アジャイル開発は,要求を開発の初期段階で確定せずにバックログ化して,優先度の高いバックログ項目から順番に2週間ほどの一定期間(反復)で動くソフトウェアとして実現していく,チームベースの開発手法である.ここで,バックログ化とは,開発してほしい要求を一意に優先順位付けした一覧にすることであり,その際にバックログ項目はユーザストーリーという要求表現形式で記述されることが多い.ユーザストーリーは,ソフトウェアにおいて実現してほしいことを1,2行で簡潔に表現した要求表現形式である.アジャイル開発では,開発依頼者は,開発途上でバックログ項目の優先順位付けやプロダクトの受け入れを行うなどを通じて,開発チームと継続的に連携する.このような開発手法は,動くソフトウェアで新たな価値(仮説)の妥当性を確認できる,という利点があり,開発初期に価値が不確実なプロダクトの開発に適している.
2001年にXP(eXtreme Programing)[1]やスクラム[2]などの主要なアジャイル開発の提案者たちが集まって共通の価値や原則を文書化したアジャイル開発宣言を発表して以降,欧米ではその活用が進んできた.その一方で,日本では2016年頃まで何度かアジャイル開発が注目を集めたことがあったが,クラウドサービスの開発やゲームの開発以外のITシステムの開発やプロダクト開発などにおけるアジャイル開発の継続的な活用や活用の拡大はあまり進まなかった.
筆者らは,2001年以降トレーニングで日本のさまざまな企業でアジャイル開発の活用を支援し,2014年以降エンタープライズアジャイル勉強会というコミュニティを結成して,日本でのアジャイル開発の活用に注力してきた.それらの経験を通じて,日本のさまざまな企業でのアジャイル開発の活用を阻害する初期の要因は,以下の2点だと考えている.
前者は,日本ではソフトウェア開発において「仕様どおりに早く,安く,品質がよい」ものを求められることが多く,それがアジャイル開発の狙いである「市場やニーズの不確実性に向き合い,価値あるものを早く提供する」というものとずれているということである.この狙いの違いにより,図1に示すアジャイル開発宣言[4]の4つ価値においても,左記のことがらと右記のことがらのどちらに価値を置くかが左右される.日本の企業は,従来どおり「仕様どおりに早く,安く,品質がよい」を狙っていたので,アジャイル開発宣言の左記のことがらに価値を置き,アジャイル開発を素直に活用することができなかったのである.
一方で,アジャイル開発の活用を阻むさまざまな障害としては,図2の「うちでもアジャイル開発やってみました」アンチパターン[3]で示されるようなさまざまな障害に直面することが多かったことが挙げられる.このような障害の克服には,プロジェクト単位でのアジャイル開発の適用を超えた組織的な取り組みが必要だが,実際にそのような取り組みは少なかった.
このような状況が2016年以降,少しずつ変わってきている.たとえば,エンタープライズアジャイル勉強会の発表や本稿誌においても金融[5],通信[6],製造業[7]を中心にして先に述べたアジャイル開発の狙いを素直に理解し,組織的な取り組みでアンチパターンを克服している事例が現れてきている.
本稿では,アジャイル開発活用の組織的取り組みの施策の適用領域を提案し,アジャイル開発活用の組織的取り組みを実行している,コニカミノルタの施策[8]と対比する.次に,コニカミノルタの施策を参考にして作成したアジャイル開発活用推進のロードマップを提案する.さらに,アジャイル開発活用に取り組む上で重要な役割を果たすアジャイル開発活用の推進役の育成の例として,エンタープライズアジャイル勉強会の取り組みを紹介する.
筆者らは,アジャイル開発活用の組織的取り組みを進めている,コニカミノルタ[8]およびその他の会社の施策[5]を,表1のような6つの領域に整理した.
この施策の適用領域の設定を考える際に,コッターが提案している企業変革のステップ[9]とSAFe(Scaled Agile Framework)[10]というアジャイル開発フレームワークの実装ロードマップを参考にした.
コッターが提案している企業変革のステップは,以下の8つのステップで構成されているが,その中の最初の5ステップを施策の適用領域の設定の参考にした.
ここで最初の5ステップを選んだのは,これらのステップはビジネス上の成果の拡大に影響する他のビジネス要因によらず適用できるものだと考えたからである.そのようなビジネス上の成果の拡大に影響するほかのビジネス要因としては,開発を超えたビジネスの企画力が考えられる.そのような企画力は,アジャイル開発の狙いである「市場やニーズの不確実性に向き合い,価値あるものを早く提供する」の中で育成されるもの,言い換えれば失敗を通じて育成するのではないかと思われる.このような育成の施策としては過去の実績よりもアイディアの素晴らしさを評価し,迅速に承認するような企画承認プロセスが有効な可能性があるが,本稿の執筆時点ではまだ確信がなかったので領域として設定しなかった.
SAFeの実装ロードマップは,コッターの企業変革ステップのSAFeを用いた実装を提案しているが,その中で以下のようなアイディアが追加されている.
