量子コンピュータ(Quantum computer)[1,2]とイジングマシン(Ising machine)[3,4]の研究開発が世界的に盛んに行われ,ハードウェア・ソフトウェアの両面での実用化に向けた取り組みが進められている.量子コンピュータは,1985年にDeutschによって提案された量子チューリングマシンと数学的に等価なコンピュータとして定義される.最近,量子エラー訂正機能を搭載した誤り耐性汎用量子コンピュータの開発が精力的に進められ,その社会実装に大きな期待が寄せられている[5].一方,イジングマシンは,古典あるいは量子力学の原理に基づいて組合せ最適化問題の近似解を求めるコンピュータであり,量子コンピュータとは根本的に異なるコンピュータである.
本稿では,量子コンピュータおよびイジングマシンの原理(2章),利用が期待されている産業分野と実機での動作状況(3,4章),社会実装に向けた課題(5章)と今後の展望(6章)について述べる.
この章では,量子コンピュータとイジングマシンの間に存在する根本的な違いを明らかにする.まず,2.1節では量子コンピュータの計算原理とその強力な計算能力の理由について説明する.量子ビットの重ね合わせや量子ゲート操作,測定など,量子計算の基本を理解することで,従来の古典コンピュータとの違いを浮き彫りにする.それに続く2.2節では,イジングマシンの動作原理とその特徴について詳述する.組合せ最適化問題の処理に特化したイジングマシンは,古典的なシミュレーテッドアニーリングから量子アニーリング,そして量子インスパイアド型まで,多種多様なアプローチが存在する.各種イジングマシンのメカニズムと実際のハードウェアの進展状況に触れ,量子コンピュータとは異なる特性と利点を比較する.
まず,量子コンピュータの計算原理を簡単に紹介する.量子コンピュータ上の情報の基本単位は「量子ビット」と呼ばれ,基底ベクトル \( \left|0\right\rangle \) と \( \left| 1 \right\rangle \) の線形結合である重ね合わせ状態 \( c_0\left|0\right\rangle+c_1\left| 1 \right\rangle \)( \(c_0,\ c_1 \) は確率振幅と呼ばれ \( \left|c_0\right|^2+\left|c_1\right|^2=1 \) を満たす複素数)を表現できる.複数の量子ビットを用意すればテンソル積でどんどん状態空間を大きくでき,3量子ビットなら \( 2^3=8 \) 次元の複素ベクトル \( \sum_{i=0}^{7} a_i \left| i \right\rangle \)で表現できる.この状態ベクトルの次元は量子ビット数 \( N \) に対して指数関数的に増加し,この著しい性質こそが量子コンピュータの高い表現能力の根幹を成す.
量子コンピュータでは,この量子ビットに「量子ゲート操作」を繰り返し,量子ビットの状態を目的の状態へと変化させることで計算を進める.\(N\) 量子ビットの状態は大きさが1に規格化された \( 2^N \)次元の複素ベクトル,量子ゲート操作の列は \( 2^N \)次元ユニタリ行列である.最後に量子ビットの状態を読み出す「測定」操作を行うと,複素確率振幅の絶対値の2乗の確率で計算結果として \(N\) ビット列を得る.前述の3量子ビットの例では,測定の結果 \( \left| 7 \right\rangle = \left| 1 \right\rangle \left| 1 \right\rangle \left| 1 \right\rangle \) が得られる確率は \( \left|a_7\right|^2 \) である.
確率振幅が負の値をとることを利用すれば不要な計算パスを削除できる.そのようにして指数関数的に大きな次元のベクトルの操作が効率よく行えることがあり,これが,量子コンピュータが従来のコンピュータ(量子力学との対比で「古典」コンピュータと呼ばれる)を超える計算能力を持つと期待される最大のポイントである.効率よく操作する工夫を「量子アルゴリズム」と呼び,古典アルゴリズムを時間計算量の観点で改善できることを「量子加速」という.なお,これはあくまでも計算複雑性理論の話であり,実際のプログラム実行時間が短いことを意味しない.
