本稿の目的は,概要にも記したように,筆者自身の現場での実体験を通して,国際標準化活動に必要な戦略要件(Dos and Don’ts)を示すことにある.
議論の道筋を明確にするために,まず,筆者自身の実体験および筆者が見聞した事例から経験的に導き出されたある適度抽象化された戦略要件をまとめて掲げ,その上で,個別事案における適応戦略および局地的な戦術を可能な限り具体的に(生々しく)述べる.具体例としては,近ごろ終了した文字情報基盤整備事業の国際標準化関連部分の経緯を取り上げる.
国際標準化活動の方法論を対象とした学術研究分野としては,国際関係論もしくは技術社会学的なアプローチが可能かと思われるが,筆者の管見が及ぶ範囲では,現時点ではこのようなアプローチで国際標準化活動を論じた例は見当たらない.この論考では,今後の学術研究に資すことを期待するとともに,現在,さまざまな領域で国際標準化活動に携わっておられる方々の日々の戦略と戦術に資することを期して,具体的な体験事例を提示するという戦術をとる.
具体的な事例としては,主に,(独)情報処理推進機構が経済産業省および内閣府との密な連携の下に推進してきた文字情報基盤整備事業の,特に国際標準化にかかわる活動を取り上げる.この事業は,戸籍,住民基本台帳を初めとする人名にかかわる行政文書の電子文書化,相互運用性の促進を企図した国家プロジェクトである.詳細については,文献[3]に掲げた該当事業のWebページをご参照いただきたい.
なお,本稿には国際標準化活動,特に符号化文字集合規格に関連する多くの用語(jargon)が頻出する.本稿の論旨には直接影響がないと判断し,あえて詳述しない.関心をお持ちの諸兄は,別途特集全体のグロッサリに掲げるURLをご参照いただきたい.
W3CにおいてXMLが策定された際,ワールドワイドなゼロックスグループを代表してワーキンググループの活動に参加し,その後,ISO/IEC JTC1の場で,LERAXおよびLERAX NGの標準化を主導し,さらに,IDPFにおけるEPUB3.0策定に際して,その国際化関連機能(日本語の縦組みおよびルビ機能を含む)をとりまとめた村田真は,EPUB3.0策定の経験を記した文献[1]の中で,戦略を下記のようにまとめている.
村田真のDos and Don’tsは,EPUBという国際的な電子書籍フォーマットで,日本語の縦組みおよびルビの機能を実現するために村田がとった戦略をまとめたものではあるが,国際標準化活動に携わってきたものから見れば,至極納得できる,ある種の普遍性を持っている.
筆者の言葉で,少し抽象度を高めて書き直してみよう.
このように抽象化してみると,戦略的行動の中心に,個人としての国際標準化専門家とでも呼ぶべき,一群の専門家集団が存在することが浮かび上がってくる.国際標準化活動における戦略とは,煎じ詰めれば,国際標準化専門家のコミュニティの中での合意形成を達成する戦略,と言い替えることができよう.
以下は,ヒューレット・パッカード社にあって情報システムの日本語化および日本語技術標準を日本人技術者の第一世代として主導し,後に財団法人国際情報化協力センター(CICC)の場で,特に東南アジアの情報技術標準化に多大な貢献をした佐藤孝幸から筆者が折に触れて聞かされた,マカロニウェスタンの名作『怒りの荒野』で語られているものだ[2].
佐藤は,これらの十戒を冗談めかして語っていたが,今,読み返してみても,一つひとつの“Dos and Don’ts”に,佐藤の実体験が伴っていたことが,実感できる.筆者自身,さまざまな経験を経てきた今,ああ,この条項には,あの体験が対応するな,という自分自身の体験が,いくつも思い浮かぶ.それぞれの個別体験については後述することとし,ここでは,このガンマン十戒を,国際標準化活動の現場で適応できる汎用的戦術の形に,書き直してみよう.
文字情報基盤整備事業[3]は,平成22年度電子経済産業省推進費(文字情報基盤構築に関する研究開発事業) によりスタートした,行政で用いられる人名漢字等約6万文字の漢字を整備するプロジェクトである.この事業の一環として,対象となる約6万文字の漢字のすべてを,UCS(IOS_IEC 10646 Universal Multi-Octet Coded Set)すなわちISO/IEC 10646という公的国際標準に対応付ける作業が行われた.具体的には,国際標準の規準に則った対応付けができない漢字については,新たに国際規格化提案を行い,複数が単一のUCS符号位置に対応する漢字については,IVS(Ideographic Variation Sequence)を用いることで弁別可能となるようIVD(Ideographic Variation Database)への登録作業を行った.
