筆者(清水)が医師になり約10年を過ぎた1990年代,外科の歴史上最も大きな変革の1つと言える出来事が起こった.それは内視鏡手術の登場である.それまでは大きな切開の下で良好な視野を保ちつつ,安全かつ効率的な手術を行うことが重要であるとされていた.しかしながら内視鏡手術とは1cm程度の小さな傷を数カ所作り,そこから挿入した内視鏡で得られるモニタ上の映像を頼りに,別の穴から差し込んだ細長い鉗子を数本使用して行うまったく新しい手術法である.当然,それまで大御所と言われた多くの外科医は新たに登場したこの狭い視野での手術を危険な手術として猛反発したが,先見の明を持つ比較的若い外科医たちの努力により,術後の痛みが少なく回復が早いこの手術法はその後世界中に広がることとなる.
従来の手術法で訓練されてきたすべての外科医たちはこのまったく新しい術式を一から学ばざるを得ない状況となり,当時先進的に内視鏡手術を開始していた病院には多くの見学者が訪れた.もちろん学会やビデオ,また雑誌などを参照することはできても,断片的な知識の収集だけでは実際の手術を自らの手で行うことは難しい.手術に携わる各メンバの動きや手術途中のさまざまな問題への対処を最初から最後まで実際に見ることが最良の方法であることは一般の人にも想像に難くないであろう.我々のチームも胃癌に対する内視鏡手術にいち早く着手し,当時は国内のみならず海外,特に韓国から多くの見学者を受け入れていた.
映像が主要な教育ツールとなる外科の分野では以前よりビデオカンファレンスやライブデモンストレーションといった遠隔医療へのニーズは高く,期待も大きかった.当時はちょうどインターネット技術がアメリカ以外の国々へも広がりつつあった時代にあたり,さまざまな形で遠隔医療への応用が試みられていた.しかしながら当時のインターネットはまだまだ未熟で容量もごく限られ,配信された手術の映像は解像度が不十分であるばかりでなく止まったり動いたりを繰り返すような状況であった.したがって,細かな解剖を連続的に理解する必要のある実臨床にはとても応用できるというような状態ではなかった.一方衛星放送を利用すれば比較的良い映像を得ることはできていたが,その使用料は高額で日常的に利用できる状況とはほど遠いものであり,しばらくの間,遠隔医療が外科の中で定着することはなかった.
その状況を大きく変えたのは,いくつかの偶然が重なったためとも言えるかもしれない.その1つは2002年にFIFAワールドカップが歴史上初めて日韓共同開催という形で開催されたことである.日本でも前年の2001年から小泉内閣の下,e-Japan戦略と呼ばれる日本のインターネット化事業が始まっていたが,そのワールドカップを契機に両国間に従来の250倍(2ギガ)という超高速回線が敷設されることになった.しかも東京・ソウル間ではなく福岡・釜山間に海底光ケーブルが引かれたことにより,「玄海プロジェクト」と呼ばれる日韓両国のインターネットを利用したさまざまな分野での交流を九州大学がリードする産学官の体制が構築され,その中で医療分野での応用が開始された(図1).もう1つの偶然は,日本の九州大学に相当する韓国側の拠点大学である漢陽大学に,筆者(清水)がアメリカで留学中に同じ研究室でともに仕事をしていた親しい医師が勤務していたことである.彼と我々が共同で遠隔医療のプログラムを開始することとなり,双方の調整をスムーズに進めることができた.
技術面でも大きな進展が見られた.それまではISDN3回線というのが一般的な通信技術であり容量も約0.4Mbpsと限られていたため,いかに良い圧縮技術を開発し,伝送される映像の質を担保するかが研究の主な対象であった.1999年に発表されたデジタルビデオ伝送システム(DVTS)という新しい技術は映像を圧縮することなくビデオ信号をインターネット信号に変換できる画期的な技術であったが,一方で30Mbpsという大容量を必要とするためその応用範囲が限られるという欠点を有していた.我々は日韓に敷設された超高速回線を利用することによりその問題点を克服し,医工連携の下,解像度を保ったまま手術映像を伝送できる技術の開発に世界に先駆けて成功した(表1).
