従来のコンピュータ(本稿では古典コンピュータと呼ぶ)の計算能力は原理的な限界が近づいており,従来とは異なる動作原理で計算能力の向上を実現する量子コンピュータへの期待が高まっている.たとえばAIの機械学習では,大量のデータと高速な情報処理を必要とするが,量子コンピュータを用いた量子機械学習では,複数の量子ビット状態の重ね合わせを活用することで,従来手法よりも効率的に学習できる可能性が指摘されている.金融分野では,金融派生商品の価格決定や,資産リスクの評価指標であるValue at Risk等の算出の際にモンテカルロ法が広く使用されており,正確な値を得るために非常に多くのシナリオを計算時に考慮する必要がある.これに対して,量子コンピュータでは量子ビットの重ね合わせにより複数のシナリオを同時計算で高速に行える可能性がある.将来は投資リターンを最大化できるポートフォリオなど,求めたい最適な状態を,潜在的なリスクを明らかにしながら,効率的に発見できるようになると期待されている.
さらに材料・創薬分野において使用される,量子化学計算と呼ばれる原子や分子の性質を量子力学の原理に基づいた計算から予測する手法では,古典コンピュータを用いると分子のサイズに対して指数関数時間がかかってしまうのに対して,量子コンピュータを用いれば多項式時間で計算ができることから,より良い材料を,より効率良く開発できる可能性が期待されている.本稿では,材料・創薬分野のお客様と共に量子コンピュータを活用した量子アプリケーションの未来を切り拓くために実施した取り組みと,将来展望について紹介する.
図1に示すように量子コンピューティング技術は実際に計算が実行される量子デバイス(超伝導方式などの量子コンピュータの実機や量子回路シミュレータ),基盤技術となる量子エラー訂正技術やHPC技術,活用を容易にするためのプラットフォーム技術,アプリケーションとして実行するための量子アルゴリズム,適用領域などにより構成されている.以降では,第2章で量子デバイスとプラットフォームについて述べ,第3章では量子アルゴリズムとその実適用例であるお客様との共創状況について述べ,第4章では今後の量子アプリケーションの適用領域拡大に向けての,富士通の先進的な取り組みについて述べる.
現状の量子コンピュータで扱える量子回路は計算中に発生するノイズの影響を除去しきれないことからNISQ(Noisy Intermediate-Scale Quantum device)と呼ばれており,実用的な問題を解くには課題がある.その一方で,実用的なエラー訂正技術を搭載した量子コンピュータであるFTQC(Fault Tolerant Quantum Computer)の実現には,まだ十数年以上を要すると予測されている.これに対して富士通では,ノイズによるエラーを含む量子コンピュータおよび,スーパーコンピュータ上で動作するノイズを含まない量子回路シミュレータの両方を開発,さらに両者を連携させて利用できるハイブリッド量子コンピューティングプラットフォームを開発することで,ハードとソフトの両面から量子コンピューティング技術の実用化を加速している[1][2][3].
富士通と国立研究開発法人 理化学研究所は,2021年に共同で設立した「理研RQC-富士通連携センター」において,理化学研究所が2023年3月に公開した国産初号機となる64量子ビット超伝導量子コンピュータの開発ノウハウをベースに新たな64量子ビットの超伝導量子コンピュータを開発した(図2).
本超伝導量子コンピュータにより,理想的には最大で2の64乗個の状態の重ね合わせ計算が可能になり,従来のコンピュータでは困難な問題の求解が期待できる.現在開発が進められている量子コンピュータの実現方式を表1に示す.富士通では実機の研究開発としてスケーラビリティに優位性があり,現時点で最も実用に近いと考えられている超伝導方式だけではなく,極低温でなくても優良な動作が見込めるダイヤモンドスピン方式の両輪で検討を進めている.
富士通では,2022年3月に,スーパーコンピュータ「富岳」のプロセッサA64FXの高速性を活かした,世界最速レベルの36量子ビットシミュレータシステムを開発した[1].現在は40量子ビットまで規模を拡張している.本量子回路シミュレータは量子計算に合わせたデータ再配置技術により,汎用的な量子回路シミュレーション方式であるState Vector方式の量子回路シミュレータ専用機としては,世界最大レベルの規模のシステムとなっている.
量子回路シミュレータは,現状のスーパーコンピュータ上で再現されたシステムであるため,量子干渉を利用した高速計算はできないが,シミュレーション上では量子ビットのエラーが発生しないことから,量子アルゴリズムや量子計算結果の正しさの評価に活用されている.
