日本蘇生協議会(JRC: Japan Resuscitation Council)が公開している「JRC蘇生ガイドライン2020」によると,正規産児の約15%が出生後,呼吸循環器系の安定のために何らかの手助けを必要としている[1].そこで,日本周産期・新生児医学会では「すべての分娩に新生児蘇生法を習得した医療スタッフが新生児の担当者として立ち会うことができる体制」の確立を目標に,2007年から新生児蘇生法(NCPR:Neonatal Cardio-Pulmonary Resuscitation)普及事業を開始した[2], [3].NCPR普及事業は全国で行われており,離島や僻地においても実施されることが望ましいが,講習開催資格を有するインストラクターの不足に加えて,離島や僻地へはインストラクターの派遣が難しく,普及が進んでいない現状がある.NCPR講習は座学と実習で構成され,座学では基本的な知識を説明し,実習ではデリケートな新生児を用いた臨床訓練は難しいため[4],新生児を模した蘇生訓練シミュレータを使用して,新生児の出生から回復までのシナリオに沿った実習を行い,実習後には振り返りが行われる.
NCPR講習で使用される蘇生訓練用シミュレータの導入コストと学習効果にはトレード・オフの関係があり,本研究では,この関係を解消するために,広く普及している低機能シミュレータに対して手を加えることなく,外部機器を付け足す方針で,学習効果の高く,導入コストを抑えることを開発目的としており,図1にその全体像を示す.2章に関連研究と課題,3章に本システムの設計と実装,4章に実験手法について示し,5章では実験結果の考察を行い,6章で結論について述べる.
NCPR講習で使用されるシミュレータは大別して高機能・低機能シミュレータの2種類が存在する[5], [6].Laerdal社のSim-Baby [7]や高研のLM-111 [8]のような高機能シミュレータでは,新生児人形そのものが状況を再現できるロボットであり,本物の新生児の診察同様にロボットの胸の部分を聴診すると設定された擬似心音が再生され,手足の動き,泣き声の再現も可能である.しかしながら,新生児人形自体に機械が組み込まれているために高額で,操作の習熟や定期的なメンテナンスも要するため,普及が進んでいない.一方で,新生児の体形や重量のみを再現した安価な低機能シミュレータが普及している[9]-[11].前章では,蘇生訓練用シミュレータの導入コストと学習効果のトレード・オフの関係を取り上げたが,現状のシミュレータを用いた講習には学習効果を妨げる3つの課題が存在する.
第一に,普及している低機能シミュレータを用いた際のリアリティの欠如が課題である.シミュレーション教育ではリアルなフィードバックは教育効果を高めるとされる[12].一方で,低機能シミュレータは,新生児の心音などを再現できないため,新生児の心拍を再現するために,講習中にインストラクターが机を叩くことで心拍数を表現する必要がある.このように,実臨床とはかけ離れた再現を行っているため,講習生は適切なフィードバックを得ることが難しい.NCPR講習では,シナリオ講習中に自身の手技や行動の意義を考えながら状況を把握し,次の行動に移るための新生児や状況の変化に気づく“主体的な行動”が重要視されている.しかし,低機能シミュレータを用いた講習では,インストラクターがバイタル(バイタルサインの略称を指し,患者の現在の状況を表現する心拍数などの数値情報)を伝えるために,“主体的な行動”が阻害され,学習効果への影響が懸念されている.
第二に,講習中のインストラクターの負担の大きさが課題である.インストラクターは講習中に講習生の行動を観察し,行動に対するアドバイスを行い,次の行動への指示をするなど同時に行うべきタスクが非常に多いため,熟練のインストラクターでなければ講習をスムーズに進めることができない.高・低機能どちらのシミュレータを用いた講習でも,新生児の身体情報の再現のためのシミュレーターの操作,講習を的確に進めるための講習生へのアドバイス,シナリオ講習の難易度設定など同時に行うべきタスクが非常に多く,経験と高度なマルチタスクが求められる.さらに,低機能シミュレータを用いる場合には,前述のタスクに加え,状況再現のための負担がかかる.
第三に,講習生が振り返るための支援の不足が課題である.インストラクターは前述のマルチタスクを行いながら,シナリオ講習中に紙のチェックリストを用いて講習中の講習生の行動を記録し,記録した内容を元にして,シナリオ講習後に振り返りを行っている.インストラクターには高度なマルチタスクが求められ,負担も大きい.また,講習生はシナリオ講習中,自身の手技について集中しているため,シナリオ講習後に問題点について指摘されたとしても自身の問題点を把握できないことが多い.