DVTSは高性能でありながら誰でも自由にダウンロードできる無料のソフトウェアである.使用する機器は市販のビデオカメラとパーソナルコンピュータ(PC)で十分であり,内視鏡手術装置の映像出力をPCに接続すれば,そのまま伝送できた(図2).そのため衛星放送や高価な専用機器を購入する必要がなく,高画質の手術映像を安価に送受信することが初めて可能となった.当時広く普及していたH.323プロトコルには高価な機器の購入が必要であった上,外科医の眼から見た細かな解剖に対する解像度や映像のスムーズな動きはとてもDVTSに敵うものではなかった.この安価かつ高画質という本システムの大きな特徴は,その後開発途上国の多いアジアを始め世界中へ遠隔医療を展開できた重要な要因となった.
遠隔医療が実用的なレベルとなり外科分野での応用が可能と判断して最初に企画したのは,2003年8月に実施されたライブ手術であった[1].九州大学病院と韓国ソウル近郊の国立がんセンターを接続し,九大病院手術室で行われている胃癌に対する内視鏡手術の様子を配信した.韓国側の外科医のオフィスでは九大病院の術者が見るモニタと同じ画質の手術映像を終始観察できるのみならず,別のモニタには手術室の様子が映し出され,術者の細かな手の動きや内視鏡手術特有の鉗子類や専用器械,さらには切除された胃の病変部もまるで手術室の中にいるかのごとく観察することが可能であった.またコンピュータの画面を通して相互に説明や質問をしながら,会話の遅延も感じない快適な環境の中で手術を終了した(図3).この様子は多くのテレビや新聞でも報道され,遠隔医療の幕開けとも言える大きな転換点となった.
この成功を受け,外科の分野では大腸癌や脳外科のライブ手術が次々に開催された.外科医にとってはまさに夢のような技術革新であり,内視鏡手術という外科領域の革新的な変化に伴う教育ニーズの急増と相俟って,多くのプログラムが相次いで企画されることとなる.2006年に福岡で開催された日本泌尿器科学会では大ホールに集まった1,000人近い参加者を前に韓国からのライブ手術が実施され,学会史上初めてとなる本企画への参加者にも大好評であった[2].またその時期外科分野と同様に胃カメラなどを扱う消化器内視鏡の分野でも,超音波を使った内視鏡や,手術をせずに早期癌を切除するといった新たな診断・治療技術が数多く登場し,その後は外科と消化器内視鏡という2つの分野が中心となり遠隔医療を牽引して行くこととなった.
このような実臨床における医師を中心とした教育とともに,医学生への教育もまた重要である.我々は2007年,ソウル大学病院の手術室から九大医学部講義室に集まった2年生の学生約80名を対象にライブ講義を実施した(図4).この講義は,内視鏡手術という新しい手術をライブで学生に見てもらうこと,また遠隔医療が実際に使えるレベルに達していることを実感してもらうこと,さらに韓国の医師と直接英語でやりとりをして国際感覚を養ってもらうこと,の3点を目的とした.学生の評判も予想以上に良好で,その後も毎年行われるようになった[3].
我々のシステムを用いた遠隔医療は順調な滑り出しを見せたが,欠点の1つは1対1の接続しかできないことであった.この画期的なシステムを利用したプログラムには参加希望が殺到し,多施設を同時に接続できるシステムの開発が待たれていた.そのような中,DVTSを4地点で接続できるQuatreと命名されたソフトウェアが登場し,2005年に開催された膵移植研究会で初めて使用した[4].九州大学病院の主会場をソウルのほか,北京と台北にも接続し,東アジアの4都市が参加した形で相互に発表や質疑応答を行った(図5).
技術は日進月歩であり,4地点までのDVTS接続はほどなく8カ所接続が可能となった.またそのころハイビジョン映像という技術が生まれH.323の機器もハイビジョン仕様へと改良されたが,多地点接続での動画の伝送においてはDVTSでの評価が勝るという研究成果も発表された[5].さらに2007年に福岡の国際会議場で開催されたアジア太平洋肝胆膵学会においては2.5GbpsというDVTSのさらに約100倍近い容量を用いてソウル大学病院からの手術映像を配信し,超大型のスクリーンに映し出すというまったく異次元の画質を参加者に届けた[6].
