会誌「情報処理」Vol.64 No.8(Aug. 2023)「デジタルプラクティスコーナー」

IBMのバーチャル入社式に見るバーチャル空間やイベント作成における実践的工夫や考慮ポイント

岡本茂久1  植井健太朗2  呉 采玲1

1日本アイ・ビー・エム システムズ・エンジニアリング(株)DX Center イノベーション・ラボ 
2日本アイ・ビー・エム システムズ・エンジニアリング(株)DX Center サステナビリティ・ソリューション 

IBMは2022年の入社式をオンラインの3D空間で開催した.会場は新入社員約600人のアバターが同一空間に同居できるイベント向けのVR空間を採用し,全員が一体感を感じることができるバーチャル入社式となった.本稿では,アバター操作やイベント空間作りの進め方で実践したことや,新入社員のアンケート結果や満足度スコアから有用・必要であると確認できたことを述べる.たとえば全員で人文字を形成する全体アクティビティなどを取り入れることで,3Dでイベント空間にいる意義や満足感が得られること,自分のアバターが確認できる鏡などが意外に重要なことである.一方,3Dであるが故に操作のとっつきにくさや進むべき場所の分かりにくさなどの課題もあり,なるべくユーザが自己解決できるUIやデザインコンセプトに干渉しない指示マーキングなどが検討・改善された.また,VR空間のユーザテストの結果,想定している経路より外に出てしまう(桟橋から海に落ちる)ときの防止策や,万が一そうなった場合のフォロー(スタート地点に戻る)などの施策の必要性が判明した.

1.バーチャル空間開発事例:IBMバーチャル入社式

日本アイ・ビー・エム(株)(以降,IBM)は2022年の入社式をオンラインの3Dバーチャル空間で実施した.当時はまだコロナ禍が去っておらず,一同に大人数がリアルで集まるイベントの開催は危ぶまれたため,オンラインで集うバーチャル入社式が計画された.IBMは2021年も同様の理由でバーチャル入社式を開発して開催した.そこではチャットでお互いのコメントをリアルタイムに共有するなどの機能が実現したが,空間はおおむね2次元としての表現で,アバターとして動き回れなかったので,2022年度は新しい試みとして3Dで表現された空間の中を自由に歩き回れることが求められた.

筆者らはこのバーチャル入社式の開発リーダーを務めた.イベントは新入社員約600人のアバターが同一空間に同居できるVR空間で成功裏に実施され,アンケートの満足度も高いスコアを示した.本論では,その要因を事前に行われたシステムテストで得られたユーザコメントにおける知見やその改善施策から探っていきたい.

2.IBMバーチャル入社式の制作

2.1 コンセプトワーク上の留意点(キービジュアル,3Dならではの演出,アイディア出し)

このようなバーチャルイベント空間の制作は,期間限定か常設かに限らず,コンセプトの作成が非常に大事である.コンセプトを元に,ライブストリーミング配信スクリーンのあるメイン会場や社内コミュニティの紹介動画にアクセスできる展示会場,といった会場レイアウトはもちろん,ユーザがアバターで空間にスポーン(出現)してからのメイン会場への導線設計や,ほかの大人数のユーザと同じ空間に参加している意義のある「一体感」を醸成する演出などの検討を行う.何のための空間・サービスなのか,ユーザにどのような体験を届けるのかについて一貫したコンセプトがないと,技術的制限やクライアントの要件の取捨選択に振り回されてしまう.

今回は,社会人になる入社式を「航海」と例え,「2022年4月1日 新たな船出の日 多様な変化の荒波の中 仲間とともに輝こう」というキャッチコピーが考えられた.これを踏まえてデザイナーがヨットなどの船で航海するキー・ビジュアルを起こし(図1),そこからチーム内で「多様な背景を持った仲間たちが船で「はじまりの島」に集結し,次の冒険に繰り出す集いを行う」,というストーリーに膨らませた.これを元にバーチャル空間で可能な演出に落とし込む作業が行われた.