現状一般医院で用いられているシミュレータには,高機能・低機能シミュレータが存在し,その学習効果と導入コストはトレード・オフの関係にある.表1に高機能・低機能シミュレータの詳細な比較を示す.高機能シミュレータは,新生児人形に内蔵したスピーカーやアクチュエータによって,新生児の心音や泣き声,手足の動きを再現可能である.一方で,低機能シミュレータは,高機能シミュレータに実装されている機能は実装されておらず,新生児の身体の構造を模擬しただけのマネキン人形である.低機能シミュレータは高機能シミュレータと比して,新生児人形内外に機械的な再現機構を有さないために,耐久性やメンテナンス性に優れる.また,高機能シミュレータの使用の際に必要なセットアップ,定期的なメンテナンスが必要がなく,価格を含めた導入コストが低いことも優位点である.
現状のシミュレータを用いた講習には,性能と導入コストのトレード・オフの関係に加えて,①普及している低機能シミュレータを用いた際のリアリティの欠如,②講習中のインストラクターの負担の大きさ,③講習生が振り返るための支援の不足の学習効果を妨げる3つの課題が存在する.そこで,本研究では普及性に考慮し,図2に示される学習効果が高く,導入コストを抑えたうえで,学習効果を妨げる3つの課題を解決するシミュレータの開発を目的として以下の設計方針を立てた.
まず,新生児蘇生人形に対して手を加える必要のないシンプルな構成によってシミュレータを設計している.また,広く普及しているスマートフォンにアプリをインストールし,多くの医院に普及している低機能シミュレータとアプリを合わせることによって,講習に必要十分な機能を持ち合わせたシミュレータとして使用することを可能とする.本提案手法は新たにシミュレータを購入する必要がなく,入手が容易なスマートフォンと一般的な電子部品で作成した模擬医療機器によって構成される.
また,提案シミュレータの材料費は,10万円程度(スマホ端末2台:9万円と一般的な電子部品1万円)である.模擬医療機器は,スマホアプリによる模擬心電図,模擬パルスオキシメータ,電子部品によって作成した模擬聴診器である.模擬聴診器は無線モジュールと照度センサ,Bluetoothイヤホンからなり,基本的な構造は市販のBluetoothイヤホンに近く,大量生産することによって,製造コストを下げることは容易である.さらに,個人の所有しているスマートフォンにアプリをインストールすることで,実質的なコストは模擬聴診器のみとなり,導入コストをさらに抑えることが可能である.図3に提案シミュレータを用いた講習の様子を示す.
次に,NCPR講習に必要とされる機能を実装した.提案シミュレータは,従来の低機能シミュレータに対して模擬医療機器を付け足すことで拡張しており,低機能シミュレータにはない,心音・泣き声・心電図・パルスオキシメータ・振り返りシステムの機能を実装している.
模擬聴診器から心音を取得,模擬パルスオキシメータ・心電図から提示された新生児のバイタルを講習生へ提示し,リアリティの向上を図る.インストラクターは手元のコントローラから心拍数,呼吸音,泣き声等の新生児のバイタルを管理する.これにより講習中のインストラクターの負担軽減を図る.また,振り返り時に講習中に撮影したビデオを用いるためのビデオのブックマーク機能を実装し,振り返りの支援策とする.以下,それぞれの機能の詳細について述べる.また,以下の文章にあるシミュレータは特に明記しない限り本研究で提案したシミュレータのことを指す.
本研究で作成したコントローラの画面を図4に示す.コントローラは,新生児バイタル,および模擬医療機器の状態を変更することが可能である.具体的には,心拍数,SpO2(動脈の中に流れている赤血球に含まれるヘモグロビンの何%に酸素が結合しているか示す値),泣き声,モニタ表示の有無を制御することができる.制御可能な新生児のバイタル,および模擬医療機器の状態の選択はJRC蘇生ガイドラインに則る.操作UIにはタッチパネルを採用し,これにより操作負担を減らすことを目指し,ワンタッチでシミュレータの心拍数,SpO2,泣き声等の数値を一度に操作できるように実装しており,インストラクターの負担軽減を図っている.また,データ共有についてはクラウド上の共有データベースを参照することで実装しているため,コントローラーから複数端末の同時操作が可能であり,インターネット環境があれば,コントローラーと模擬医療機器は離れた場所であっても通信可能である.