多地点接続が可能となったDVTSシステムの利用は瞬く間に国の内外へ拡がった.その主なものを紹介する.肥満患者を手術で治療するという方法は当時日本では実施されておらず,2005年にオーストラリアから配信されたライブ手術への出席者は初めて見る手術映像に食い入り,術後の食事療法についてもシンガポール大学とともに熱心な討議を行った.2006年にはソウルで開催されたアジア内視鏡外科学会の特別企画として2日間に渡り香港や台中を含めた4地点間でのライブ手術が実施され,連日の鮮やかな映像に出席者は魅了された.また日本における胃癌の内視鏡手術の専門家が一同に会する場であった関東地方の研究会では,2009年に初めて北大と九大を東京医科歯科大学に接続して録画ビデオを共有しながら手術の詳細が示されたが,画面を通して遠隔地からも喧々諤々に議論される様子はとても新鮮であり,300名収容の主会場が入りきれないほどのインパクトを与えた.さらに2009年に福岡で開催された外科最大の学会である日本外科学会では3日間に渡り午前午後と5つのセッションを組み,中国,タイ,フィリピンなどからの発表とともに議論を盛り上げ,学会初となる試みを成功させた.そのほかにも日常的なカンファレンスやさまざまな学会・研究会での実績が報告されており,活動はアジア各地へと急速に広がっていった(図6,図7)[7],[8].
安価に高画質な映像を伝送し,医師が満足できるレベルで多施設相互に議論できるシステムの活用はほかに例を見ないものであり,2003年に初めて実施された日韓のライブ手術以降,活動はアジアにとどまることなく世界中へと拡大した.まず2007年,東南アジアではちょうど鳥インフルエンザが広く流行しており,その実態を把握すべく,この新たな技術を用い,アメリカからの参加者とともにアジア各地の専門家が最新の情報を共有した.同年にはまたアジア各国に加え,ヨーロッパでは初めてとなるドイツへ接続して内視鏡のライブデモンストレーションを行い,さらに新たな段階を切り開いた.2010年にFIFAが南アフリカで開催されると,アフリカへ多くの大容量インターネット回線が新設された.我々は翌年,九州大学病院の手術を14,000km離れたケープタウン大学へライブ配信しベトナムを含めた3カ所で相互に議論することに成功してまた新たな金字塔を打ち立てた[9].一方ラテンアメリカとは2009年前後からDVTSによる接続を試みていたにもかかわらずなかなか満足できる状況とはならなかったが,2013年にハワイで開催されたインターネット関連会議の席で,メキシコ,チリ,ブラジルを接続した医療セッションを初めて成功させた.時期はちょうどブラジルでFIFAが開催される前年にあたり,インターネット回線の急ピッチでの整備が背景にあったと推測される[10].またその翌年の2014年にはメキシコの学会へ向けて大阪と京都から内視鏡のライブデモが企画され,太平洋を越えたプログラムを初めて成功させた(図8).
このような遠隔医療プログラムの広がりはまさに,DVTSを安定的に伝送するために十分な大容量インターネットを利用できる学術回線の広がりと一致する.日本の文科省が管理する研究教育用ネットワークであるSINETなど各国内でのネットワークの整備は元より,アジアのAPAN,ヨーロッパのGEANT,中南米のRed-Claraといった国際間ネットワークの進展度に寄るところも大きい[11].その展開はアジアにおいてもモンゴルやカンボジアといった開発途上国内では現在も進行中であり,特にアフリカではいまだに整備の不十分な国も多く,関係各国での今後のさらなる進展に期待したい.
技術と医療の融合によるこれまでの遠隔医療プロジェクトには目を見張るものがあったが,一方では問題点や活動の限界にも遭遇した.まず避けがたい現実として,大容量を提供できる研究教育用インターネットに接続できる施設が各国の代表的な大学や医療施設に限られていたことである.一般的には国公立の施設で工学系の学部を有する総合大学が多く,それらの施設に限定された活動となっていた.年を経るごとに参加国や接続施設も急激に増加はしていた一方で,十分な回線のない一般の病院や私立大学,また地方都市の医療施設等からの参加希望も相次いでいたが現状は厳しく,たとえば学会会場に回線を伸ばすにはかなりの金額を支払ってメンバ大学や接続ポイントからのラストワンマイルを構築するといった対応が必要であった.