ここで,業務バリューストリームは,顧客の注文を受けてから価値を提供するための一連の業務の流れを表し,開発バリューストリームは,その業務バリューストリームで用いられるシステム等を作るための一連の業務を表す.SAFeの実装ロードマップでは,業務バリューストリームに注目することで変革の対象とすべき業務を選び,その業務バリューストリームを変革する上で効果の高い開発バリューストリームを選ぶことを推奨している.そのように変革対象の業務バリューストリームを設定することの利点として,その分野でアジャイル開発を活用する継続的なニーズを得ることが期待できることが挙げられる.
SAFeの実装ロードマップの3点のアイディアのうち,2),3)は前記の施策の適用領域のE),F)として取り入れた.1)については,日本の企業でトップダウン的にアジャイルの適用領域が決められることは少ないと考えて,前記の施策の適用領域に含めなかった.
次の節で表1のA)〜F)でコニカミノルタが各々どのような施策を実施しているかを紹介する.
コニカミノルタは,これまで材料,画像,光学,微細加工などのコア技術を活用し,カメラ,フィルム,情報機器などの分野でビジネスを展開してきたが,分野を超えた大きな変革期に直面している.その変革を成し遂げる手段として,企画,開発,運用が連携した新たなサービス作りを実現しようとしている.しかし,このような新たなサービス作りを実現するためには組織が変わる必要があり,表2のような施策を実施している.
これらのコニカミノルタの施策から分かることは以下のとおりである.
これらの施策から,コッターの企業変革のステップは施策を立案する上で役立つことが分かる.しかし,それだけでは不十分であり,アジャイル開発の活用というコンテキストでは,SAFeの実装ロードマップに含まれているような教育インフラの整備やコーチによるプロジェクトの支援も必要であることが分かる.
コッターの企業変革のステップはトップダウンでの企業変革を行う場合のステップであるが,ボトムアップも含めた企業変革を進めるために役立つパターンとして,LynnらがFearless Change[11]というパターンを提案している.Fearless Changeのパターンの例としては以下のようなものがある.
コニカミノルタの具体的な施策には,表2の施策に加えて,このようなFearless Changeのパターンに対応するものが多く含まれる.たとえば,コニカミノルタの具体的な施策を立案し,推進したのは,これらのパターンの中で「正式な推進担当者」に位置づけられる人であった.このような役割を果たす人を本稿では,「アジャイル開発活用の推進役」と呼ぶ.また,アジャイル開発活用の推進役の役割は必ずしも1人で担う必要がなく,複数人からなるチームでもよいと考えられる.
前章で紹介したコニカミノルタの施策は,「うちでもアジャイル開発やってみました」アンチパターンを克服するものになっているが,施策を考える際に克服の処方箋(解決策集)が先にあったわけではない.アジャイル開発活用の推進役が自らアジャイル開発を理解し,その活用の障害に対する解決策を考案した結果としてアンチパターンを克服する施策に至ったと考えられる.
実際に,施策をアジャイル開発活用の推進役が開発し,実行したステップは以下のようなものであった.
これらはアジャイル開発の理解,メソッドの構築と研修の開発,メソッドの展開という流れで推進されていると考えられる.A)のステップを「初期学習段階」,B),C)のステップを「実証段階」,D),E)を「展開段階」と呼び,各段階で行うことを一般化すると図3のようになる.
図3中の各段階の活動は以下のとおりである.
なお,アジャイル開発プロジェクトではスクラムのプロダクトオーナ(PO)やスクラムマスタ(SM)のような役割が設定されることが多く,これらの役割がアジャイル開発プロジェクトの成否に大きな影響を及ぼすと考えられる.ここでPOは,前述した要求をバックログ化し,バックログ項目の優先順位付けを行い,開発された動くソフトウェアを受け入れていく,役割である.また,SMは,開発チームに開発手法の適用方法を教えるとともに,開発を進める上での障害の解決を支援する,役割である.これらの役割が重要であるため,難易度が高いがPOやSMをどのように育成するか,という点も実証段階以降の大きな課題になる.
また,実証段階以降は,アジャイル開発のメリットを享受できそうなプロダクト開発のニーズを集める方法を考えていかねばならない.そのためには,企画部門や利用者部門などにアジャイル開発を使ってみたいと思ってもらえるようなプロモーション活動を行い,そこから出た開発ニーズとアジャイル開発の適合性を評価するなどの取り組みも必要になる.
さらに,開発を他社に委託している場合に現状の開発委託先のメンバがアジャイル開発が未経験であることが多い.そのため,実証段階以降に委託先の会社のメンバに教育を誰が行い,そのコストをどう負担するか,という点についても考える必要がある.
今後,日本でアジャイル開発の活用をさらに広げるためには,前章で述べたようなロードマップを立案し,推進するアジャイル開発活用の推進役の育成が大きな課題になると考えられる.