量子アルゴリズムの研究開発に加えて量子コンピュータハードウェアの研究も急速に進展している.量子ビットの実現には原子,イオン,光子などの自然量子系と超伝導量子回路や半導体量子ドットなどの人工量子系という多方向からのアプローチがあり,一口に量子コンピュータと言っても,その実装はさまざまである.量子コンピュータの計算機アーキテクチャは量子エラー訂正機能を搭載していないNISQ(Noisy Intermediate Scale Quantum device)と量子エラー訂正機能を搭載したFTQC(Fault-Tolerant Quantum Computer)の2つに大別され,NISQはアナログ量子コンピュータ,FTQCはデジタル量子コンピュータである.本稿においては原理実証が進んでいるNISQの利用状況を中心に取り上げるが,FTQCでの実行を見据えた量子アルゴリズムの話題も適宜扱う.
イジングマシンは,組合せ最適化問題の処理に特化したコンピュータであり,アニーリングマシンとも呼ばれる.イジングマシンは,その動作原理により古典型,量子型,量子インスパイアド型に大別される.
古典アニーリングマシンは,1983年にKirkpatrickによって提案されたシミュレーテッドアニーリング[6]と呼ばれる古典物理学(古典統計物理学)の原理に基づいて動作するコンピュータである.組合せ最適化問題は,イジングモデルの基底状態探索問題に変換できる.シミュレーテッドアニーリングにおいては,徐々に温度を下げることでコスト関数(イジングモデルのエネルギー)を最小化するスピン状態の近似解を求める.一方,量子アニーリングは,量子揺らぎを徐々に弱めていくことで,イジングモデルの最小エネルギー状態の近似解を求める手法である.
量子アニーリングは組合せ最適化問題の最適解を近似的に求める量子力学的手法として1989年に計算機科学者のApolloniら[7],次いで1994年に化学者のFinnilaら[8]によってそれぞれ独立に提案された.その後1998年に物理学者の門脇正史と西森秀稔が,横磁場イジング模型に基づいて量子アニーリングを定式化し[9],それが現在広く普及している量子アニーリングの原型となっている.また,量子インスパイアド型は,量子アニーリングなどの量子力学原理に基づいた組合せ最適化問題解法を,数学的に等価な古典モデルに変換あるいは古典極限をとるなどして古典化したものである.代表的なものとしては,量子モンテカルロ法やテンソルネットワーク法による量子アニーリングのエミュレーション(シミュレーテッド量子アニーリング),量子分岐マシンを古典近似したシミュレーテッド分岐マシン(東芝),量子注入同期レーザー方式イジングマシンを古典近似したコヒーレントイジングマシン(NTT)などがある.
現在,イジングマシンのハードウェア開発が国内外で進められている.超伝導量子回路を用いた量子アニーリングマシンは,2010年にカナダD-Wave Systemsによって商用化されており,2025年3月の段階では5640量子ビットの製品D-Wave Advantage 2が同社より販売されている.また同社は,量子クラウドLEAP2を用いて最適化問題ソルバーとしてのサービスを提供している.さらに,QilimanjaroおよびNECが,量子コヒーレンス性能の高い超伝導量子アニーリングマシンの研究開発を進めている.
一方,古典アニーリングマシンおよび量子インスパイアド型アニーリングマシンに関しては,日本の大企業やベンチャーが,GPU,FPGA,ASIC,光ネットワークなどのさまざまな方式のハードウェアを開発・販売し,クラウドサービス,最適化コンサルサービスの提供を行っている.古典アニーリングマシンのハードウェアに関しては,CMOSアニーリングマシン(日立),デジタルアニーラー(富士通),ベクトルアニーリングマシン(NEC),アメーバコンピュータ(AMOEBA ENERY),Qalmo(ディー・クルー・テクノロジーズ)などがある.さらに,GPU上でソフトウェア実装した古典アニーリングマシンがFixstars Amplify(Fixstars Amplify AE)やDENSO(DENSO Mk-D)から公開されている.また,量子インスパイアド型アニーリングマシンのハードウェアとしては,シミュレーテッド分岐マシン(東芝)やLASOLVE(NTT)が公開されている.このようにきわめて多様なイジングマシンハードウェアが世界中で開発されている中,さまざまなイジングマシンハードウェアにワンストップでアクセスできるクラウドプラットフォームFixstars Amplify[10]がFixstars Amplifyより提供されている.