入社式のキービジュアル
図1 入社式のキービジュアル

アイディア出しには新入社員の代表数名にも加わってもらい,一体感を共有できる3D空間ならではのアクティビティが何種か考えられた.目的地にたどり着くための立体迷路や,場面転換に伴って全員で移動する演出なども考案されたが,後から遅れて参加したユーザをフォローできないなどの実現性の問題もあり,全員で上から見たとき文字になる「人文字」,性格判断を行うクイズで該当の回答の床面に移動し,それを上から眺めて分布を可視化する試みに絞られた.このように,通常のアプリ開発などと同じくユーザテストの結果を取り入れるだけでなく,イベントの演出・コンテンツなどもアイディア出しをしてもらうことで,自分たちで作り上げるイベントであるとの満足感,体験の質向上を図ることができる.また,新人がユーザなので,世代ギャップ(Web世代やスマホ世代,動画共有世代のITリテラシーなど)を埋める目的でもよい相乗効果が得られる.

2.2 空間・アバターデザイン(立体構造や広さ,導線の設計,非日常空間の是非について)

2.2.1 空間の立体構造

メインの3D空間はコンセプトに合わせて,「はじまりの島」の船着き場に隣接した桟橋とし,その端に大人数が入る広間とした.3Dモデルは足場の見えない部分は削除してポリゴン数を削減し,描画負荷を軽減するなどの対策がとられた.スポーンポイントはメイン会場とは離れた桟橋の反対側の端だったが,メイン会場は視線の奥に見えており,続々アクセスする仲間たちとともにメイン会場に向かうことで,バーチャル空間の舞台にいること,式場に向かうという気持ちが高まる導線設計になっていた(図2).

桟橋のレイアウト
図2 桟橋のレイアウト

3D空間をアバターで歩き回る環境の場合,平面だけではなく,階段や坂道,複数階層など,「高さ」を取り入れた立体構造を組み込むと魅力的な空間設計になる.視点が変わることで2Dでは得られない距離感,俯瞰視点が得られて没入感に貢献すると考えられる.アバターの操作でSpaceキーを押すとジャンプすることができたが,移動速度には関連しないにもかかわらず,テストや本番時に多用するユーザが見受けられたのは,視点位置が変わるのが興味深かったのであろうし,桟橋の一部には階段で一段下がって水面近くを通れる脇道があり,そこを好んで通るユーザも多かった.スライド上映やライブストリーミング配信が行われるメインスクリーンの前は,現実のコンサートホールの客席と同様,前のユーザアバターの後頭部が邪魔にならないように掘り下げの階段式にするケースも多いが,今回は,後述の床を用いた人文字などのアクティビティのために,フラットな床面の会場となった.メインスクリーンは巨大だったので,アバターの視野を上に向かせることで視聴の問題はなかったが,テスト後のコメントに「首が痛そうに感じた」とあった.人文字を上から撮影するために,メイン会場の脇にはスタッフ専用の螺旋階段が設けられていたが,眺めがよいので,テスト時は人気スポットとして多くのユーザが登ってくる状況が見られた.

2.2.2 メイン会場のレイアウト

VR空間はどれだけの広さにするのが最適だろうか.雰囲気や没入感,レンダリングの負荷も重要な要素だが,実施するイベントに合わせた適切なサイズにすることが重要である.今回のメイン会場は,約600人いても圧迫感がなくスクリーンが見られる広さを検証,実際にアバターの3Dモデルを一定の距離を置いて配置し,十分なサイズ,また人文字を描いてそこに600前後のアバターが乗っかったときに,過不足ない大きさとなることを試行錯誤した.また,広間のどこからでも視聴に問題ないように,広間とスクリーンのサイズを調整した.

スクリーンに関しては,一般には,アバターの位置から見て斜めになるなどサイズ・向きが不利な状況を救うために,タップすると2Dスクリーンとしてユーザ側に拡大表示するユーザインタフェース案もある.これは周囲のユーザの挙動が見えにくくなり,また3Dで参加している意義が削がれるなど,没入感を妨げるデメリットもあるので,今回採用しなかった.スクリーンは広間の前と左右に3つ設置されて同じ内容が表示されたので,どの向きで移動していても内容を確認することができ,表示に対する不満のコメントはなかった.