NISQと呼ばれる現状の量子コンピュータで扱える量子回路はノイズの影響を除去しきれず,長いステップの計算が正確に行えないという課題がある.一方,量子回路シミュレータは,従来型のコンピュータの処理性能を超えることはできないが,エラーの問題がないため長いステップの量子計算シミュレーションが実行可能であるという特徴がある.このようなそれぞれの特徴から,富士通では,量子コンピュータの活用やアプリケーション開発を進める上では,前述の超伝導量子コンピュータと量子回路シミュレータが併用できる環境が必要であると考えており,両方を連携させて利用できるハイブリッド量子コンピューティングプラットフォーム「Fujitsu Hybrid Quantum Computing Platform」を開発し,富士通と理化学研究所との共同研究の下で,企業や研究機関に提供を開始している[2][3].このプラットフォームの概要を図3に示す.プラットフォームの利用者は,量子コンピュータと量子回路シミュレータをシームレスに切り替えながら利用することが可能であり,ノイズによるエラーを含む量子コンピュータを用いた計算結果とノイズを含まない量子回路シミュレータによる計算結果の比較などが容易に可能になり,量子アプリケーションにおけるノイズによるエラーの影響を緩和する研究が加速されることが期待できる.また,量子コンピュータとスーパーコンピュータを連携させて問題を解く,ハイブリッド量子アルゴリズムの開発にも活用が期待されている.
本プラットフォームはアマゾン ウェブ サービス(AWS)のサーバレスコンピューティングサービスAWS Lambdaなどを活用したスケーラブルなクラウドアーキテクチャを実装しており,量子コンピュータと量子回路シミュレータに対して共通のAPIを介したシームレスなアクセス環境となっている.
量子化学計算は量子コンピュータの有望な適応領域の1つであり,これまでの古典コンピュータでは不可能であった高精度な計算を実行できるポテンシャルを持っている[4][5].特にNISQデバイス向けの計算手法として,VQE(Variable Quantum Eigensolver)を用いた分子の量子化学計算に関する研究が数多くなされている[6].量子コンピュータと古典コンピュータを組み合わせたVQEの一連の計算の概要を図4に示す.VQEは比較的簡単なアルゴリズムであり,量子回路シミュレータ上において実現できることから,実機を使用する前に分子の計算をシミュレートする手法として有用であり,これまでに小分子を中心にさまざまな分子の計算がなされており,古典コンピュータによる結果との比較もなされている.
富士フィルム様では高機能材料,医薬品,デバイス機器の機構解析(可視化)・予測などほぼ全事業部において理論計算を活用しており,より高精度・大規模な計算の需要から量子コンピュータへの期待が大きい.特に量子コンピュータを用いてベンゼン等の分子の基底・励起状態のエネルギー計算をできるようにすることで,革新的な材料設計手法を実現したい,という要望があり,この化学反応計算などにおいて,量子回路シミュレータを活用することで,量子コンピューティング特有のアルゴリズムの検討や評価をするため,計算化学領域における量子アプリケーションの共同研究を開始した.
分子の基底エネルギーを求めるVQEのパラメータ最適化計算は古典コンピュータで行われ,数値計算ライブラリに含まれる勾配を用いた最適化手法がよく用いられる.これらの手法における勾配計算は通常はFinite Difference Method(FDM)法(有限差分法)を用いて差分近似で行うことが多いが,量子ビット数(qubit)が多い場合,あるいは量子ビット数が少なくても量子回路の深さが大きい場合は最適化すべきパラメータ数が増加し,それにつれて計算時間も増大してしまうという問題があった.そのため,小分子であっても計算精度を求めて大きな量子回路の深さによる計算を行うことがこれまでは難しかった.
今回の共同研究では,古典コンピュータでのニューラルネットワークや機械学習などでよく用いられる勾配計算手法であるBackpropagation(BP)法(誤差逆伝播法)をVQEに適用することで,VQEのパラメータ最適化計算を高速に行うことを可能にし,量子回路シミュレータ上で評価を実施した[7].図5に示す結果から明らかなように,特に量子回路の深さが大きい場合にFDM法と比較してBP法が圧倒的に有利であることが分かる.FDM法では勾配を求めるためにパラメータの値を1個ずつ変化させてエネルギー期待値を求める処理をパラメータの個数分だけ行う必要があるために多くの計算時間を要する.したがって,パラメータ数が増加するにつれて処理時間も膨大になるが,BP法においてはパラメータ数が増加してもFDM法のように処理時間が大きく増えるような処理を行わなくてもよいため量子回路の深さに対してO(1)以下の増加に抑えられている.このように,今回開発した技術により,量子コンピュータでVQEを用いた量子化学計算を実施する際における,最適化部分の計算時間を大幅に低減できている.