これまでイジングマシンに関する多くの理論研究およびベンチマーキングが行われてきたが,計算時間の問題サイズに対するスケーリングはイジングマシンであっても古典コンピュータと同様に指数関数的であることが分かっている.すなわち,量子アニーリングマシンを始めとするイジングマシンを用いたとしても,組合せ爆発を避けることはできない.また,理想的な量子アニーリングの古典数理最適化アルゴリズムおよび古典アニーリングに対する理論的優位性も限られた組合せ最適化問題でしか示されていない.そのため,量子アニーリングマシンは,古典および量子インスパイアド型アニーリングマシンと同様にノーフリーランチ定理の呪縛から逃れることはできないと考えられている.
その一方で,古典および量子インスパイアド型アニーリングマシンに関しては,ASICやFPGAなどによってハードウェア実装することで,古典数理最適化ソルバや古典コンピュータ上のソフトウェア実装に比べて小型化,(定数倍の)高速化,高エネルギー効率化が可能になると期待されている.また,NVIDIAのGPUクラスタ上で古典アニーリングおよび量子インスパイアド型アニーリングをソフトウェア実装することで,従来技術では困難であった100万スピン以上のきわめて大規模な組合せ最適化問題を解くことも可能となっている☆1.そのため,現在,イジングマシンを用いた組合せ最適化問題のユースケース探索と実ビジネスでの利用に向けた取り組みが多くの企業において盛んに行われるようになってきた.また,さまざまなイジングマシンを扱えるクラウドプラットフォームの商用利用サービスも始まっている.そこで,4章において,イジングマシンの産業応用ユースケースとビジネス利用事例について紹介を行う.
この章では,量子コンピュータが具体的にどのようなユースケースに利用されているか,そして社会での実装状況について詳述する.まず3.1節では,材料・創薬分野における量子化学計算の重要性とその利点について考察する.次に,3.2節で機械学習分野における量子コンピュータの応用と課題について触れ,3.3節では金融工学分野でのデリバティブ価格評価やリスク計算への利用事例を紹介する.最後に,3.4節で計算工学シミュレーションにおける量子コンピュータの可能性について論じる.それぞれのユースケースにおける現状と将来展望を捉える.
量子コンピュータの応用先として現在最も精力的に取り組みが進められている分野は,材料・創薬分野である.特に新材料・新薬の設計に欠かせない量子化学計算を高精度に行うには,さまざまな電子状態の重ね合わせや量子もつれ(電子相関)を考慮する必要があり,計算は電子数に対し指数的に難しくなる.しかし,量子コンピュータはこのような重ね合わせ状態を自然に取り扱えるので効率的な計算が期待できる.量子力学の原理で動作する量子コンピュータなら,量子力学のシミュレーションである量子化学計算を効率的に計算できると期待することは,非常に理にかなっているといえよう.
量子化学計算は大規模な行列の固有値問題(対角化)に帰着されるため,量子位相推定アルゴリズムによる量子加速が期待できるが,ノイズのあるNISQ量子コンピュータで実用規模の計算を行うのは困難である.NISQ量子コンピュータ向けでは変分量子アルゴリズム[11]が注目されており,量子化学計算に用いるアルゴリズムとしてVariational Quantum Eigensolver(VQE)[12]がある.VQEは励起状態計算[13]や周期系への対応[14],物性値の計算(エネルギー微分)[15]などさまざまな拡張が行われているほか,ノイズ耐性を高めるためにVQEよりもさらに量子コンピュータの役割を限定したQSCI(Quantum Selected Configuration Interaction)法[16]も注目されている.
具体的な事例は,有機EL発光材料の励起状態エネルギー計算[17],ポテンシャルエネルギー表面計算による熱力学特性の評価[18],VQEに基づく励起状態分子動力学シミュレーション[19],タンパク質─リガンド相互作用の計算[20],マグネシウム表面での水の解離[21]などさまざまな計算が行われている.またVQEとはやや異なるアプローチとして量子モンテカルロ法[22,23]や動的平均場計算(のための虚時間グリーン関数の計算)[24]の量子コンピュータによる実行も検討されている.
これらは,まだ従来手法と同程度の計算が量子コンピュータでも可能だと示すにとどまっているが,スパコンと連携した計算などの先端分野では,量子コンピュータを使わなければ計算できない領域がいよいよ見え始めている[25].ユーザーからの期待も高く,材料・創薬分野での量子コンピュータの利用は一層進むだろう.