また,アバターの移動速度も考慮し,広間の端から端まで歩いて・走って何秒かかるかを測定した(最終的には20〜30秒ほどに調整).これはアクティビティにおける人文字やクイズにかかる移動時間に関係し,お題ごとに1分もかかるようでは進行に影響が出てしまうと考えられたためである.当日はユーザアバターの収容,アクティビティの移動も問題なくスムーズに執り行われた(図3).アバターにはマウスを指した先に手からポインターレーザのような光線を出すことができ,螺旋階段の上から移動指示などに使うことが想定されたが,その到達距離に限界があるため,上から照射して広間の隅まで十分届くということも検証された.

広間の様子
図3 広間の様子

螺旋階段(図4)は,上からのビューを確保するお立ち台に到達するために,広間の脇に設けられた.会場全体を俯瞰できる高台は有用で,会場の雰囲気やアバターの混み具合,ライブストリーミング配信の様子など,イベントが問題なく進んでいるのかを運営側のアバターが確認できた.また,イベント開催記録のためのキャプチャー撮影でも,全体俯瞰できる高台は役に立ち,人文字やクイズでの床移動のアクティビティでは,上から見た視点をそのままライブ映像で配信した.これは上空に専用カメラを設置するよりも切り替えロジックが技術的に容易で,カメラマン視点としての自然な絵を得ることができた.

広間近くのお立ち台と螺旋階段
図4 広間近くのお立ち台と螺旋階段
2.2.3 非日常空間の留意点

バーチャル空間は,会議室を模したものなど日常の延長のものを制作する場合と,現実とは離れた非日常的な空間として構成する場合がある.バーチャル入社式は会場をオフィス空間調にすることも考えられるが,期間限定イベント向けVR空間は非日常的な場所のほうが満足度が高いと考え,「島の桟橋に船員のアバターで集う」というコンセプトからも非日常の空間となった.アンケートの結果では満足度スコアは高いものとなっていたが,同じユーザ母体で定量的に比較したわけではないので実際には分からない.しかし,会社の文化・雰囲気を伝える上で印象に残るものになったと考えられる.

空間設計が日常か非日常かの検討ポイントとして,導線設計への影響がある.オフィス空間であれば,エレベーターや階段で移動して廊下を進んでイベント会場へ……という案内はスムーズなものになるが,3Dであるが故に行けるところ・行けないところなどは案内がないと分かりにくい.この傾向は非日常をベースにした空間ではさらに顕著になる.今回は桟橋のほかに,灯台内に見立てた展示場,海底トンネルの2つの別会場が設けられていたが,テスト時のアンケートでは,展示場から桟橋に戻る経路や,海底トンネルの入り口が分からない,というコメントが多かった.移動ゲートなどは,デザインにこり過ぎるとそれがゲートであると分かりにくい.別会場にワープできるという演出や,床に「XXへ」といったマーキングをする,各所に配置したサイネージ画像で順路を示す,などの施策が重要で,分かりやすくかつ不自然でない空間デザインとの融合が求められる.

2.2.4 アバターデザイン

アバターは複数ユーザがアクセスするバーチャル空間において,最も重要な要素である.デフォルメしたキャラクタにするか,現実の本人と分かるようなリアルアバターにするか,システム的な観点でロー(解像度の低い)ポリゴンにするか,高精細な描写にするかといった議論がある.ビジネス面で用いるには社内の服装規定なども反映した見た目にすることも考えられるが,期限限定のイベントであれば普段と変わった見た目になれる,いわゆるコスプレのような個性を主張するアバターもVR空間の楽しみになり,会社やイベントの文化を表すものになるだろう.描画負荷の高いリッチなアバター表現よりも,多くのユーザが同一空間に一度に参加できることを前面に出す場合はローポリゴンなアバターにならざるを得ない.今回の環境は後者で,プラットフォーム指定のローポリゴンのものになったが,新入社員のアバターの服装はスーツではなく船員のセーラー服をベースにしたものとなった.今後は,最近議論になっているジェンダーの考え方も反映して,多様な在り方が模索されると考えられる.

2.3 UI・UX 上の工夫(操作やカメラ視点,鏡のぜひ,アナウンス方法について)

2.3.1 アバターとカメラ視点の重要性,鏡

アバターの操作は,PCのキーボードの矢印キーまたはWASDキーで前後左右に移動でき,マウス操作で視線の変更,Spaceキーでジャンプをすることができた.割り当てられたキーで,拍手や「いいね」などのリアクションを行うこともできた.