この事業の国際標準化にかかわる活動は,2018年度でおおむね収束した.
UCSすなわち,ISO/IEC 10646には,現時点で10万文字以上の文字に固有の名前と符号位置が与えられている.そのうち,CJK統合漢字すなわち東アジアの漢字文化圏で用いられる漢字を整理統合して符号化した部分には,すでに7万字以上の漢字が符号化されている.ISO/IEC JTC 1/SC 2/WG 2およびIRG(Ideographic Rapporteru Group)は,新たな国際符号化提案の折には,典拠となる文献資料を提出することを求めている.一般的には,広く用いられ,信頼性も高い辞字典類や古典籍などが典拠資料として示されることが多い.
しかし,日本のみならず,行政用途で実際に用いられる人名用漢字には,そのような典拠が存在せず,一般的な読み方や意味も不明で,情報実務で用いられている,もしくは,用いる必要がある,という理由だけで,国際提案される場合が多々ある.実際,現今の行政システムの国際的相互運用性を勘案すると,UCSに対応する符号位置を持たない文字は,実務運用上用いることができない.
このような問題は,東アジア漢字圏の各国,各地域では,以前から問題になっており,UCSの国際的な安定性と信頼性の担保と各国,各地域での差し迫った必要性の間で,かなり深刻な相克状況が顕在化していた(※たとえば,マカオの外国人登録システムにおける台湾出身者の人名表記など).
こうした中で,日本は,従来,国際的な安定性と信頼性の担保を優先する立場をとり,典拠情報の提出に関しては,保守的な立場をとってきた.
ところが,文字情報基盤事業で国際標準化を必要とされた文字の中に,辞書などの典拠資料を示すことが事実上不可能なものが,少なからず存在していた.
【戦略】従来の手続きでは解決できない課題について,手続きそのものを変更する
【戦略】日本のみの必要性を強調せず,他のステークホルダの要件にも応えるソリューションを提案する
【戦術】それぞれの立場を越えた専門家コミュニティの一体感に訴える
文字情報基盤事業で必要とされる漢字の国際符号化提案にあたって,日本は従来の立場と矛盾する提案をせざるを得ない立場に追い込まれた.
ここで,日本がとった戦略と戦術は,おおむね下記のようにまとめられる.
この戦略レベルの方針と戦術レベルの作戦は,必ずしも独立したものではなく,相互に深く関係している.
戦術レベルで他のステークホルダの,この符号化が通らないと日本の(国際情報化活動の)仲間たちが困るだろうという同情を誘った上で,戦術レベルで他のステークホルダが同意しやすい原則論での提案を行う,というものだった.
具体的には,以下のような戦術と戦略を用いた.
拡張Fの具体的な提案が行われたのは,2012年11月12日から16日まで,ベトナムのハノイで開催された第39回IRG会議の場だった.
この場に,文字情報基盤プロジェクトの実質的なリーダだった(独)情報処理推進機構の田代秀一(後に,JSC 2のメンバとなり,SC 2の国際議長にも就任)が出席し,日本における電子政府状況についてのプレゼンテーションを行った.この時点で,田代は,IRGに対応する日本代表団の一員ではなく,あくまでも(広い意味での)日本の行政府の役人という立場をとってもらった.先に述べた戦術の一環である.IRGという国際的ではあるが非常に友好的で一体感のある専門家集団に対する,日本の行政府からの要請という形をとったわけである.このときの,田代のプレゼンテーション資料は,IRGのWebページから参照できる(IRGN1904).
同時に,日本からは,PnPにおける典拠資料に,公的機関または信頼できる学術団体が安定的に運営しているオンラインデータベースを含める,という提案が出された.(N2012)
この提案は,先の戦略に符合する.さらに,この文書には,冒頭に,
‘With encouragement by ROK, Japan proposes to revise the definition of "evidence".’
という一文が掲げられている.
この時点で,韓国は,国家的プロジェクトとして進められていた広範なディジタルアーカイブ事業に必要とされる漢字を大量に提案しており,このディジタルアーカイブで用いられた漢字字形と,その原典資料の手書きや木版による漢字字形との対応関係について,他の専門家からの多くの疑義に晒されていた.