量子コンピュータは機械学習分野でも注目されている.機械学習でしばしば現れる大規模な行列計算を量子コンピュータなら効率的に行えることが最大の理由である.線形連立方程式を解くHarrow-Hassidim-Lloyd(HHL)アルゴリズム[26]をベースとした多くの量子機械学習アルゴリズムは線形回帰やサポートベクターマシンなどをそのまま高速化(データ数に対して指数加速)できる点で魅力的だが,データを効率よく量子状態に埋め込むQRAM(Quantum Random Access Memory)というエンコーダーの実現方法が見つかっていない.そのため近年はNISQで実行できる量子回路学習[27]や量子カーネル法[28]が注目されている.これらの量子アルゴリズムはデータを量子状態にマップしその量子特徴量空間を使って機械学習モデルを構築する手法といえる.
量子機械学習アルゴリズムでは,古典ニューラルネットと量子ニューラルネット(ニューラルネットに見立てた量子回路)のハイブリッドアルゴリズムが多く,物体カラー写真(CIFAR-10)やバイオメディカル画像(Medical MNIST)[29],ファッション商品画像データ(Fashion-MNIST)[30]などのデータベースを用いたものに加えて,電子健康記録(Electronic Health Record, EHR)の分類[31],やディープフェイク交通標識画像検出[32]など実用に即した設定のベンチマーキングも行われている.
そのほかにも,自己教師あり学習への拡張[33]や生成モデルの構成[34]といった機械学習モデルとしての工夫や,自然言語処理[35]や離散対数値でラベルされた人工的なデータの分類[36],Fashion-MNISTのラベルの貼り直し[37]など問題を量子コンピュータに有利なように設定変更する方法の模索も精力的に行われている.NTangled[38]やMNISQ[39]など量子特徴量の優位性を意識したデータセットの整備も進められている.
量子機械学習がAlphaFold3やChatGPTのような高度な処理を実現するまでには,まだ時間がかかりそうだ.しかし,現時点でも実用化への可能性は開けている.期待できる方向性としては,問題設定を工夫して量子コンピュータの特性を活かすことや,古典ニューラルネットと組み合わせて使用することが考えられる.機械学習は産業界での応用範囲が広く,さまざまな分野で活用されている.そのため,量子機械学習への期待は今後も高まり続けると予想される.
金融工学では,金融市場や取引の課題に対して,統計学や経済学の手法とコンピュータを組み合わせた工学的なアプローチが用いられている.金融実務においても,業務の多くの場面でコンピュータによる情報処理が不可欠となっており,将来的な計算需要の増大に備えて量子コンピュータの活用が検討されている.デリバティブの価格評価,リスク計算,市場予測,不正取引の検知,ポートフォリオ最適化など,量子コンピュータの活用が期待される分野は多岐にわたる.ここではデリバティブ価格評価とリスク計算を取り上げる.
デリバティブ価格評価やリスク指標計算で重要となる期待値の計算で,数値積分をサンプリングの平均値で近似するモンテカルロ積分がよく利用される.このとき必要なサンプル数(=計算量)は精度 \( \varepsilon \) に対して \( O(1/\varepsilon^2) \) である.一方で量子振幅推定アルゴリズム[40]を利用した量子版のモンテカルロ積分[41]では計算量は \( O(1/\varepsilon) \) と二次の量子加速が得られる.
具体的な取り組みとしては,ブラックショールズモデルのヨーロピアンオプションの評価[42],債権ポートフォリオの市場リスク計算[43],バニラオプション,マルチアセットオプション,バリアオプションの価格決定[44]などさまざまな問題設定で検証が行われている.
いずれもデモンストレーション実験的であり,これは量子振幅推定アルゴリズムにサブルーチンとして含まれる量子位相推定アルゴリズムに多数のゲート操作が必要で,NISQ量子コンピュータでの実行が難しいことによる.そのため,測定結果に応じた量子振幅増幅[45]や最尤推定と量子振幅増幅の組合せ[46]といった工夫により,量子位相推定を使用しない新しいタイプの量子振幅推定アルゴリズムも提案されている.
また,チェビシェフ補間と量子振幅推定の組合せによるオプション価格評価[47],量子特異値変換と量子振幅推定の組合せによるデリバティブ価格のVaR(Value at Risk)計算[48]といった高度な問題設定への拡張も進んでおり,計算理論的な意味での量子加速だけでなく,実際の計算時間の短縮も視野に入りつつあるように見える.
微分方程式の数値解法は,科学分野だけでなく産業界でも重要な役割を果たしている.特に工業製品の設計・開発では,CAE(Computer Aided Engineering)を用いて構造,熱流体,電磁場などの物理現象を解析しており,応用範囲が広い微分方程式の計算は量子コンピュータの有望な活用分野となる可能性がある.