広く普及している低機能シミュレータでは,新生児人形に対して,聴診器を密着させ,聴診を行っても聴診器からは心音が聞こえないため,インストラクターが心音を口頭で伝える,もしくは,机を一定のタイミングで叩くことで心音を再現するなど,実際の臨床現場とはかけ離れた方法で心音を再現しており,学習効果への影響が懸念されていた.そこで我々は,図5に示すように聴診機能の備わった模擬聴診器を開発した.聴診器には照度センサとBluetoothイヤホンを内蔵し,無線モジュールを用いて照度センサから検知した値をコントローラに送信する.聴診時は,模擬聴診器のチェストピースを新生児に密着させるため,チェストピースの接触部の照度が下がる.この際に,聴診を行っていると判定し,聴診を行っているときのみ心拍数をイヤホンから再生し,講習生は現実の聴診と同様の体験を可能とし,リアリティの向上を図る.
JRC蘇生ガイドライン2020においては,新生児のSpO2および脈拍数を出生直後の新生児の状態を評価し,手技の判断を行うための評価指標としている.また,ガイドラインにおいて,SpO2と脈拍数を測定するためにパルスオキシメータ(皮膚を通してSpO2と脈拍数を測定するための医療器具)の使用を推奨している.そこで,パルスオキシメータを実装した(図6).コントローラとパルスオキシメータはWi-Fiを用いた無線通信を行っており,心拍数に応じたパルス音の間隔の調整とSpO2の値に応じたパルス音の周波数の調整,パルスオキシメータの数値の表示/非表示をコントローラ端末から設定できる.また,JRC蘇生ガイドライン2020では,新生児のSpO2および脈拍数以外にも,新生児の泣き声を評価指標に定めており,蘇生では数種類の泣き声を判別し,新生児の状態を把握することが求められる.そこで,新生児の泣き声の再生機能を実装し,低機能シミュレータを用いた講習では,講師が声真似で再現していた泣き声を,実際の音源に置き換えることで,リアリティの向上を図る.
JRC蘇生ガイドライン2020では,迅速で正確な心拍数の評価方法として,心電図モニタの活用が提唱されている.ハイリスク分娩を取り扱う施設では,新生児用の心電図モニタの普及が望まれており,シミュレーション教育においても心電図モニタの採用が求められている.そこで,ガイドラインの遵守,および本システムを臨床現場に近い環境にするために,心電図モニタを作成した(図7).心電図モニタはコントローラで設定した心拍数に応じた疑似心電グラフを表示することで,リアリティの向上を図る.
JRC蘇生ガイドライン2020では,ビデオによる振り返りを講習生が自身の問題点について第三者の目線から客観的に把握できるとして推奨している.また,従来の講習では講習生が振り返るための十分な支援策が存在しない.よって,ガイドラインの遵守および振り返りの支援のためビデオによる振り返りシステムを開発した.図8に振り返りシステムの画面を示す.本システムは,動画の撮影開始・停止をコントローラーから制御可能である.また,講習中に撮影したビデオをタブレット端末でストリーミング再生することで,即時振り返りを可能としている.また,シーンを確認可能なサムネイル機能,動画の任意の部分へのブックマーク機能,指定した場所へのスキップ機能も実装している.これらの機能により,振り返りの支援を目指した.また,この振り返りシステムは,従来の高機能シミュレータにも,組み合わせることが可能である.
振り返りのためのビデオカメラの設置には,2つの条件が求められる.第一に,講習中の生徒・講師の行動を阻害しないこと.第二に,振り返りの際に必要となる生徒の手の動き,新生児人形,模擬医療機器を撮影することである.この条件を満たすための設置位置・角度について述べる.設置位置については,小型カメラを三脚を用い,蘇生台の前方に設置している.設置角度については,広角モードで生徒・新生児人形・模擬医療機器を俯瞰する形で講習中の様子を撮影可能としている.ビデオカメラ設置の様子を図9に示す.
シミュレータの効果検証として,被験者を京都大学附属病院に勤務しているインストラクター4名と講習生9名(学生)を対象に実験を行った.インストラクターについては,3名は高機能・低機能シミュレータを使用した講習を行ったことがあり,1名は低機能シミュレータを使用した講習のみの経験がある.講習生に関しては,低機能シミュレータを使用した講習のみ経験がある講習生を無作為に抽出した.