またDVTSはソフトウェアをインストールしたPCに学術回線を接続すればよいという非常に単純なシステムでありながら,それに必要な安定した30Mbpsの回線を淀みなく保持するということは特に活動初期の段階では技術的にも簡単ではなかったようで,接続の途中で映像の途切れや音の不安定な状態に陥ることも多く経験した.ライブデモンストレーションに際しては暗号化されたネットワークの構築が必須であったが,このことも技術的にはかなり高度な知識と経験を要した.また大きな学会においては数多くの映像や音声機器を操作する必要もあり,準備が深夜に及ぶことも多く,技術スタッフの皆さんには大変なご協力をいただいたことに心より感謝したい.
当初から予想されたことではあるが,活動開始から10年目を迎えたころ,遠隔医療の流れを大きく変える新たな技術が登場した.Vidyoと呼ばれるそのシステムを学会の展示会場で見たときに,伝送された映像の質の高さに驚いた.そのころには映像の圧縮技術も格段に良くなり,数Mbpsの容量でも解像度を保持できるシステムが登場してきており,Vidyoはまさにその代表格であった.一方ではまた10年前には未熟であった商用回線も見違えるほどに容量が増え,数Mbpsであれば安定した状態を保つことが可能となってきていた.
システムの変更に際してまず考慮すべきは費用の問題であり,Vidyoの設置にはかなり高額な初期費用に加え相当な保守費用が必要であった.しかしその反面,拠点となる病院でアカウントやサーバを含めすべて準備できれば,サテライトとなる他地点のメンバにはこれまで同様特段の費用負担を掛けずに済むという状況を作り出すことが可能であった.一方でこれまでは研究教育用インターネットが接続された大都市の主要施設しか参加できなかった活動を,地方大学や小さな個人病院レベルにまで広げられる好機と捉えることもできた.またそれまで最大でも8カ所程度に限られていた参加者数を一挙に20~50地点程度にまで増やすことができることも大きな魅力であった.ただシステムの大転換に際して最も悩んだことの1つは,それまで大容量のインターネットを提供していただき医工連携の傘の下で一緒に活動をしてきた工学系研究者の皆さんとの連携が少なくなっていくのではという思いであった.
九州大学病院では予算を確保して全面的にVidyoを導入した.その結果,活動は予想どおり,国内外を問わず新たな接続先の急激な増加を示した(図9)[12].新規参入者の多くは商用回線を利用して遠隔医療に参加しており,活動の流れは我々の予想どおり新たな段階へと突入した.それまでDVTSを使っていたプログラムが次第にVidyoへと移行し,新たな分野で数多くのプログラムが誕生した(図10).その代表的なものを表2と図11に示す[13],[14].
遠隔医療は医師を始めとした医療関係者のみでは成立せず,そこには必ず病院や学内で働く技術者のサポートが不可欠である.しかしながら遠隔医療活動を続ける中で,参加施設において,また新たに参加を希望する施設において,両者の関係が必ずしもうまくいっていないことに気付くことが多かった.まず医師は遠隔医療を始めたいと思ってもどのようなシステムを使いどのように操作すればよいのかなどについての知識がないのみならず,忙しい臨床現場の中でそれを誰に頼めばよいのかについても分からないことが多い.同じ院内であってもインターネットを扱う部署の人たちとの接触機会もなく,両者は出会うことさえないという状況がむしろ普通であることを認識させられた.一方,技術者も日常業務に追われたとえ医師からの依頼があってもそれは本来の仕事でないという主張に加え,学術ネットワークの知識や新しい遠隔医療システムについて学ぶ機会などはほとんど提供されておらず,図10に示されるような技術の急速な変化への対応は各医療施設においても決して十分ではなかった.