時間依存のない線形微分方程式は行列の対角化問題に帰着するため,前述のHHLアルゴリズムで解くことになるがNISQでの実行は難しい.そのため,NISQでの実行を考えた変分アルゴリズムとしてVariational Quantum Linear Solver(VQLS)[49]が提案されている.また,線形微分方程式を支配方程式とする時間発展シミュレーションには,ハミルトニアンシミュレーション[50]やVariational Quantum Simulation(VQS)[51]などが用いられる.具体的にはポアソン方程式[52],波動方程式[53,54]の例があり,これらは基本的には線形微分方程式をシュレーディンガー方程式に当てはめて量子コンピュータ上で効率よく計算する手法である.
一方,非線形微分方程式を解くには工夫が必要である.まず線形化する必要があり,2通りの方法が知られている[55].1つはカールマン線形化と呼ばれ,高次の非線形項を含む変数を有限次数で打ち切って量子系の複素確率振幅にマッピングする方法である.線形化された微分方程式の係数行列がエルミート(正確には反エルミート)にはならず,その場合にはそのままシュレーディンガー方程式には当てはめられない[56](エルミートにする「シュレーディンガー化(Schrödingerisation)[57]」なる手法の提案もある).
一方,クープマン・フォン・ノイマン線形化という方法は,位置演算子を介して変数を量子状態に埋め込むことでエルミートな係数行列を持つ微分方程式に変換できる.この埋め込みは「有限自由度・非線形」システムの「無限自由度・線形」システムへのマッピングであり,実はそのままでは量子コンピュータで効率よく計算できない.さらにフォック空間をトランケートする(ある決まった粒子数で打ち切る)ことで「有限自由度・線形」のシステムで近似し,ようやく効率よく計算できるようになる[58].この埋め込みにより効率良く解ける問題の十分条件が導出され,具体例として非線形調和振動子系や短距離蔵元模型などが挙げられている[59].しかし産業応用で重要となる具体的な非線形微分方程式がこの手法で効率よく解けるのかどうかはまだよく分からず,今後のさらなる研究が必要だろう.
組合せ最適化問題はありとあらゆる産業分野において遍く現れる.そのため,製造,物流,機械学習,創薬,化学,広告,金融,セキュリティなどのさまざまな業界においてイジングマシンのユースケース探索が進められている.以下,企業による代表的ユースケース探索とPoC事例について紹介を行う.
量子アニーリングマシンの実社会におけるユースケース探索のさきがけは,Volkswagenによる北京における交通流最適化実証実験である[60].同社は,北京空港から北京市内までを行き来する418台のタクシーに対して,取得したGPSデータから最適ルートを計算し,混雑が改善されることをD-Wave Systemsの量子─古典ハイブリッドソルバqbsolveを用いて実証した.その後,DENSOおよび東北大学が,イジングマシンを用いて工場内での無人配送車(AGV)の走行経路最適化実証実験を行った[61].この実証実験においては,古典数理最適化ソルバ(Gurobi),量子アニーリングマシン(D-Wave 2000Q),古典アニーリングマシン(富士通デジタルアニーラー)を用いたベンチマーキングが行われたが,最も高速に処理を行ったのはGurobiであった.また,トヨタシステムズと富士通は,古典アニーリングマシン(デジタルアニーラー)を利用した自動車製造部品の物流ネットワーク最適化に取り組み,300万候補の中から近似最適化を計算できることを実証した[62].最近,古典および量子インスパイアド型アニーリングマシンを用いた同様な取り組みが,シャープ,東北大(物流倉庫内でのAGVルート最適化)[63],ニトリ,ホームロジステイックス,富士通(家具配送ルート最適化)[64],NEC,NECフィールディング(保守部品の配送ルート最適化)[65],ベトナム郵便,日立製作所(郵便の最適配送計画)[66],TOPPANデジタル,東芝デジタルソリューションズ(ピッキングルート・棚配置の最適化)[67]において進められている.