シミュレータの効果を検証するため,従来方式の講習(低機能シミュレータのみを用いた講習)を7回,提案方式(低機能シミュレータ+本提案システム)の講習を8回の計15回実施した.講習内容は,座学は含めず,シナリオに沿った新生児蘇生シナリオ講習と振り返りから構成する.振り返りは1回のシナリオが終わるたびに行い,すべてのインストラクター,講習生が従来方式の講習,提案方式の講習を行った.すべての講習が終わった後にインストラクターと講習生にインタビューを行った.インタビューは,インストラクターと講習生を別室にし,自由発話形式で実施した.インタビュー終了後,内容の書き出しを行い,3名の実験者によって内容の主題分析を行った.今回は表2に示される4種類の主題が抽出された.これを元にして,シミュレータがNCPR講習に対してどのような影響をもたらしたかについて分析を行う.
①リアリティ向上の効果は,シミュレータによるリアリティ向上によって得られた効果の意見から構成される.②マルチタスク支援の効果は,シミュレータによるマルチタスク支援の効果の意見から構成される.③振り返りシステムの効果は,シミュレータの振り返りシステムによって,得られた効果の意見から構成される.④機能面の要求は,シミュレータに対する追加機能の要求についての意見から構成される.
以下主題分析によって得られた分析結果・および考察について論じる.なお,会話文中の( )内の文は前後の文脈から実験者が追記したものであり,文末の[ ]は発言者を示す.
主題1「リアリティ向上の効果」では,シミュレータによるリアリティ向上によって得られた効果の意見であり,以下に具体的な内容についての結果を示す.
NCPR講習では,インストラクターが講習生へ単に知識・情報を提供し,正しい答えを教えるのではなく,正しい答えに至る過程,方法を教えることを心がけることが求められている.つまり,講習生自身が与えられた状況に対して自ら判断することが技術向上に必要とされる.以下,本コードにつながった発言を考察する.
“自分が(講習生が)判断して,次どうするかを考える一連の行動っていうのは(講習生にとって)満足感が高いと思うんですよね”[インストラクター]
この発言より,インストラクターの提示した情報から,自身の判断によって次の行動を選択することは講習生にとって満足感が高いと考えられる.
“そういうプラスの面,積極的なプラスの面と消極的というか要するに,音声の情報で心拍数を音声の情報で60で聴くってことが,そっち(従来手法)がネガティブってこともあるんですね,違和感がある,本来は聴診をして心拍数が聞こえる”[インストラクター]
これは,従来方式では,情報提示が口頭での説明となっており情報が一過性となるため,講習生の頭に残らないと考えられた.一方,提案方式では,講習生は心拍や泣き声など音によって,自身の行動から状況把握をするため,臨床と同じように自己判断するようになり,振り返りの際にも印象に残るためと考えられた.つまり,シミュレータのリアリティ向上が講習に求められている「正しい答えに至る過程・方法を教えることを心がける」に対して助けになったと考えられた.
リアリティ向上の効果として,講習生の記憶の向上がまとめられた.以下,本コードにつながった発言を考察する.
“実際の現場になったら緊張してテンパって,(記憶が)飛ぶことってあるんですけど,普段の練習ではあんま考えない.でも体がこうやったらこうっていうふうに動くのが…”[講習生]
この発言から講習生が実際の臨床に入った際に戸惑わず手技を行うためには,練習の段階で手技を習得する必要があるものと考えられた.
“ここがよくなかったということが自分で気がついてを繰り返して頭に定着するし,そういうシナリオの訓練っていうのは非常に有意義だなと思います,一緒でリアリティがあるほうがやっぱりいいですよね.(講習生の)頭に定着するのかなと”[インストラクター]
スキルアップのためには,自身のスキルが定着するまで反復練習が必要であり,さらに新生児蘇生講習のリアリティを高めることが記憶の定着につながるものと考えられた.
リアリティ向上の効果として,講習生・インストラクターのモチベーション向上がまとめられた.以下このコードにつながった発言について考察する.
“(低機能シミュレータを用いた講習の場合)何やってんだろうと(机を叩く)サチュレーション(SpO2)を口で言っているし,(講習生も)僕も(インストラクターも)冷めてきてだんだん冷めてくる”[インストラクター]
これは,インストラクターがバイタルの再現に関して,心音の再現で机を叩く,泣き声,各種バイタルの数値を口頭で伝えるなど,現実とかけ離れた,いわゆる”ごっこ遊び”となってしまい,シミュレーションと現実との乖離を感じ,講習生・インストラクター双方のモチベーションが低下してしまうためと考察された.