富士フィルム様とは,量子コンピュータによる電子状態計算がどこまで正確に計算できるかを継続的に検討し,材料計算における量子計算の実用性の検証について引き続き共創を続けている.
東京エレクトロン様では,半導体プロセスに適した新材料候補の探索を高速・高精度にできるようにしたいという要望があり,まずは簡単なモデルとして,Mg表面のH2O吸着反応エネルギー計算を題材として,量子コンピューティングの適用可能性を探る共同研究を実施している.
既存手法ではすべての隣接する量子ビットの組に対して量子ゲートboxを作用させる構造を繰り返すことで電子配置の異なるさまざまな状態の重ね合わせ状態を表現する設計になっているため,解きたいシステムのサイズが大きくなるに従い量子ゲートの数,回路の規模が急増してしまうという問題があった.この問題に対して,複数の量子ゲートを組み合わせた量子ゲートboxの中で電子励起の物理的描像に合致する量子ゲートboxのみを用い,さらにその中でエネルギーを下げる効果の大きい量子ゲートboxを選別することにより,少ない量子ゲート数でもより理論値に迫る精度の良い結果を得られる手法を開発した[8].本手法により,図6に示すように,全量子ゲートboxを含める既存手法と比較して少ない量子ゲート数においても精度の良いエネルギーを得られていることが確認できる.また,量子ゲートboxを増やすにつれておおむねエネルギーが大きく下がっており,エネルギーを下げる効果の大きい量子ゲートboxを選別することに成功していることが分かる.
東京エレクトロン様との共創では,今回の共同研究とその結果を通じて材料探索に適した量子回路の提案,およびDepth数の少ない実用的な量子回路における精度の高い計算が確認でき,さらなる量子回路の高度化,実機適用時の運用形態の検討などに取り組んでいる.
これまでに開拓された量子アルゴリズムは,その適用領域が量子化学計算や金融変動予測などに限定されていた.今後量子コンピュータの市場を広げていくためには既存アリゴリズムの改善だけではなく,新たな適用領域の拡大が重要であると考える.富士通では,このような市場を広げるために,さまざまな取り組みを実施している.具体的には図7に示すように,(1)FTQCを早期実現するための技術開発,(2)先駆的なアプリケーションの開拓,(3)アプリケーション実用化のための共同研究である.本章ではこれらの適応領域を拡大するための富士通の取り組みについて紹介する.
FTQC量子コンピュータの実現に向けては,計算途中でのノイズによる物理量子ビットのエラーの発生が大きな課題となっている.量子ビットエラーの訂正には大量の物理量子ビットが必要になるため,典型的には100万以上の物理量子ビットを有する量子コンピュータが実現できなければ実用化が困難と言われている.
そこで,富士通と大阪大学では,量子エラー訂正に必要な物理量子ビット数を大幅に低減することで,量子コンピュータの実用化を早めることが可能な高効率位相回転ゲート式量子計算アーキテクチャ(STARアーキテクチャ)を確立した[9][10].このアーキテクチャの概要を図8に示す.本アーキテクチャでは,基本量子ゲートのセットを新たに定義し,特にエラー訂正に大量の物理量子ビットが必要であった量子ゲート操作を,別のゲート操作で代替する仕組みを世界で初めて導入している.具体的には,大量の物理量子ビットを使用する論理Tゲート操作を繰り返す従来アーキテクチャとは異なり,任意の角度を直接指定して位相回転する量子ゲート操作を実行する.これにより,物理量子ビットを従来の1/10以下に低減するとともに,任意回転の実行に掛かる量子ゲート操作回数を従来の1/20程度に低減することが可能である.計算内容によっては本アーキテクチャにより,エラーの影響がほぼ無視できる実用的な量子計算を従来の1/10以下の大幅に少ない物理量子ビットで実現できるため,本格的な量子コンピュータの到来を飛躍的に早めることができる.
さらに上記のアーキテクチャに搭載可能なアプリケーションとして,局所変分量子コンパイル技術(LVQC:Local variational quantum compilation)も開発した[11][12].本技術の適用により,時間発展を扱う量子回路のサイズを,ある条件では10倍以上削減できるため,たとえば,原子や分子が多数集まった状況でのエネルギー状態等,量子多体系のさまざまな性質を導くことが可能なGreen関数の量子計算について,より少ないゲート数で大規模な系の計算が可能となる.このような技術を上記アーキテクチャに融合可能なことが,当社の量子コンピューティング技術の大きな強みとなっている.
先駆的なアプリケーションを開拓する取り組みとして,富士通では昨年度に引き続き2024年度も量子回路シミュレータを活用したコンテスト「Quantum Simulator Challenge 2024」を開催した[13].本コンテストでは,提供する量子回路シミュレータ上で,アプリケーション開発や問題解決プロジェクトを実行いただける参加者を企業・教育機関などから広く募集し,2023年の開催では17の国と地域の43チームから応募があり,そのうち審査通過は20チームであった.入賞したチームについてはFujitsu Quantum Day(オランダ,デルフト市)で表彰を実施した.