材料,化学,創薬分野における情報処理において,組合せ最適化問題はさまざまな場面で登場する.そのため,材料,化学,創薬分野はイジングマシンのキラーアプリケーションの1つであると考えられている.富士通はペプチドリームと連携して,古典アニーリングマシン(デジタルアニーラー)と古典コンピュータを用いて創薬の候補物質となる環状ペプチドの安定構造探索を高精度に行えることを実証した[68].また,富士通と東レは,タンパク質の側鎖配座の最安定構造予測にも成功している[69].さらに,Revorfと東芝デジタルソリューションは,量子インスパイアド型アニーリングマシン(シミュレーテッド分岐マシンSQBM+)を用いてタンパク質のアロステリック制御の予測を高精度に行う技術を開発し,計算創薬への適用性を検証した[70].
一方,材料探索に関する事例としては,東北大学とLG Japanによる量子アニーリングマシン(D-Wave Advantage)と古典ベイズ最適化を利用した新規化学材料の組成探索があげられる[71].また,日立製作所と積水化学は,古典アニーリングマシン(CMOSアニーリングマシン)と古典機械学習技術を用いて,材料特性の最適条件探索および予測精度の向上を実証した[72].さらに,Volkswagenは,量子化学計算のハミルトニアンをイジングモデルに変換し,量子アニーリングマシン(D-Wave 2000Q)を用いて水素分子と水素化リチウムの基底状態探索デモに成功した[73].その後,産総研,DENSO,NECは,量子アニーリングマシン(D-Wave Advantage)を利用して,励起状態探索[74]のデモに成功している[75].また,半導体分野においては,会津大学,Fixstars Amplify,キオクシアが古典アニーリングマシン(Fixstars Amplify AE)を用いてリソグラフィ工程におけるマスク形状最適化に取り組んでいる[76].
量子および古典アニーリングマシンを用いた金融分野へのユースケース探索が最近盛んに進められている.特にポートフォリオ最適化に関しては,D-Wave Systemsの量子アニーリングマシンを用いた取り組みが数多く行われてきた[77].Standard Chartered 銀行と米国大学宇宙研究協会は,量子アニーリングマシン(D-Wave 2000Q)と遺伝的アルゴリズムを組み合わせたハイブリッド手法を用いて,ポートフォリオ最適化のベンチマーキングを行い,量子アニーリング単独の場合に比べてハイブリッド手法のほうが3桁程度高速化することを示した[78].また,Multiverse Computingとビルバオ・ビスカヤ・アルヘンタリア銀行は,量子アニーリングマシン(D-Wave Advantage),古典数理最適化ソルバ(Gekko),テンソルネットワークによる量子インスパイアド型アニーリング,量子コンピュータ(IBM超伝導量子コンピュータ)を用いて52の資産の8年間のデータを対象にポートフォリオ最適化問題を解き,詳細なベンチマーキングを行った[79].さらに,東芝は東京証券取引所コロケーションエリアに設置した量子インスパイアド型アニーリングマシン(FPGAベースのシミュレーテッド分岐マシン)を用いて,リアルタイム株価データ(Nikkei225およびTOPIX100)を対象にポートフォリオ最適化のリアルタイム処理のデモに成功した[80].
一方,三井住友フィナンシャルグループ,日本総研,日本電気は,量子アニーリングマシン(D-Wave 2000Q)を利用し,金融取引の正常/不正を識別するためのAIモデル構築を行い,異常検知の精度向上に成功した[81].
以上のように,金融分野におけるイジングマシンのユースケース探索が今後進展することで,将来的にイジングマシンがリアルタイムの金融取引や不正検知などへ実利用されることが期待されている.
これまでに紹介してきた,物流,化学,創薬,金融等の実ビジネス分野において,量子アニーリングの古典コンピュータ,古典数理最適化ソルバ,古典アニーリングに対する計算能力の優位性は,限られた特殊なケースを除いて,理論的にも実機ベンチマーキングにおいても明確に示されていない.それに対し近年,D-Wave Systemsを中心に,超伝導量子アニーリングマシンを量子スピン系やトポロジカル物質系の基底状態・相図計算や量子ダイナミクス計算に用いる基礎研究が精力的に進められており,古典コンピュータによる数値計算手法に比べて(指数爆発は回避できないが)高速計算が可能であることがさまざまなモデルに対して示されている.そのため,量子アニーリングマシンの優位な領域は物性シミュレーションであると期待されている.