“システムがあると(提案手法の場合)身が入る”[インストラクター]
また,インストラクターの発言から従来方式の講習に比べて,提案方式の講習の場合,講習に身が入るとの発言が認められた.これにより,シミュレータの導入によってリアリティを高まったことでインストラクターのモチベーションの向上したものと考えられた.
主題2「マルチタスク支援の効果」は,シミュレータのよるマルチタスク支援の効果についての意見であり,以下に具体的な内容についての結果を示す.ここでのマルチタスクとは,インストラクターはシナリオ演習を行う際,講習生の行動を見る,心音の情報を伝えるために机を叩く,SpO2や泣き声を口頭で伝える,シナリオの進み具合によって,その都度シナリオを変更する必要がある.講習中に講習生が間違った処置を行った場合やポイントとなる点でアドバイスを行うなどの各種タスクを指す.
マルチタスクの影響の要因として,インストラクターのタスクの減少がまとめられた.以下,本コードにつながった発言について考察する.
“(提案方式のほうが)明らかに頭の仕事量が減っているので,同時3つ進行みたいな”[インストラクター]
“(従来方式の場合)どうしてもこれ(机を叩く)をしながら,講習生を見ながら,かつ頭のなかでのシナリオの進行をしながらというのは3つやるのはなかなか難しかったなと,システムあり(提案方式)のほうが頭の仕事量(タスク)が減っている”[インストラクター]
インストラクターから提案方式の講習は,従来方式の講習と比べ「頭の仕事量が減っている」との発言から,提案方式の場合,講習を進めるため必要なシナリオの進行に合わせたパラメータのコントロールや新生児の状態を口頭で伝えるなどの作業をシミュレータが代行することで,タスクが減り,焦りや焦燥感が減ると考えられた.
マルチタスク支援の効果として,シナリオの複雑化への寄与がまとめられた.以下,本コードにつながった発言について考察する
“システムありの(提案方式)ほうが(シナリオを)複雑化できる”[インストラクター]
提案方式のほうが従来方式よりもシナリオ実習に時間がかかっていることに関しての質問に対して
“それ(シナリオの難易度)は内容がこっちのほう(提案方式)が重傷(難しい)でちょっといろいろ確認しなければ(確認の必要が)多いほうを音とか出るほう(従来方式)でやって,あっち(従来方式)は結構簡単なことばっかりやってたんだと思いますね”[講習生]
シミュレータを用いた場合,シナリオが複雑化されていたことが講習生・インストラクター双方の発言から認められた.一般的に重症とされるシナリオの場合,シミュレータで制御するべきパラメータや講習生への確認事項も多く,複雑と言われ,講習の進行が難しいとされる.シナリオの複雑化が可能となったのは,シミュレータによって,マルチタスクを支援できたことで,タスクが減少したためだと考えられた.
“少なくとも赤ちゃん泣かせたりとかは(提案シミュレータに)任せてしまったので,シナリオとの,進行と受講者を見ていたので,(従来方式と比較して,提案方式では)アドバイスは一個増やせたかな”[インストラクター]
また,シミュレータを用いた場合に「講習中のアドバイスを増やすことができた」との発言が認められた.これも考察を支持する発言である.これはシミュレータを導入することによって,心音の再現,SpO2,泣き声の再現をスマートフォンの操作で行えるようになったためと考えられた.
主題1「振り返りシステムの効果」では,シミュレータの振り返りシステムによって得られた効果の意見であり,以下に具体的な内容についての結果を示す.
振り返りシステムの効果の1つとして,講習生が自身の手技を客観視がまとめられた.以下,本コードにつながった発言を考察する.
“(講習生は講習中に)凄い集中しているので(自分の行動を振り返るときには自分の行動を)覚えていないと思うんですよね”[インストラクター]
講習生が,振り返りの際に講習中の手技を思い起こして,振り返りを行うことは難しい.そのため,ビデオ等の記録によって振り返りを補助することが必要と考えられた.
“彼は(講習生は)それをみて,自分で分かってなかったところの自分の行動を見れたのではないか,客観的に,(講習生が)舞い上がってしまった自分で振り返れないときの振り返りとして(振り返りシステムは)いいかなと”[インストラクター]
また,ビデオによる振り返りシステムの導入によって,講習生が客観的に自身の行動を振り返ることができたと考えられた.
振り返りシステムの効果の1つとして,講習生・インストラクターが発言できる発言を増やせる場作りがまとめられた.以下,本コードにつながった発言を考察する.
