デジタルプラクティス Vol.11 No.2(Apr. 2020)

「DXを推進する俊敏なシステム開発・運用─アジャイルにつなぐビジネスとICT─」特集号について

山下博之1  藤瀬哲朗2

1(独)情報処理推進機構  2(株)三菱総合研究所 

前回,本誌でアジャイル開発の特集[1]を行ってから4年近くになる.当時,情報通信技術(ICT)の役割がビジネスの支援からビジネスそのものの実行へと変化するとともに,グローバル化が進展し,ビジネスを取り巻く環境の変化がますます激しさを増していた.そうした中で,SoE(Systems of Engagement)と呼ばれる,顧客との協働を重視しIoT(Internet of Things)やAI等の技術を活用した新しいサービスシステムの開発が,従来型のSoR(Systems of Record)との両輪で進められつつあった.そのような状況を背景に,ICTシステムの開発において,変化への俊敏な対応を特徴とするアジャイル開発の導入が拡大してきている[2].

このような状況を加速する動きが,最近始まった.2018年に経済産業省が提唱した,デジタルトランスフォーメーション(DX:Digital Transformation)である.DXは,各企業が競争力維持・強化のために新たなディジタル技術を利用してこれまでにないビジネスモデルを展開するものであり,次のように定義されている[3]:

「企業がビジネス環境の激しい変化に対応し,データとデジタル技術を活用して,顧客や社会のニーズを基に,製品やサービス,ビジネスモデルを変革するとともに,業務そのものや,組織,プロセス,企業文化・風土を変革し,競争上の優位性を確立すること」

令和の時代の幕開けとともに,DXによる新しい時代へのシフトが起こり始めている.この変化が社会に浸透すれば,従来の社会・経済システムはICTをより有機的に活用するように変革し,その効果を最大限に享受した,経済発展と社会的課題の解決を両立する人間中心の社会(Society 5.0)[4]に進化することが期待されている.この実現のために企業等には,ディジタル技術を活用する新たなビジネスモデルや技術統合とそれによる新たな価値を生み出していくことが求められる.そして,DX推進の核となるICTシステムでは,いっそう激しくなると想定されるビジネス環境の変化に俊敏に対応するため,技術的実現性やビジネス成否が不確実な状況でも開発に着手するとともに,運用時の技術評価結果や顧客の反応に基づいて素早く改善を繰り返すという,仮説検証型の反復的な開発・運用スタイルが有効となる.これは,より具体的には,正確な要求が定義できなくても開発を始めなくてはならず,開発者と顧客(ビジネス側)との協創によりプロダクトの品質を高めていくということである.このようなスタイルの具体的なものが,アジャイル開発やDevOpsなのである.

たとえば,AI等の新しい技術や概念を活用したシステムを構築する場合,本格開発の前に,まず基本的な部分を小規模に試験的に作ってみて実現性や効果等を評価する概念検証(PoC ; Proof of Concept)において,アジャイル開発が有効とされる.

こうした背景においてみられる,最近のアジャイル開発に関する特徴的な傾向として,主に次の2点があると考える:

  • 1) 先行してアジャイル開発を導入してきた企業では,アジャイル開発に入る前に,自らがどのようなビジネス価値を求めているのか,その価値を実現するためにどのようなプロダクトを開発するのかといったビジョンを明確にする,価値探索の活動を重視する
  • 2) アジャイル開発の導入を始めようとする企業等では,従来のウォーターフォール型開発を前提とした社内の仕組みによる障壁に苦労する

価値探索は,ウォーターフォール型開発のプロセスで言えば企画に相当するものである.考えているサービスがユーザにとって真に必要なものかとか,顧客のビジネス戦略においてどのように発展していくのか,といった観点で仮説を作り,ユーザを交えて検証していくものである.

障壁となり得る社内の仕組みとしては,契約や社内開発標準のような制度面や組織・体制面のものと,開発担当者の考え方や行動のようなマインド面のものとがある.これらには,経営層の考え方の変革により解決できるものも多い.このことは,DX推進におけるポイントの1つとなっている.