2018年にD-Wave SystemsはD-Wave 2000Q(1800量子ビット)を用いて,2次元横磁場イジングモデルのトポロジカル相転移現象(Berezinskii, Kosterlitz, Thouless転移)の再現に成功した[82].この成果により,D-Wave Systemsの量子アニーリングマシンは物性シミュレータとして優位性があることが示唆された.その後,同社は3次元量子スピングラス[83],量子スピンアイス[84],量子カゴメアイス[85],フラストレート量子スピン系[86]の実機による量子シミュレーションに相次いで成功し,従来の古典的アルゴリズムに対して高速計算が可能となることを示した.また,同社は1次元横磁場イジングモデルの非平衡量子ダイナミクス[87]や3次元スピングラスの量子臨界ダイナミクス[88]などの時間発展シミュレーションを行い,D-Wave Systemsの量子アニーリングマシンの実行結果は,コヒーレンス時間内のきわめて短い時間スケールであれば量子力学的な理論予測と非常に良く一致することも示した.
以上の事例は,D-Wave Systemsの量子アニーリングマシンが,量子スピン系やトポロジカル物質のシミュレーションにおいて有効であることを示している.今後,量子アニーリングマシンハードウェアの性能や集積度の向上に伴い,物性物理学,材料科学,スピントロニクス分野における新たな発見や応用に繋がると期待できる.
この章では,量子コンピュータとイジングマシンが社会実装に直面している課題を詳述する.まず,量子コンピュータが直面する最大の障壁である「どんな計算ができるのか?」という基本的な問いに対する明確な答えがないことについて論じる.また,技術的な性能向上やビジネス面での導入の難しさについても解説する.次に,イジングマシンの課題について,古典計算技術に対する優位性が不明瞭であり,多種のイジングマシンの性能比較やユースケース探索が急務であることを指摘する.これらの課題を克服するための方策として,クラウドプラットフォームの活用やベンチマーキングの重要性について触れる.
量子コンピュータの社会実装への最大の課題は,「どんな計算ができるのか?」という基本的な問いに,明確な答えを示せていないことである.この問題は,現在使える量子コンピュータ(NISQ)だけでなく,将来の量子コンピュータ(FTQC)にも当てはまる.
確かに,量子ビット数や量子論理ゲートの精度といった技術的な性能向上は重要で,その将来計画をロードマップとして示すことは大切である.しかし,多くのユーザーが本当に知りたい「実際に何ができるのか」という声にも,もっと耳を傾ける必要があろう.
たとえば,「100量子ビットの量子コンピュータ」と聞いても,量子優位性のあるタスクが実行できるかもしれないが,それだけでは実用的な計算ができるという意味にはならない.量子ビットの数以外にも,プログラムを実行するために必要なゲート操作の回数が重要な要素となるためである.
実際の計算に必要なゲート操作の回数は,解きたい問題や使うアルゴリズムによって変わる.このため,量子コンピュータを提供する企業は,実行可能なゲート操作数など実行可能なプログラムのサイズに関する情報も示す必要がある.量子ボリュームはそのような指標の1つであろう.そして,ユーザーは自分のやりたい計算に必要なリソース(量子ビット数とゲート操作数)を見積もり,それが実現可能かを判断することになる.
たとえば,あるサイズの行列の固有値問題を量子位相推定アルゴリズムで解くときにCNOTゲートが\({10}^8\)個必要と見積もられたとする.すると,ハードウェアとしては大まかに見積もって\({10}^{-8}\)程度の操作エラー率が要求されることになる.手元には操作エラー率が\({10}^{-4}\)のNISQしかないため,計算精度を妥協したり,古典コンピュータとの組合せを検討したりという工夫が必要ということになる.
「何ができるか分からない」という問題は,ビジネス面でも大きな壁となっている.現状では,従来のコンピュータと比べて高額な利用料に見合う成果が期待しづらく,産業利用ユーザーが集まりにくい状況である.量子コンピュータの導入には多額の投資が必要だが,利用者数の見通しが不透明なため,データセンター事業者がクラウドサービスとして提供するビジネスモデルの確立は難しい状況にある.今後は,量子コンピュータが実際にビジネス価値を生み出せることを示しながら,技術開発を進める必要があるだろう.