バーチャル空間ではカメラ視点は1人称,つまりアバターの目の位置がよいか,少し背後から追随するように置いた方がよいかという議論がある.前者の方が没入感があり,後者はアバターやその周囲の状態把握が容易であるが,アバター自身が邪魔になって,動画などのコンテンツが見えづらい場合がある.一般的には操作性やとっつきやすさで優れるため,イベントなどでは後者の方が導入しやすい.ゲームなどでもFPSなどのジャンルを除きアバターとカメラ視野は距離があることが多い(ちなみにMetaQuestなどのヘッドマウントディスプレイからのアクセスの場合は,ほぼ1人称視点である).今回はプラットフォーム側で没入感の高い1人称視点が採用されていたが,これはアバターの服や見栄えを変更したときに,自分がほかのユーザからどのように見えているか分からない,という状態も生じた.

バーチャル空間ではこのような場合,スポーン位置の周辺に大きな「鏡」を設置していることが多い.1人称視点でも見た目を確認できるため没入感や自己投射性を維持しやすい.鏡はある地点に置いたカメラ視点を反転して面にレンダリングさせることで,比較的容易に開発することができる.しかし,カメラ描画が増えることでレンダリングの負荷コストが増加してしまうので,スポーン位置近くなどアバターの「人通り」が多いところに設置することはパフォーマンス劣化のリスクとなる.また今回は,アバターの見た目も髪型や服装といった組合せは少ないのと,アバター選択画面で確認自体はできるため重要ではないと考え,鏡については一時設置したものの,大人数のユーザテストの際は撤去した.

しかしこの考えは誤りだった.ユーザコメントには,「カメラの視点を変えて自分のアバターを見たい」「自撮りがしたい」というものが散見された.これは,開発サイドが考えていた以上に,アバターはユーザ自身の分身として機能し,見た目以上に「そこ(バーチャル空間)に存在する」ということの体験が重要だったことを示している.アバターの頭上には自分が登録したユーザ名が表示されるが,それは1人称視点のアバターからは見ることができない.記念すべき期間限定のイベントのバーチャル空間では,「そこに自分がいる」という確認作業が求められたのである.テスターのコメントを受けて,本番では,式次第が終了して開放された,別会場である海底トンネルに設置され,自撮りすることができた(図5).

海底トンネル,鏡の前で社長アバターとツーショット
図5 海底トンネル,鏡の前で社長アバターとツーショット

ほかの方法としては,カメラ視点をアバターの顔を覗き込むような位置に一時的に変更するギミックなども有効だろう.これはほかのプラットフォーム(Clusterなど)でも実装されている.

2.3.2 SE(サウンドエフェクト)と音声アナウンス

SEも没入感に貢献する重要な体験要素である.ユーザのアバター移動の際に伴う足音が実装され,臨場感の高い体験になった.桟橋のシーンでは板の上を歩く乾いた音,展示場では絨毯の上のような柔らかい足音と使い分けられた.

ボイスチャット機能は,バーチャル空間ではユーザ同士のコミュニケーション手段として欠かせないものである.しかし,大人数参加のイベントだと一斉に使われると混乱する上,ネットワーク負荷にもなり得る.会話ゾーンの制限や,アバターとの距離に応じて音量を減衰させることでの対応もできるが,セミナーのようなイベントでは,一般参加者はデフォルトではミュート設定とし,登壇者や司会のアナウンスだけを発話可能にした方がよい.このチャット機能はある一定範囲のみでなく,会場全体へのアナウンス機能の実装もあるとよい.

今回の入社式では,実際に会場全体への音声アナウンス機能が役に立った.特に,運営側でアジェンダを組んでおり,参加者の統制を取る必要がある場合は有効であった.3D空間であるが故に,参加者は自由に会場を動き回れてしまう.時間内にメイン会場に来てほしいときなど,会場全体にボイスチャットを通じて案内ができると段取りはスムーズだった.テキストチャットで周知することもできるが,テキストは参加者が自由に入力できる場合,運営からの案内も流れてしまいがちである.その場合は全会場に響く音声の方が伝わりやすい.