本特集では,DX推進という大きな潮流において,これらの傾向に関する各社の工夫の実践が数多く紹介されている.たとえば,奇しくも自動車産業の企業からの論文が多くなっているが,同産業では,MaaS(Mobility as a Service)への流れの中で今までにはなかった新しいサービスを提供し続けなければ競争に勝てない時代になっている.そのような状況に応えるICTシステムの開発では,あらかじめ正確な要求を定義できないためにリーン開発的なアプローチが必要となっており,当初の想定がずれていた(ずれてきた)時には要求を変化させる必要がある.このようなニーズに対応するには,企業組織の面でも経営層と開発担当者両方のマインドの面でも大きな変革が求められるが,本特集の論文からはそれを苦労しながらもやり遂げられていることがうかがえる.本稿の後半では,これらを含む各論文の概要を紹介する.

鈴木氏の解説論文「エンタープライズ領域のアジャイル開発の課題─アジャイル開発がもたらす意思決定プロセスの変化─」では,ウォーターフォール開発プロセスを主に実施している組織において実施されるアジャイル開発プロセスと定義した“エンタープライズアジャイル”の課題について,ウォーターフォール開発における特性と課題をアジャイル開発における特性と利点と対比させつつ,ポイントを突いた具体的な分析を行っている.その上で,エンタープライズアジャイルの導入に向けた3つのパターンを比較し,既存事業領域と新領域とを適切な関係性でつないで事業価値を高める“出島型”パターンの優位性を示すとともに,導入成功に向けた3つの確認点(ビジネス成果の事前検証,シンプルな意思決定プロセス,技術的な独立性とシステム連携)を示している.さらに,これらが実践された2つの成功事例を紹介している.長年にわたってウォーターフォール開発を実施してきた企業にもアジャイル開発の導入が増えつつある中で,その組織・従業員の思考や行動パターンがウォーターフォール開発に適応してしまっているがゆえにうまく導入できていない企業には,自身の変革への示唆を与えるものであろう.

藤井氏らの論文「組織的なアジャイル開発活用の施策とその推進役の育成─コニカミノルタの施策に基づいて考える─」では,まず,日本ではアジャイル開発の活用に対するさまざまな障害の克服に組織的な取り組みが必要なことの理解が不十分であったことを述べた上で,そのような組織的なアジャイル開発活用の取り組みを行う施策の6つの適用領域を提案し,実際にそれらの領域をカバーしている企業の事例を示している.次に,事例に基づいてアジャイル開発活用推進のロードマップを提案し,それを推進する上でのアジャイル開発推進役が備えるべきコンピテンシー,専門的な知識やスキルを明らかにしている.著者らは,これらの分析を基に,アジャイル開発推進役育成のためのエンタープライズアジャイル勉強会を運営しており,その取り組みも紹介している.

佐藤氏らの論文「アジャイル開発によるMaaSの実現」では,大きな転換期を迎えている自動車産業に求められるMaaSの開発にアジャイル開発(スクラム)を導入し,内製により現場に適した改善を繰り返しつつ有効なサービス開発に成功した取り組みについて詳しく説明している.特に,スクラムの考え方や価値観を組織に浸透させるための定期的なイベント実施や,開発を効率的に進めるための拠点とプロジェクトごとの専用開発ルームの設置,開発・運用フェーズごとに柔軟な対応が必要となるインフラストラクチャ構築でのクラウドサービスの活用とマネージドサービスの積極的利用など,さまざまな工夫が述べられている.アジャイル開発でDXを推進する好実践例といえよう.

松本氏らの論文「製造業における生産現場ユーザとAgileに共創する本当に欲しかった社内システムサービス」では,自動車製造工場のディジタル化による見える化が生産現場の抵抗により失敗するような状況において,若手から提案されて内製によるアジャイル開発に取り組んだところ,生産現場ユーザの信頼を得て作成サービスが普及していった過程を紹介している.ユーザの必要とするところから始めて期待に応えていく若手と,彼らを信じてサポートする中間マネジメント層が組織の変革を担っている.