イジングマシンの場合は,現段階において社会実装に向けたユースケース探索が国内を中心に多くの企業により進められており,量子コンピュータに比べると比較的近未来に社会実装することが期待されている.しかしながら,従来古典計算技術(数理最適化ソルバや数理最適化アルゴリズム)に対する量子アニーリングマシン,古典アニーリングマシン,量子インスパイアド型アニーリングマシの計算機としての優位性や優位な産業応用領域がいまだに不明瞭な点が社会実装のための深刻な課題として挙げられる.先述したように,イジングマシンはヒューリスティックスに基づいているためにノーフリーランチ定理から逃れることはできない.そのため,多種多様なイジングマシンの平均性能は同じであり,個々のハードウェアごとに得意・不得意な組合せ最適化問題が存在することになる.このような状況下においては,特定のイジングマシンに特化するのではなく,さまざまなイジングマシンに加えて,古典数理最適化ソルバ,古典コンピュータ(スパコンなど),量子コンピュータ,量子コンピュータシミュレータにアクセス可能な組合せ最適化クラウドプラットフォームを構築し,ユーザーは解きたい組合せ最適化問題をさまざまなハードウェア・ソフトウェアで実行し,最もコスト関数の値が低いものを最適解候補として出力する方式が望ましい.2章で紹介したように,実際そのようなプラットフォームがFixstars Amplifyによって公開されている.今後は,ユースケース探索の深化・拡充に加えて,個々のイジングマシンが得意な産業応用領域をベンチマーキングによって明確化することが喫緊の重要な課題となる.そのためにも,イジングマシン向け国際標準ベンチマーキング指標の確立が求められる.
量子コンピュータに関しては,今後は量子コンピュータが得意で,かつ,古典コンピュータが苦手とする問題を見つけることが重要になってくるだろう.あるワークショップでは,このような問題設定を「Queasy problem」と呼んでいた.これは,古典コンピュータにとって「queasy(不快)」で,量子コンピュータにとって「easy(容易)」という意味を掛け合わせた表現である.ダジャレのような言葉遊びだが,量子コンピュータの実用化に向けた課題感を的確に表している言葉だといえる.同様に,イジングマシンに関しても,それぞれのイジングマシンが得意とし,古典コンピュータや古典数理最適化ソルバが苦手とする組合せ最適化問題を明確化することが必要になる.
量子コンピュータとイジングマシンの実用化には,その得意分野を探すだけでなく,従来型コンピュータが苦手とする計算領域を特定し,そこに焦点を絞って突破口を開くアプローチが重要である.量子化学計算のように,長年の研究で強力な従来型の計算手法が確立されている分野では,逆にその限界も明確になっている.一方,機械学習や金融工学では,従来型手法の限界や量子コンピュータとイジングマシンの強みがまだ不明確であり,これは新たな応用の可能性を示唆している.
量子コンピュータとイジングマシンは従来型コンピュータの代替ではなく,互いの強みを活かし合う補完的な関係にあるという認識が広まっている.現在のクラウドサービスでは,量子コンピュータやイジングマシンと従来型コンピュータが協調して動作し,VQEなどの量子古典ハイブリッドアルゴリズムやqbsolveなどの問題分割によって組合せ最適化問題を実行する環境が整っている.さらに,日米欧では,スーパーコンピュータと量子コンピュータを物理的に近接させる研究開発やプラットフォーム開発も進んでいる.
このような最先端の研究開発は,量子コンピュータとイジングマシンの社会インフラとしての活用を見据えた方向に進んでいる.ビッグデータやAIの発展によるGPU需要の増加により,データセンターとスーパーコンピュータの境界が曖昧になってきている中,近年のスーパーコンピュータランキング(TOP500)ではGPU搭載機種が躍進している[89].2030年に量子コンピュータとイジングマシンを組み込んだシステムがランクインするというのは,あながち夢物語でもないだろう.ただし,TOP500にGPU搭載機が入ってくるのは,ユーザーからの強い需要があるからである.量子コンピュータとイジングマシンが同様の地位を得るには,その価値をユーザーに実感してもらうことが重要となる.本稿がその一助となれば幸いである.
嶋田義皓
yoshiaki.shimada01@g.softbank.co.jp
2008年東京大学大学院工学系研究科博士課程修了,2018年政策研究大学院大学修了,博士(工学,公共政策分析).2012年より科学技術振興機構,2024年より現職.専門は物性物理,ICT,科学コミュニケーション.
川畑史郎
kawabata@hosei.ac.jp
1998年大阪市立大学工学研究科博士課程修了,工学博士.1998年より電子技術総合研究所,2001年より産業技術総合研究所.2024年より現職.量子コンピュータとイジングマシンの研究に従事.
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