2.4 テストの手法(ユーザテスト時の留意点)

バーチャル空間のテストでは,機能や見栄えが要件の通りに実装されているかをレビューする単体・結合テストのほかに,ユーザ観点で参加して評価してもらうシステムテストが必ず必要である.その際,書き起こしたテストシナリオに沿って進めていくだけでなく,テスト観点のみを書き起こし,その観点に基づき詳細の操作はテスターにお願いするフリーデバッグ方式が役に立つと考えられた.3D空間でユーザはさまざまな操作ができてしまうため,テストシナリオとして起こり得る全ての操作を書き起こすのは非現実的である.テスターを増やし,フリーデバッグで不具合をあぶり出す方法が有効である.

実際にはIBM社内でテストユーザを募り,700人超に同時にアクセスしていただいた.一部のユーザには複数あるシナリオのとおりに動いてもらい,アナウンスやライブストリーミング配信の品質を確認してもらったが,そのほかは自由に操作いただいた.メイン会場となった桟橋や展示場には,背景である海に落ちないように,見た目の柵よりも大きめのコライダー(衝突判定のあるコンポーネント)を非表示で配置していたが,ジャンプしてそれを乗り越えられる個所を発見したり,配置がずれているところでは壁にめりこんだり,そこから抜けなくなってしまう不具合なども炙り出してのコメントをいただいた.海に落ちる個所はなるべく塞いだが,万が一落ちたときのために,海面に接触した場合は会場の移動の機能を用いてスポーンポイントに戻る機能が実装された.

テストユーザ参加のシステムテストは2回に渡って行われ,改善ポイントや,導線や案内が分かりにくい部分を抽出することで,参加者全員参加のアクティビティにかかる時間を確認することができ,本番の品質を高めることができた.

2.5 シナリオ・演出上の工夫,心理的効果(アバターとしての距離感,誘導,全体アクティビティ)

人とのコミュニケーションは,対面やWeb会議に比べて,バーチャル空間でアバターを介して行われた場合には「他人との心理的距離が適切に保てる」,「対人ストレスが緩和される」などの先行研究がある[1],[2].

特に,役職などの垣根を越えて,あまり意識せずに接することが可能とされている.実際バーチャル入社式では,IBM山口社長専用のアバターを用意し,御本人に操作いただきメイン会場のスクリーン前に登壇まで移動いただいたが,終始新入社員のアバターたちに囲まれてにぎわっている状況が見られた.入社式終了後は,鏡が設置された海底トンネルのステージが開放されたが,そこに待機いただいた社長アバターと並んで写真を撮るといった企画が人気であった(図5).

一方で,登壇者アバター(山口社長や役員の方々)をライブストリーミング配信のスクリーンの前のステージに立たせることで,現実の発表会場と似たような雰囲気を演出できるはずと考えていたが,こちらはあまり注目されず,開催後のコメントもほとんど言及がなかった.原因としては,一点ものの社長アバターと比べてアバターの服装が複数あって地味だったこと,スクリーンに対して小さすぎて,ステージに登壇してもフラットな会場ではアバターの最前列からしか確認できなかったことが考えられる.そもそも,参加者はライブストリーミングのスクリーンに集中し,登壇者アバターにはほとんど注目していなかったとも考えられる.

この演出を活かすには,スクリーンに表示しているスライドに,登壇者の顔だけでなくそのアバターも表示したり,アバターがステージ上に移動してくるシーンをカメラマン目線で追って,スクリーン上で中継するなどの演出が考えられる.登壇者のセリフに「今,私はスクリーン前の舞台の上から会場を見ているのですが,素晴らしいですね」といった,アバターとして参加していることを示す言葉を入れるのも効果的になると思われる.

バーチャル空間にはメイン会場として用いた桟橋のほかに,灯台内に見立てた展示会場と海底トンネルが用意されていた.複数の空間があると飽きが来ずに探索の楽しみもあり,満足度が高い空間になるが,イベント中は全員スクリーンのあるメイン会場にいてほしい.このためイベント中は桟橋以外は立ち入れないように移動ゲートの機能に制限をかけ,イベント終了後に自由に行き来できるように開放した.