“ビデオがあると振り返りがやりやすい”[インストラクター]
“オープンクエスチョンは何も出ないなということで,どうでしたかと聞くと改善すべき点は何かって言うふうに捉えてしまうんですね”[インストラクター]
インストラクターから講習生に対しての自由発話形式では,講習生からの自発的な発言が生まれにくく,インストラクターは講習生にミスを指摘するだけになる.これは,講習の場では,インストラクターと講習生,教える側と教えられる側が明確に分かれているためと考えられた.
“後半になってやいのやいのってなる(発言が増える)んですけどその場を作れるかっていう課題”[インストラクター]
また,インストラクターは講習生が自発的,積極的に発言をしやすい場を作ることを重要視しているとの発言も認められた.講習生が積極的に発言を行えるようになることで,講習生の学習に対してのモチベーションが向上すると考察された.
“みんな(講習生)が喋る人じゃなくって,喋らない人もビデオがあることがきっかけで,話しやすくなったり,発言量が全然違ったなと自ら(講習生)の振り返りの促進にはなるかなと”[インストラクター]
また,インストラクターからビデオによる振り返りを導入することにより,講習生が振り返り中の発言が増えたという発言も認められた.これは自身の手技を第三者の目線から講習後に振り返ることによって,講習中には気づけなかった問題点に気づけるためだと考えられた.
主題4「機能面での要求」では,シミュレータへの追加機能の要求の意見であり,以下にその具体的な内容について示す.
シミュレータのビデオによる振り返り機能については支持された一方で,インストラクターからの振り返りのための要求が得られた.以下,本コードにつながった発言について考察する.
“いけてなかったところとか漠然としたイメージがあるんですけど,何秒とかも覚えていませんし,マーキング(ブックマーク機能)とかあったんですけど,マーキング(ブックマーク)したところが,どういうところなのかは覚えていません”[インストラクター]
この発言より,インストラクターは講習において,注意すべき点が講習開始から何秒の時点のものか記憶できない事が分かる.また,振り返り用にブックマーク機能についてもブックマークした部分がどのようなシーンであったのか,内容自体は把握していないため,ブックマーク機能だけでは講習をうまく進めることは難しいと考えられた.そのため,実習現場においては,コントローラを用いて新生児の状態,模擬医療機器の状態を操作するインストラクターに加えて,振り返りシステムを操作し,ブックマークを行う別のインストラクターの二人体制で講習を行うことで対応した.
“僕らがバイタル(心拍数を60に変更)60にしたときとか,サチュレーション上げたときとかに連動させたら簡単.理想はできていない所でマーキング(ブックマーク)できたらベスト”[インストラクター]
また,インストラクターが手動で行っているブックマーク機能をインストラクターの手を介すことなく,AIを介して自動で行うことによって,更なる負担軽減の可能性があり,今後の研究において実装する.
機能面への要求として,シミュレータの自動化の是非がまとめられた.以下,本コードにつながった発言について考察する.
“リアルな蘇生だと,気管挿管でちゃんと挿管できなくて,ちゃんと気管に挿管できないと回復しないとどんどん悪くなっちゃうんですけど,マスクバックや挿管などの対応.ちゃんと圧かかっているか,ちゃんと挿管できているかを人形が,判断する機能があったらいいなと,手技がちゃんとできているか,機械が判定してするっていうのがあってもいいのかなって”[インストラクター]
この自動化についてインストラクターの発言を分析すると,シミュレータが胸骨圧迫や気管挿管などの手技の正確性を判断し,新生児のバイタルや模擬医療機器の状態を自動的に変更することと考えられた.実習現場においては,手技の正確性判断,新生児のバイタル・模擬医療機器の状態の変更は,インストラクターが行う必要がある.このため,講習生が正しい判断を行っているかを判断する技量の低いインストラクターの場合は,シミュレータの操作が少なくて済むシナリオを実施することで対応した.
シミュレータの自動化がなされた場合,インストラクターはシミュレータの操作の必要がなくなり,さらにインストラクターの負担が軽減され,より良い講習を行うことができると考えられる.加えて,シミュレータの自動化が行われた場合,講習生が正しい手技を行っているかを判断する技量の低いインストラクターであっても,一定のレベルの講習を行える可能性がある.