本コンテストを通じて,課題解決に向けた実践的なアプリケーションでの量子回路シミュレータの活用,富士通と参加者との量子回路シミュレータのユースケース共同構築,量子回路シミュレータのパフォーマンスや拡張性に対する参加者からのフィードバックの反映などが期待されている.
実用的な量子アプリケーション開拓のため,富士通では現在国内外の社外ユーザ様との連携を実践している.量子化学計算分野では本稿で紹介した富士フィルム様,東京エレクトロン様のほか,三菱ケミカルグループ(株)様とも連携を進めている.また,金融工学分野およびデータサイエンス分野では,みずほ第一フィナンシャルテクノロジー様とも連携を開始している.さらに,流体解析の分野でもDelft大学と共同研究を進めており[14],関連するお客様との連携も模索しているところである.このように,幅広い分野における量子アプリケーションの実用化を目指した活動を現在も推進している.
現在の半導体デバイスでは,トランジスタの微細化がますます困難になり,製造コストも増大するなど,その限界が近づいてきている.AIやビッグデータの処理においては高い電力消費と発熱が大きな問題となっており,これらの問題を解決できるポテンシャルを持っている量子コンピュータへの期待が非常に高まっている.現時点では,まだ量子コンピュータのハードの性能に課題があるが,今回紹介したお客様との共同研究を通じてニーズを把握しつつ,大規模量子回路シミュレータやハイブリッド量子クラウドプラットフォームなどを活用することで課題を探り,アプリケーション開拓に継続的に取り組んでいる.
富士通としては,世界トップ性能をマークするスーパーコンピュータを企画,設計,製造できる技術と人材,スパコンを使いこなすソフトウェア技術と人材を保有しており,さらに長年培ってきた強固な基盤や業種知見などの資産や,クロスインダストリー(業種横断)への取り組みなどの点で大きな強みを持っている.これらの富士通全体での強みを活かし,他の重要技術(AI,最適化,デジタルアニーラ,等)とも組み合わせ,量子コンピューティング技術を使える形で昇華させ,より良い社会の実現に貢献することを目指していきたい.
亀山裕亮(正会員)
h.kameyama@fujitsu.com
1997年筑波大学工学システム学類卒業.2004年筑波大学工学研究科・博士(工学).2005年(株)富士通研究所入社.現在は量子コンピュータの社会適用にかかわる研究に従事.現在,同社量子研究所,シニアリサーチマネージャー.
瀧田 裕
takita.yutaka@fujitsu.com
2000年東京大学電気工学科卒業.2002年東京大学大学院工学系研究科電子情報通信専攻・修士.2002年(株)富士通研究所入社.現在は量子コンピュータの社会適用にかかわる研究に従事.現在,同社量子研究所,シニアリサーチマネージャー.
小山純平
koyama.junpei@fujitsu.com
2003年東京大学電気工学科卒業.2008年東京大学大学院工学系研究科電子工学専攻・博士(工学).2008年(株)富士通研究所入社.現在は量子コンピュータの実応用にかかわる研究に従事.現在,同社量子研究所,シニアリサーチマネージャー.
木船雅也
kibune.masaya@fujitsu.com
1996年東京大学工学部物理工学科卒業.1998年東京大学大学院工学系研究科超伝導工学専攻・修士.1998年(株)富士通研究所入社.現在は量子コンピュータ向け基盤技術にかかわる研究に従事.現在,同社量子研究所,リサーチディレクター.
菊池慎司
skikuchi@fujitsu.com
1995年名古屋大学電気電子情報工学科卒業.1997年名古屋大学大学院工学研究科電気電子情報工学専攻修了.2013年北陸先端科学技術大学院大学情報科学研究科・博士(情報科学).1997年(株)富士通研究所入社.現在は量子コンピュータアプリケーションにかかわる研究に従事.現在,同社量子研究所,シニアプロジェクトディレクター.
佐藤信太郎
sato.shintaro@fujitsu.com
1990年筑波大学大学院理工学研究科修士課程修了.ウシオ電機(株)を経て,2001年米国ミネソタ大学大学院博士課程機械工学研究科修了,Ph.D. 同年富士通(株)入社,現在に至る.2006〜2010年(株)半導体先端テクノロジーズ兼務.2010〜2014年産業技術総合研究所出向.2018年応用物理学会フェロー.2021年より理研RQC-富士通連携センター・副連携センター長(兼務).
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