しかし制限すると今度は開放時に用意された空間をあまり見てもらえないという弊害もあった.そのため,オプション企画として,「各ステージにある隠れサイネージを見つけ,そこに書かれている文字列を連続させると1つのURLとなり,イベントのビジュアルにちなんだ壁紙がダウンロード入手できる」というオリエンテーリングを考案して実施した(図6).テストのアンケートや当日のテキストチャットでも,「壁紙ゲットしました」「XXの場所がまだ分からないのだけど」といったコメントが見られ,一部のユーザにはバーチャル空間を隅々まで探索することを楽しんでいただけたし,その過程で社内コミュニティ活動や先進技術を紹介する展示場のコンテンツにもアクセスいただけた.

展示場の片隅に配置された隠れサイネージ
図6 展示場の片隅に配置された隠れサイネージ

すでに紹介したように,入社式では「クイズによる性格判断」「人文字の形成」といった全員参加のアクティビティが行われ,イベント参加者の一体感を高めた.このシーンから司会は新入社員代表にバトンタッチされ,司会はスクリーンに「あなたはA XX派?B YY派?」といったクイズを出題して,床面に現れた「A」「B」の大きなゾーンの方にアバターで移動するように促された.移動がだいたい終わった段階で,お立ち台から見ている視野の中継にスクリーンを切り替え,上から見て参加者がどんな志向を示すかを3Dならではの視覚化を行い,大いに盛り上げた(図7).続く人文字でも,文字列のうち「IBM」が床に表示されたところにそれぞれ移動してもらい,欠けている部分にアナウンスやレーザで誘導が行われた.人文字も完成形を上から見た図がスクリーンに映し出され,虹の出現や桜吹雪が舞う演出もあって,充実したクライマックスの演出になった(図8).リアルタイムのテキストチャットも「すごい発想だ」「移動できました」といったコメントに溢れ,アンケート結果でも「印象に残る入社式になった」との好評価をいただいた.

全体アクティビティ:性格判断クイズ「IBMeter」…出題と移動結果を映し出すスクリーン
図7 全体アクティビティ:性格判断クイズ「IBMeter」…出題と移動結果を映し出すスクリーン
全体アクティビティ:人文字の形成…上から見たビューをスクリーンに映す
図8 全体アクティビティ:人文字の形成…上から見たビューをスクリーンに映す

3.運用と評価

3.1 セキュリティの考慮点

ビジネス利用のバーチャル空間では,個人情報をどう取り扱うかも検討ポイントになる.一部のリアルアバターを用いるプラットフォームでは顔写真を取り込んでアバターの生成に用いるものもあるが,今回の入社式では顔写真は用いておらず,数種のアバターから選択し,ユーザ表示名を入力するのみだった(テキストチャットのコメントを司会が読み上げやすいようにカタカナで氏名を入力するように連絡).プラットフォームの仕様としてもサーバ側に個人情報を保管しないようになっていた.

当日は事前に参加者全員にメールでURLを送付し,基本認証を通してログインいただいた.その他メールアドレス等の個人の情報や,式側で用意したコンテンツも機密情報が含まれるようなものはなかった.運営アバターの視点の1つを外部にライブ配信で実況し,ログインしないご父母や大学教員の方にも内容をリアルタイムに見ていただくことができた.

3.2 IBMバーチャル入社式の運用

3.2.1 開発体制とシステム構成

IBM社内の広報や人事部が要件やレビューを担当したほか,デザイナーや当日のライブ配信担当,プロジェクトマネージャがいる体制のほかは,開発は実質4名で行い,3D空間の開発ツールにUnityを用いた.開発期間は検討時期も含めると5カ月だった.

イベントの性質上,部屋を小分けにするよりも全員参加の空間にした方が一体感が出て満足度高いと考えられ,大人数で1つの空間にアクセス可能な外部プラットフォームを用い,Webブラウザからアクセスできる環境を構築した.また,開発体制に,入社式にユーザとして参加する側である新入社員代表にも数名参加いただき,一緒にイベントのコンテンツを検討した.システム構成は,バーチャル空間のプラットフォームやライブ配信はパブリック・クラウドで稼働してるほか,詳細は守秘義務により非公開である.ユーザはWebブラウザでアクセスした.

3.2.2 提供するサービスと運用体制

新入社員ユーザは,Webでアクセスすると基本認証を経てブラウザでVR空間に入ることができる.キーボード操作でアバターを操作,ライブ配信や動画などのコンテンツを参照.テキストチャットでユーザ間のやりとりができる.スマートフォンからのアクセスはサポートしなかった.また,バーチャル入社式の終了後に,有志の参加によるWeb会議での懇親会も実施された.