“(自動化)システム無し(提案方式)でインストラクターが口で状況を言ったりして,口で言ったりしながらっていうのは,始めたばっかりの何をやったらいいのか分からない人たち(知識・手技のレベルが低い講習生)は,(従来方式で)教えながらやったほうがいいのかなっていう気はちょっとしました”[インストラクター]
自動化の要求がある一方で,先の発言のように,低機能シミュレータを用いた講習にも意義があるとの指摘があった.自動化したシミュレータを使用した際に,講習生がNCPRにおける蘇生手順や手技に精通していない場合,講習生は適切な手技を施すことができず,状態が悪くなるだけというケースが考えられる.このため,講習生がNCPRにおける蘇生手順や手技に精通していない場合,時々刻々と状況が変化するよりも,従来方式での,講習生が戸惑った時点でシナリオを止め,講習内容を修正することが効果的であると考えられる.自動化の是非については,講習生のレベルによって意見が分かれるものと考察された.
提案シミュレータは,普及している低機能シミュレータに対して,一般的な電子部品・スマートフォンで構成される模擬医療機器を付け足すことによって構成される.これにより,一般医院で普及している低機能シミュレータを併用できるため,新たに高額なシミュレータを購入する必要がなく導入コストを抑えることが可能となる.具体的には,提案シミュレータの作成にかかった原価は,10万円程度である.さらに,すでに所有しているスマートフォンに対して,アプリをインストールすれば,実質的なコストは1万円以下で提案シミュレータを配布することも可能である.NCPRにås必要な機能として,コントローラー,模擬聴診器,模擬パルスオキシメーター,模擬心電図,振り返りシステムを実装している.主題分析の結果から,シミュレータの再現機構によってリアリティが向上し,インストラクター・講習生のモチベーションの向上,講習生の自己判断の想起,記憶の定着の補助ができたと考えられた.また,インストラクターへのマルチタスクの支援が可能となり,インストラクターのタスク減少,シナリオの複雑化に寄与などの効果がみられ,従来方式と比して,学習効果が向上したと考察された.また,振り返りシステムの効果として,講習生が自身の手技を客観視することができるようになり,学習のしやすい場作りができるようになるなど,学習効果の向上が考察された.
医療機関に普及している低機能シミュレータに対して手を加えず,重要な機能だけを後付けで追加して,低コストで高機能シミュレータ相当の仕事をさせるには,機能の取捨選択・再現機構の選択が必要となる.本提案手法では,その1つの答えとして,スマートフォンと模擬医療機器を付け加えることで新生児の容体の再現機構を実装し,従来の提案手法で重視されていた新生児人形にセンサやアクチュエータを内蔵して手技の巧拙を自動的に判断する機能や新生児の手足の動きの機能は実装していない.後者の機能は直感的にはリアリティある新生児の状態を再現することは間違いない.反面,コスト,メンテナンス性,頑強性とのトレードオフの結果として普及に至っていない.
本提案手法では,広く普及し,なおかつ,スピーカー・液晶画面・無線機能の実装されているスマートフォンを資源として活用することで,このトレードオフを解消し,低コスト化を実現しながら,6章の主題分析結果に示すようにユーザに対して高機能シミュレータと遜色のない体験への道筋を付けた.また,本提案手法は,メカニカルな再現機構を排除してソフトウェアによる手法を中心に据えたことにより,アプリを変更することによってNCPRに求められる機能追加への対応も可能である.さらに,新生児領域だけでなく,成人領域の医療シミュレータに対しても,本提案手法は応用可能と考えられる.
本研究では,NCPR普及事業の掲げる「すべての分娩に質の高い新生児の蘇生をただちに開始できる人材が立ち会うことのできる体制を整備するための人材育成」の支援を目標に,学習効果の高く,導入コストの低いシミュレータを開発した.現在の講習会で用いられているシミュレータには高額な高機能シミュレータから安価な低機能シミュレータがあるが,その間には学習効果と導入コストはトレード・オフの関係にある.そこで本研究では,学習効果を高めると同時に導入コストを抑えたシミュレータの提案を行った.学習効果を高めるために,提案シミュレータはシナリオ中にインストラクターが新生児のバイタルを変更できるコントローラと模擬パルスオキシメータ,模擬心電図,センサ組み込み模擬聴診器などから講習生に対して情報を提示し,振り返りの際には,ビデオによる振り返りシステムからなる.また,導入性を高めるため,既存の新生児人形に対して手を加えることなく利用可能である.加えてスマートフォンにアプリケーションをインストールするだけで使用を可能とした.
