハイブリッドによる実現方式に対応して,量子計算のエコシステムは,古典のエコシステムと連携した発展が考えられる.

1.「開発段階から利活用段階に発展しつつある」量子コンピュータ

2024年4月,政府の量子技術イノベーション会議が公表した「量子産業の創出・発展に向けた推進方策[1]」では,量子コンピュータは「限定的用途ではあるものの,開発段階から利活用段階に発展しつつある」とされている.

長期に目標となる技術であると考えられるFTQC登場まで,まだ相当の時間を要する現段階の技術であっても,今まで不可能であった処理を可能にするという,量子関連技術に基づく新しい計算処理(以下,量子計算)の価値を感じさせる応用が,当社の経験からも,少しずつ現れてきている.

本稿では,当社における量子計算のアプリケーション事例創出の取り組みを踏まえ,量子技術によるデジタル・トランスフォーメーション(以下,QX)に辿り着くためのシナリオと,量子計算の利活用段階に向けたポイントについて考察したい.

2.すでに実用レベルにある量子インスパイアード技術

量子計算には,汎用性の高い用途を想定したゲート方式と,組合せ最適化問題に特化したイジングマシン方式がある.

ゲート方式のハードウェアについては,超伝導方式を始めさまざまな方式が提案されており,各社,実用レベルに向け各研究機関でそれぞれの方式で改良が進められている.

一方イジングマシン方式のハードウェアについては,すでに10年以上前からカナダのD-wave Systems社が商用提供を進めているが,まだ大規模な問題をハードウェアだけで扱えるような環境は実現できていない.

こうした中で,ゲート方式,イジングマシン方式双方で,古典計算環境上で量子計算をシミュレーションする新しい古典計算のソフトウェアが現れている.

特に,イジングマシン方式では,複数の国内ベンダから,量子インスパイアードのイジングマシンと呼ばれるタイプのソフトウェアが提供されており,すでに実用レベルにある.当社の量子インスパイアード最適化ソリューションSQBM+もこのタイプに属するソフトウェアである.

量子インスパイアードのイジングマシンでは,量子技術由来のアイデアと古典の計算環境の最新機能を組み合わせ,それぞれの良さを活かすことで,従来の計算を凌駕する高い性能を実現し,またそれによって量子計算の新しいアプリケーションが生まれつつある.

3.QXに向けたシナリオ

量子計算は,量子技術による通信や,量子技術によるセンサやデバイスなどと組み合わせて,長期にQXを実現する中心となる技術であるが,FTQCのレベルに達するまでには,これから長期にわたって,社会のあらゆる分野で,また基礎技術,応用技術の両面でイノベーションが続く必要がある.

QX実現のためには,量子計算に取り組むユーザ企業・プラットフォーム企業・アプリケーション開発企業・製品ベンダ企業・研究機関・教育機関などからなる量子産業のエコシステム(以下,エコシステム)が,産業として自らの活動を成立させ,投資・人材開発・研究開発を通じて活発なイノベーションを支えるという,産業の好循環が欠かせない(図1).

図1 産業の好循環
図1 産業の好循環

量子計算の発展のシナリオとしては,たとえば,次のようなサイクルが想定される.

  1. 量子計算を使ったアプリケーションの研究・開発が拡大することで,これに応える形で技術革新が進み,ミドルウエア・SDK(Software Development Kit)・IDE(Integrated Development Environment)など,研究・開発・実行環境が充実し,量子計算関連製品の性能も向上し,アプリケーション開発が容易になる.
  2. 産業の成立とともに人材流入が進み,教育カリキュラムが整備され,エコシステムへの高度な人材供給が促進される.
  3. 並行してアプリケーションを実行するインフラの整備が進み,アプリケーション実現を支援するサービスも充実し,広範囲,高付加価値なユースケースが蓄積する.
  4. 以上により製品ベンダからユーザまで,バリューチェーン全体で量子関連の産業が拡大する.
  5. 1から4の過程が繰り返される.このサイクルの中で,研究機関・ベンダ企業における研究・開発投資が続き,イノベーションが繰り返される.

このようなサイクルを始動させるためには,まず,エコシステムの中心となるユーザの獲得から始める必要がある.イノベーター理論において初期採用者と呼ばれるこうしたユーザに向けては,量子技術が単に新しいだけでなく,真に有効であることを示す必要がある.こうしたことを踏まえ,当社は,すでに実用レベルにある量子インスパイアードのイジングマシンを使って,ユースケースの創出に取り組んでおり,当社としては,これによってFTQCを待たなくても量子技術は有効であることを示したいと考えている.

4.ユースケース創出の事例から─アロステリック創薬─

量子の有効性を示すユースケース創出の領域として,当社では,金融と創薬分野に注力している.ここでは,創薬の分野で,創薬スタートアップ企業であるAOI Biosciences(株)☆1と共にSQBM+アロステリック創薬への応用の取り組んだ事例を紹介する.