当日は筆者らを含めた開発メンバや司会進行担当,ライブ配信担当,運営者アバターや登壇者のサポートを行うチームは同じ会議室に集まり,想定外の事態にも備え,ライブ配信のカメラワークの切替えなどで息の合った運用を行った.こちらもチーム内で数回のリハーサルを経て問題点や時間のかかりすぎる個所,式次第の見直しなどを行った.

3.3 新入社員による評価

本番実施後のアンケート結果は,満足度スコアは94.0だった.参加者数は,新入社員約600名,実況でのライブ配信を視聴された新入社員のご家族,ご友人,恩師やIBMグループ社員は980名.2回のシステムテストに参加したIBMグループ社員は1,500名だった.

コメントではよい点として,「バーチャル空間とのことで孤独感を感じてしまうかと思っていたが,実際に空間に入ると多くの人が参加していることを実感でき,リアクションもとれたのでバーチャルでも楽しむことができた」「回線が悪くなったときのための配信もあったので安心だった」「新入社員によるクイズ等はバーチャル空間を活かしたものとなっており,楽しむことができた」「『今時の入社式という感じですごい!』と家族も興奮していた」という内容があり,悪かった点としては,「ネットワークのせいかもしれないが映像の音声が途切れ途切れだった」「オフラインで対面したかった」というものもあった.

4.制作や運用から得た知見

今回は1日だけのイベント向けとして開発・運用されたバーチャル空間だったが,十分目的を果たすことができた.このバーチャル空間は,アクティビティ内容やビジュアルの若干の変更を施されて半年後の社内のイベント「FamliyDay」(社員の家族が参加できるイベント,やはりコロナ禍でオンラインで実施された)でも使われて800人がアクセスし,ここでも好評を得た.

イベントであれば,開始時間から終了時間までの段取りや同時最大接続数を意識して今回のような施策を打つが,常設して24時間アクセスできるような空間,たとえば社員が談笑できるカフェのような空間や,貸し会議室のようにいつでもアクセス・退席するようなユースケースによって,必要な機能や準備するものは変わってくる.たとえばスライドを表示する場合は,セミナールームでは権限を付与された登壇者のみが可能だが,会議室では参加者全員がその権限を持つべきである,といった具合である.そこにはユーザや空間ごとのロール定義のような機能の実装も必要になってくるだろう.今回のバーチャル入社式の開発,運用の知見が今後バーチャル空間やイベントを制作される際に役に立てば幸いである.

本稿は筆者らの個人的な見解であり,所属する団体,組織の意見を代表するものではない.

参考文献
岡本茂久
岡本茂久(非会員)cadenza@jp.ibm.com

1997年日本IBMに入社,2005年より現所属会社に出向.シニアITスペシャリスト.コラボーレーションミドルウェアやコマース製品,モバイルアプリ開発などフロントエンドのソリューションを中心にしつつ,Watson AIやグラフDBなどの領域にも携わる.早くからXR技術のビジネス適用に着手し,現在Innovation Lab.に所属,複数のメタバース開発のプロジェクトにリーダーとして参画.バーチャルリアリティ認定技術者.

植井健太朗
植井健太朗(非会員)e35783@jp.ibm.com

2015年日本IBMにテクニカルセールスとして入社.2016年より現所属会社に出向.出向後は,主にWebアプリ/モバイルアプリの設計/開発に従事.Design ThinkingやIBM Garage Methodを用いた新規サービス開発プロジェクトにも参画し,2021年からはメタバース案件にも参画.現在はSustainability Solutionという部門のマネージャとして活動.

呉 采玲
呉 采玲(非会員)wcl1207@jp.ibm.com

2015年日本IBMにテクニカルセールスとして入社.2016年より現所属会社に出向.出向後は,主にWeb/AIアプリの設計および開発に従事.2021年からUnity/Blenderなどを活用,メタバース案件の開発に参画.現在はInnovation Lab.に所属.

投稿受付:2023年2月28日
採録決定:2023年3月30日
編集担当:斎藤彰宏(日本アイ・ビー・エム(株))

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