松村氏らの論文「大規模レガシーシステムのモダナイゼーション手法─ウォーターフォールとアジャイルを融合した独自"ハイブリッドアジァイル"手法の確立─」では,大規模な基幹業務システムの再構築を,ウォーターフォールのノウハウにアジャイルの考え方と手法を取り入れたハイブリッド・アプローチにより成功に導いた事例を詳しく説明している.まず,現行ソースコード等からの仕様再定義を基本設計の前段で実施する“N字モデル”として開発プロセスをカスタマイズし,現新コンベア方式によるプログラム検証をアジャイル開発の考え方を取り入れて3スプリントの反復型で行い,協調・自律・助け合いを基本とする和の改善マネジメントにより大規模チームのプロジェクトを円滑に推進している.QCD,顧客満足度,従業員満足度のいずれも高評価であったとのことであり,その後,このアプローチの一般化が進められているという.

成迫氏の論文「デジタル・トランスフォーメーション(DX)推進のための人材,組織,プロジェクト体制~伝統的日本企業における組織文化と人材の育成~」では,DX推進には現在からの延長線上ではない新たな取り組み方法が必要であり,それはディジタルネイティブ企業をレファレンスモデルとすることが近道であると論ずる.その行動様式と技術は,デザイン思考とサービスデザインによりゼロからイチを創ること,クラウドサービスとオープンソースソフトウェアの徹底活用により早く,安くつくること,内製によるアジャイル開発によりつくりながら考え,顧客とともにつくること,の3点であるという.そして,伝統的日本企業の中で新組織を設置し,視野を広く柔軟に持つとともに情熱を有する人材を確保し,アジャイル開発プロセスによりこれらを実践した経験が語られる.この経験から,DXのスコープの明確化,DX組織と既存組織・体制との協調,魅力あるプロジェクトとパッションを持つメンバを,DX推進で考慮すべきと締めくくっている.

田中(貴)氏らの論文「モールを用いたプログラミングによるアジャイルマインドの学習プログラム─体験を通したアジャイル開発の実践的理解─」では,アジャイル開発のマインドセット(重視すべき考え方)を正しく理解した上で導入することが必要であるという課題認識から開発した,マインドセットの習得を短期間で行う学習プログラムについて紹介している.手芸モールを活用した同プログラムの適用評価の結果,受講者が高い関心と意欲を持って参加し,受講前に理解していたアジャイル開発に過度の期待や誤認識があったことを体験を通して理解したこと,多くが実務に活用できると考えていること,アジャイル開発の適用範囲について深い理解を得たと考えられること,等の効果が得られたという.

また,本特集に関連して,日本電信電話(株)の秦泉寺久美氏,上智大学の高岡詠子教授,たつき総合法律事務所の平岡敦弁護士に筆者らを交えて,「アジャイル開発の理解を深めつつ契約の仕組みとモデルを整える」をテーマとする座談会を行った.アジャイル開発が普及しない原因の1つとして,よく契約にかかわる問題が挙げられるが,アジャイル開発の契約にかかわる社内制度の整備の実践や,アジャイル開発のモデル契約書の作成等についての取り組みが紹介され,興味深い.

最後に,本特集の実現にかかわられたすべての方々に深く感謝する.本特集の内容がアジャイル開発に関心を持つ方々にとって何らかのヒントとなることを願うとともに,アジャイル開発の普及が拡大し,Society 5.0の実現を目指したDXがより一層推進されることを期待したい.

参考文献
山下博之(正会員)h-yama@ipa.go.jp

1981年京都大学大学院修士課程(情報工学)修了.同年,日本電信電話公社(現NTT)入社.2003年に(株)NTTデータに転籍.2004~2008年,JSTに出向.2009年に(株)NTTデータアイ入社,同時にIPAに出向.ソフトウェアエンジニアリングやモデル契約関連の業務に従事.2003~2008年,科学技術振興調整費プログラムオフィサー.2010~2014年,本会電子化知的財産・社会基盤研究会主査.2007~2015年,情報規格調査会SC6専門委員会委員長.IEEE,本会各会員.

藤瀬哲朗(正会員)fujise@mri.co.jp

(株)三菱総合研究所原子力安全事業本部 兼 科学・安全事業本部.電気通信大学大学院修士課程修了後,三菱総合研究所入社,現在に至る((財)新世代コンピュータ技術開発機構研究所主席研究員,慶應義塾大学SFC研究所訪問所員,同大学SDM研究所研究員,(独)情報処理推進機構ソフトウェア・エンジニアリング・センター主査).高性能計算にかかわる研究,ソフトウェア工学および高信頼性システムの調査研究,研究開発事業マネジメント業務に従事.