アロステリック創薬は,タンパク質の活性部位ではない領域による機能調節(アロステリック制御)を利用した創薬である.アロステリック制御を利用することで,標的タンパク質に特異的に作用する薬剤を創出することができ,また従来活性部位の構造から創薬の対象として適さないとされていたタンパク質を,創薬の対象の候補として見い出せることが特徴である.

アロステリック制御部位の同定には膨大な数のin vitro(試験管内)実験が必要であり,これを計算によって代替する手法の確立がアロステリック創薬の課題となっていた.これまで古典計算による手法も提案されていたが,必ずしも満足する性能・精度での予測ができていなかった.当社は,アロステリック制御予測を組合せ最適化問題に帰着させ,量子計算によって,従来手法では不可能であった精度でアロステリック制御を予測する手法を開発した(図2).

図2 SQBM+によるアロステリック制御予測
図2 SQBM+によるアロステリック制御予測

アロステリック制御の予測手順は次のとおりである.

  1. タンパク質の立体構造からアミノ酸残基間の相互作用を反映したグラフを構築する.アロステリック制御は,アロステリック制御部位に対する入力シグナルの活性部位への伝達としてモデル化する.
  2. グラフ上で,計算対象とする各アミノ酸残基と活性部位を構成するアミノ酸残基とのペアに対し,古典計算により,両者の間の伝達経路(アロステリック経路)集合を算出する.
  3. 算出された伝達経路(アロステリック経路)集合に基づき,各アミノ酸残基に対し,アロステリック制御部位に含まれる可能性を示す指標を算出する.
  4. 各アミノ酸残基に対し得られた指標をもとに,SQBM+により組合せ最適化計算を行い,活性中心に強い影響を与える領域(アロステリック制御部位)を計算する.

本手法によって,アロステリック部位が既知のタンパク質に対して高精度にその部位を推定できることが確かめられており,現在,AOI Biosciences(株)では,この計算に基づく事業を展開している.

5.量子・古典ハイブリッドというアプローチ

量子計算は,まだそれ自体が直接新たな価値を生むという段階にはなく,計算の高速性によってアプリケーションの価値を間接的に高めるというところから,適用が始まると考えている.特に,これまでニーズはあったものの,古典計算だけでは実現できなかったアプリケーションが,量子計算の最初のターゲットになる.この際,多くの場合,量子計算だけでアプリケーションを構成することはなく,全体の処理は古典計算との組合せで実現される.

アロステリック創薬はこの例であり,古典計算により算出された経路集合をインプットにし,後段でSQBM+による組合せ最適化計算を行うという量子・古典ハイブリッドの処理となっている.このほか,次のようなパタンも見られる.

  1. 古典計算の中で時間がかかるためにこれまで実行不可能だった部分を量子計算で置き換え,実行可能にする.
  2. 量子計算が高速に生成する大量の近似解集合をもとに,古典計算で精密な計算を行い,全体としてより高精度・高性能な処理を可能にする.
  3. 初期値によって計算時間が不安定になる古典計算に対して,前処理で量子計算を行い,良い初期値を与えることによって,処理を安定化する.

アプリケーションの実現方式が量子・古典ハイブリッドになることに対応して,量子産業のエコシステムは,古典計算のエコシステムと独立して発展するのではなく,両者が連携し,その中で徐々に量子計算の割合を増やしていく,という展開のしかたになると考えられる.

6.今使える技術によって量子技術の有用性を訴求

2024年『情報処理』9月号の特別解説「量子コンピュータの現在地とこれから[2]」では,「実ビジネスで利用できるFTQCが登場するまで,20~30年以上の長い年月が必要である」という見通しが示されている.

この長い年月に向けて,まず今使える技術によって魅力的なユースケースを生み出し,量子技術が真に役に立つことを示すのが重要な時期にあると考えている.

参考文献
  • 1)量子技術イノベーション会議:量子産業の創出・発展に向けた推進方策,https://www8.cao.go.jp/cstp/ryoshigijutsu/240409_q_measures.pdf(2024年11月21日現在)
  • 2)川畑史郎:量子コンピュータの現在地とこれから,情報処理,Vol.65,No.9,pp.448-450 (Sep. 2024).
脚注
  • ☆1 2025年1月(株)Revorfから社名変更
岩崎元一

岩崎元一(正会員)
motokazu.iwasaki@toshiba.co.jp

1985年東京大学理学部数学科卒業.同年(株)東芝入社.オペレーティングシステム開発,プラットフォーム商品企画,事業企画を経て,2018年より東芝デジタルソリューションズ(株)において量子関連技術の事業開発に従事.

投稿受付:2024年11月30日
採録決定:2025年2月5日
編集担当:戸田貴久(電気通信大学)

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