第2章で論じた施策の立案と遂行および第3章で論じたアジャイル開発活用推進のロードマップの推進から考えると,アジャイル開発活用の推進役には以下のようなコンピテンシー,専門的な知識やスキルが必要だと考えられる.
これらのコンピテンシー,専門的な知識やスキルが必要な理由をまとめたものが表3である.
次にアジャイル開発活用の推進役の育成の取り組みの例として,エンタープライズアジャイル勉強会の取り組みを紹介する.筆者も実行委員として関与しているエンタープライズアジャイル勉強会は,2014年に日本の企業での「エンタープライズアジャイル」の実現を阻む障害と解決策を共有することを目指して発足した.しかし,2016年頃にエンタープライズアジャイル勉強会はアジャイル開発活用の推進役の重要性を認識し,アジャイル開発活用の推進役の育成も含む支援を提供する方針に方向を変えた.
2016年以降,エンタープライズアジャイル勉強会では主として先に上げたA)とC)の分野を中心に表4に示されるような手段でアジャイル開発活用の推進役の育成の支援に取り組んできた.
これらの取り組みの中でオンライン講座「アジャイル開発の基本」は,情報サービス産業協会と共同開発したものであり,オンラインの講義,ミニレポート,集合研修で構成される研修である.この研修の目的は,アジャイル開発活用の推進役が基本的な知識やマインドセットを学ぶことである.オンラインの講義は無料で視聴可能なので,アジャイル開発活用の推進役自身が視聴することに加えて,組織内でのアジャイル開発の教育に使うことが可能である.さらに,より実践的な知識を学ぶ手段として定例セミナを開催したり,定例セミナの内容をまとめた書籍を刊行したりしている.
Fearless Journey[12],[13]は,複数人で自分たちが直面している課題を抽出し,それをFearless Changeのパターンで解決できるのか検討をするというカードゲームである.このゲームにより,Fearless Changeのパターンをグループで能動的に学習することができる.このゲームは,2016年から合宿やワークショップで実施しているが,アジャイル開発活用の推進役に非常に好評である.
Open Space Technology(OST)[14],[15]は,参加者がその場で議論したいことを提案し,タイムテーブルに割り付けるという形式のカンファレンスである.OSTでは,通常のカンファレンスのように主催者がプログラムを事前に組み立てるのではなく,参加者が議論したいことに即したプログラムをその場で組み,それについて興味を持つ人たちが集まって議論する.このようなイベントを開催することで,アジャイル開発活用の推進役の初心者からベテランまでが各々の課題や解決策に議論し,相互に学ぶことができる.
エンタープライズアジャイル勉強会としては,アジャイル開発活用の推進役の初心者がオンライン講座,書籍,Fearless Journeyで基礎的な知識やスキル,コンピテンシーを育むことで初期学習段階から実証段階への移行を支援し,実証段階以降は毎月の技術講演や事例紹介,OSTで自らの課題の解決を支援することを狙っている.
今後検討すべき大きな課題として,以下のことが考えらえれる.
本稿では,まずアジャイル開発の狙いと日本のこれまでの状況について言及した.そこでは,2016年以前は,アジャイル開発の狙いの理解や,アジャイル開発の活用に対するさまざまな障害の克服に組織的な取り組みが必要なことの理解が不十分だったことを述べた.2016年以降は,コニカミノルタを始めとして組織的なアジャイル開発活用の取り組みを行う事例が現れており,狙いや障害が克服されつつある.本稿では,このような組織的なアジャイル開発活用の取り組みの施策の適用領域を提案し,実際にコニカミノルタの施策がそれらの領域をカバーしていることを示した.次に,コニカミノルタの施策の実行過程を一般化したアジャイル開発活用推進のロードマップを提案した.また,アジャイル開発活用推進のロードマップを推進する上でのアジャイル開発推進役が備えるべきコンピテンシー,専門的な知識やスキルを明らかにした.さらに,アジャイル開発推進役育成の取り組みの1つの例として,エンタープライズアジャイル勉強会の取り組みを紹介した.
オージス総研技術部ビジネスイノベーションセンタに所属.1990年オージー情報システム総研(現オージス総研)に中途入社.ソフトウェア開発プロジェクトの測定,アジャイル開発を含む反復的な開発手法やモデリングの実践,研究,教育や普及に従事.認定スクラムマスター,SAFe Program Consultant 4,技術士(情報工学部門),博士(情報学).
中原 慶(非会員)kei.nakahara@konicaminolta.comソフトハウスを経て(株)豆蔵に転職.オブジェクト指向, UMLモデリングを中心とした教育,コンサルティングに従事.その後,(株)チェンジビジョンにてアジャイルプロジェクトマネジメントツール TRICHORDをはじめとしたツールを開発.並行して,自動車業界におけるシステム仕様記述手法の研究/展開やプロセス改善を実施.現在はコニカミノルタ(株)にてアジャイル型開発の社内コーチ,および全社展開を行いつつ,新規サービスの開発に従事している.CSM,CSPO,Scurm@Scale Practitionar,認定LeSS実践者,Management3.0認定ファシリテーター.
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