このような状況を打開するまず第1段階として,2007年,第1回目のアジア遠隔医療シンポジウムを企画した.そこにはアジア各国の拠点大学や主要な医療施設から遠隔医療に興味がある医師と技術者を福岡に招聘し,医師のニーズと技術者の要望や課題を共有する領域横断的な情報共有の場を創出した.また2015年からはエンジニアへのハンズオントレーニングを開始し,多いときには年に10回を超えてアジア各地で研修会を企画するとともに,九州大学病院へ招聘する形で指導者を育成するための上級者用プログラムも開催した(図12).2016年にはアジア各国内における医師と技術者の関係強化を目的に,まずフィリピンとインドネシアにおいて国内各地の拠点病院から医師とエンジニアをペアとしてそれぞれマニラとジャカルタに招聘し,異なった立場からのさまざまな情報交換を行った(図13).集まった全国の大学病院同士を接続するプログラムが新たに開始されたのもこの会を契機としたものが多く,遠隔医療の発展にとって医師と技術者の協力体制がいかに重要であるかを再認識させられた[15].この国別フォーラムはその後,ベトナム,ミャンマー,ネパール,キルギスタン,ブータン,また遠くはメキシコやチリまで広がりそれぞれの国の遠隔医療活動を盛り上げていく基盤となった.日本国内でも遠隔医療活動推進のために国立大学付属病院長会議の国際化部門の中にチームを組織し,各病院から医師と技術者の双方を選出して活動の推進に寄与している.
2020年初頭,突如世界中が新型コロナウイルス感染症の洗礼を浴びることになる.各国で感染者が急増して多くの死者を出し,WHOは1月末パンデミックを宣言した.日本でも4月に緊急事態宣言が発令され,国内外で人の移動は極端に制限された.そのような状況の中,オンラインコミュニケーションがあらゆる場面で否応なしに使用されることとなり,人々はこぞってその対応に迫られた.幸運だったことは,ちょうどそのタイミングでZoomやTeams,またWebEXといった簡単で使いやすいコミュニケーションツールが実用化されていたことである(表3).これらのツールは,パンデミック以前には医療動画の共有において画質が劣る部分があったり,セキュリティの面では暗号化が未対応であるといった遠隔医療教育には不十分な要素もあったが,この危機に合わせたかのようなタイミングで技術革新が進み,利用が急速に広がった.
人々は馴染みのないシステムながら急遽ソフトウェアをインストールし,また安価に購入できるようになったカメラやスピーカーを準備して使用し始めた.特に日本では4月からの新学期を控え,講義のほとんどをごく短期間にオンライン授業へ移行しなければならなかった.また学会や研究会もキャンセルが相次ぐ中で,果敢にオンライン開催へ切り替えるものも出始めた.
さまざまな混乱の時期ではあったが,このコロナの到来により遠隔医療も2.0時代とも言える大きな転換期を迎えた.まず簡単で使い勝手の良いシステムが普及し,技術的な閾値が大きく低下したことにより,遠隔医療を含むオンラインコミュニケーションが瞬く間に社会の隅々にまで広がった.半ば強制的な状況で利用し始めたオンライン会議ではあったが,ユーザは逆にその長所を実感することになる[16].移動による時間や費用の節約は言うに及ばず,画面の見え方や情報共有の利便性,またカジュアルな雰囲気での参加など予想以上のメリットが数多く感じられた.またライブデモンストレーションにおいては必要な機器の準備や技術者の現地支援も簡素化され,遠隔地からのサポートや機器の設定も可能となっている.一方ではまた直接的なコミュニケーションがいかに貴重で大切なものであるかを再認識させられた時期でもあったと言える.学会も大きく形態を変え始めており,コロナ終息後もオンラインの形態を残したハイブリッドの形が主流になることは間違いないと考えられる.