提案シミュレータの効果を検証するため,従来方式の講習(低機能シミュレータ)と提案方式の講習(提案シミュレータ)を行い.主題分析を用いて,従来方式の講習と提案方式の講習の比較を行った.主題分析の結果として,①リアリティ向上の効果,②マルチタスク支援の効果,③振り返りシステムの効果,④機能面の要求の4つの主題が得られ,提案シミュレータを用いることで,現状のシミュレータを用いた講習における3つの課題への解決の道筋を示した.第一に,普及している低機能シミュレータを用いた際のリアリティの欠如の課題について,主題①リアリティ向上の効果から課題を部分的に解決できたことが分かる.具体的には,提案シミュレータの再現機構によって,講習生がより現実に近い環境で行動に対するフィードバックを得られるようになり,リアリティが向上したと考えられた.リアリティ向上の効果として,講習生の自己判断の想起・記憶の定着,講習生・インストラクターのモチベーションの向上が認められた.
第二に,講習中のインストラクターへの負担の大きさの課題については,主題②マルチタスクの支援の効果から,課題を部分的に解決できたことが分かる.具体的には,提案シミュレータがマルチタスクを支援することで,インストラクターのタスクが減少し,シナリオを複雑化できることが分かった.一方で,主題④機能面の要求から,シミュレータの自動化についての発言が認められ,シミュレータ操作を自動化することによって,インストラクターの負担を更に軽減できる可能性が示唆されたが,講習生のレベルによって自動化の是非については意見が分かれるものと考察された.
第三に,講習生が振り返るための支援の不足の課題については,主題③振り返りシステムの効果から,課題を部分的に解決できたことが分かる.具体的には,振り返りシステムによって,学習の支援が可能となり,講習生が自身の手技を客観視できる,講習生が発言しやすい場作りのために役立つことが分かった.一方で,主題④機能面の要求から,振り返りのための要求についての発言が認められ,ブックマーク機能の自動化によって,インストラクターの負担を軽減できる可能性が示唆された.
今後のシミュレータの追加機能として,新生児蘇生技術を持った医療関係者の少ない僻地,および離島等の真に新生児蘇生技術を求められている地域に対しての遠隔講習機能についても検討する,データ共有をクラウド上のデータベースを用いた副次的な効果として,遠隔講習はインターネット環境が前提ではあるが,遠隔地に模擬聴診器と接続するハブ端末を設置し,ビデオ配信を行えば,技術的には可能である.しかし,カメラの画角制限によりインストラクターが講習生の様子を把握できないことや,遠隔講習を行うことによるタスクの増加による講師に対する負担や総データ通信量の増大の課題に加え,通信インフラ,機材をセットアップする専門の人員の確保の課題,人的・金銭的コストをどのように抑えるかが今後の研究課題である.
謝辞 本研究開発の一部は,総務省戦略的情報通信研究開発事業SCOPE(受付番号181607012)の助成を受けたものである.ここに記して謝意を表す.
2021年立命館大学情報理工学研究科修士課程修了.現在,同大学情報理工学研究科博士課程在学中.
2018年大阪工業大学大学院情報科学研究科博士後期課程修了.同年立命館大学情報理工学部助教.パターン認識,認知科学,教育工学の研究に従事.情報処理学会,電子情報通信学会,日本ロボット学会,画像電子学会,日本ヴァーチャルリアリティ学会,IEEE各会員.博士(情報学).
立命館大学 情報理工学部教授.VR,ヒューマンインタフェース,医療情報システムの研究に従事.
2010年北陸先端科学技術大学院大学博士後期課程修了.同,研究員,公立はこだて未来大学特任研究員,立命館大学情報理工学部助教,同講師を経て,2021年より立命館大学情報理工学部准教授.ヒューマンコンピュータインタラクション,身体性認知科学に関する研究に従事.情報処理学会,ACM等会員.博士(知識科学).
2003年広島大学医学部卒業.2014年京都大学大学院医学研究科小児科専攻修了.新生児医療および,ICT教育システムの開発に従事.日本医学教育学会員,日本遠隔医療学会員,NCPRインストラクター.
2010年大阪市立大学医学部医学科卒業.同年より2016年まで宝生会PL病院小児科で勤務,2016年より京都大学医学部附属病院小児科医員,日本周産期新生児医学会専門医,NCPRインストラクター.
2009年京都大学医学部医学科卒業2009年から北野病院で初期研修,2014年から神奈川県立こども医療センター新生児科,2017年から京都大学医学部附属病院小児科医員,NCPRインストラクター.
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