これまでちょうど20年に渡り遠隔医療教育に関与し,82カ国,1,304施設を対象に1,500回を超えるプログラムを開催した(図14),[17].活動開始当初は「こんなことができればよいなぁ」と思っていたことが,20年後の今,コロナという大きな影響もある中でまさに現実の世界となったという感慨深い思いがある.本当に便利な世の中になったが,これまでのさまざまな変化を目撃する過程で遠隔医療の発展に不可欠な要素として,次の3つを挙げたい.まず1つは十分なインターネット環境である.今や日本では問題にならないとしても,世界中にはいまだ不十分な地域も少なくない.まずはインフラの完備が必須である.次に重要な要素は,医師を始めとした医療関係者のニーズや情熱であろう.どのような新しい知識や実用的なスキルを共有できれば医療の均てん化に寄与できるかを考え,それをリードできる人やチームの存在が必要である.3番目はそれをサポートできる技術者の協力であり,情報通信技術のみならず映像や音声にも長けたスタッフ間の分野を越えた体制作りが欠かせない.今やモバイル端末からの参加や資料共有は誰でもできるレベルにまで普及した一方で,ハイブリッド会議における大会場の接続や,ウェビナーの主催,またストリーミング配信などへの応用は,スタッフの技術運用能力や予算規模に委ねられているのが実情である.また多くの施設が一堂に会するプログラムが増加する中,それらを準備・調整できるコーディネーターの役割もまた重要になっている.
遠隔医療の利点としてさらにここで強調しておきたいことは,国際化の推進である.教育のみならず診療の分野を含めたニーズが国内において急増する一方で,移動距離を気にする必要のない遠隔医療は国際貢献への大きな可能性を秘めている.人の移動が困難なパンデミックの状況の中,オンラインでの国際会議もすでに数多く開催され,地理的な国の隔たりを意識することなく簡単に海外からの招待講演や専門家との議論ができることも実感できた.英語でのコミュニケーションの問題や海外との人的ネットワークの希薄さなどを克服しながら,今後の日本における国際展開に大いに期待するものである.
遠隔医療が普及する以前は数々の医療チームが海外に出かけて実地教育や訓練を通して国際貢献に寄与したが,プロジェクトの終了とともに活動が中断となった事業も数多く存在していたこともまた事実である.しかし今やオンラインコミュニケーションが自由に利用できる時代となり,直接的な指導に加え,遠隔医療を織り交ぜることで,継続的な援助や交流を確立することが容易にできる社会となっている.直接的な触れ合いは人間同士の交流には不可欠ではあるが,その欠点を補える遠隔医療との相補的かつ相乗的な関係を十分に理解し,今後も国内外での活発な交流が展開されることを心から願って止まない.
1980年,九州大学医学部卒.医学博士.消化器外科と内視鏡外科を専門とする外科医.2002年より遠隔医療にも関与し,2012年九州大学病院アジア遠隔医療開発センター長.2016年,国際医療部教授.2020年より九州大学副理事(国際担当)およびアジア・オセアニア研究教育機構研究統括.2021年,九州大学名誉教授.
1987年,九州大学医学部卒.医学博士.糖尿病専門医.2002年より遠隔医療を清水周次氏と開始,2014年から九州大学病院メディカル・インフォメーションセンター教授/センター長.2021年から同国際医療部長兼任.慢性疾患のDisease Managementやデータ駆動型臨床研究,デジタルヘルス研究等を進めている.現アジア太平洋医療情報学会理事長.九州大学病院副病院長.
1988年,九州大学工学部卒.工学博士.ネットワーク運用とセキュリティ対策を専門とする情報系センタ業務が主な職務であるが,2001年から九州に関連する国際教育研究ネットワークプロジェクトに参加し,アジアを中心とした国際教育研究に関与している.2014年より九州大学サイバーセキュリティセンター長,2020年より九州大学副学長(情報セキュリティ,デジタル教育担当).2022年より九州大学情報基盤研究開発センター長.
2005年,九州芸術工科大学(現:九州大学芸術工学部)卒.芸術工学博士.2017年,九州大学病院国際医療部アジア遠隔医療開発センター副センター長.助教,技術責任者.アジア太平洋先端ネットワーク医療ワーキンググループ理事.
1996年,九州大学医学部卒.医学博士.早期消化管癌の診断・治療,炎症性腸疾患の診断・治療を専門とする.2003年頃から,九州大学病院で研修する外国人内視鏡医を指導する中で遠隔医療に関与するようになり,2017年から同院アジア遠隔医療開発センターの副センター長,2021年からはセンター長を務める.九州大学アジア・オセアニア研究教育機構の医療・健康クラスター長も務めている.
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