日本の提案の原則が採択されれば,韓国提案の漢字群についても,ディジタルアーカイブとその原典資料との関係にまでは遡及せず,ディジタルアーカイブそのものを典拠資料として認めることが可能となる.
この一文は,戦術レベルでの小さな仕掛けではあるが,他のコミュニティを引き込み,要求を普遍化するという意味で,冒頭に掲げた村田の戦略原則に見事に呼応するものとなっている.
田代の切実感の伴ったプレゼンテーションと,日本の利害のみに拘泥しない原則論的な提案とが相俟って,拡張Fへの日本提案は,大過なく受け入れられた.
拡張F提案とともに,文字情報基盤事業にとってのもう1つの難題は,UCSにおいては統合規則のために単一の符号位置に統合される漢字字形同士の実用システム的な弁別要請に対して,どのように対応するか,というものだった.
UCSは,1993年に最初の規格が発行されて以来,文化的学術的伝統を踏まえた上で,複数の字体(glyph)を各国合意のもとに,適宜単一の符号位置に対応させるという作業を行ってきた.卑近な例を挙げると,一点之繞と二点之繞は同一視する,3画と4画の草冠は同一視する,など.
しかし,日本の行政現場では,まさに,その一点之繞と二点之繞や3画と4画の草冠を区別して取り扱いたい,という要請が強く存在する.事は,人名というある意味で個人や家族の人格的尊厳にかかわる問題であり,国際規格の原則を一方的に押しつけることに対しては,時に感情的情緒的な強い反発が伴う.とはいえ,国際規格の側からすると,日本の国内事情のために,国際的な相互運用性を毀損することは,これまた論外であった.この国際標準化に準拠する,という局面では,UCSに対応する日本の組織であるJSC 2は,国際的な原則論の立場をとらざるを得ないこととなる.
文字情報基盤事業の推進母体は,IPAと内閣府,経済産業省であったが,文字情報基盤事業側では,国際規格との整合性を担保した上での,何らかの解決策の提示が必須のことであった.
筆者は,一方では文字情報基盤事業にもIPAの専門委員として深くかかわっており,他方JSC 2にも一委員として長くかかわっていたために,立ち位置の取り方に難渋した記憶がある.
筆者個人としては,国際標準化活動に長くかかわってきた経験から,IVS/IVDを採用する以外の選択肢はないであろう,という確信を一貫して持っていた.先の村田の戦略原則に即して述べれば,専門家としての確信があれば,日本的な合意形成に拘泥する必要はない,ということになろうか.
しかし,文字情報基盤事業は,ある意味で日本の電子行政の将来を左右する国家プロジェクトであり,さらに,人名という非常にデリケートな問題にもかかわっているため,日本的な合意形成のプロセスを経ておくこともまた必須のことであった.
本稿の国際標準化活動における戦略と戦術という観点からは,論点を以下のように整理することができよう.
筆者個人としては,永年符号化文字集合の国際標準化活動にかかわってきた経験を踏まえ,戦略レベルで,IVS/IVD採用以外の選択肢は考えられない.
国際標準化の場でも,戦略レベルでの,この選択への阻害要因は見当たらない.
では,国内的合意形成をどのような戦略と戦術で達成するか.
【戦略】共通のソリューションが適応できる他コミュニティと協働する
【戦略】国内的合意に拘泥せず,最適なパスで提案を行う
実は,筆者は,VS(Variation Selector)というメカニズムの提案者(original proposer)の1人である.故樋浦秀樹(Sun Microsystems),Murray Sargent(Microsoft)らとともに,単一符号位置のglyph識別方式として,VSというメカニズムをUTCに提案し, UCSにおいても,つとに1997年当時から規格化されている.
委細は,拙著『ユニコード戦記』に譲るが,正直なところ,この当時,筆者が国際標準化活動における戦略と戦術について,明確に意識していたとは言い難い.
事後的に,経緯のみを簡単にまとめると,以下のような流れとなる.
この経緯を,現時点での,戦略と戦術という観点から振り返ると,有用な点を複数見いだすことができる.
1つは,樋浦と筆者が考案したメカニズムが,Murray Sargentが抱えていた学術記号の懸案にも適用できた点である.先の村田の戦略原則に1つに符合する.
もう1つは,この提案が,日本からのJTC 1へという経路でなされたのではなく,複数の企業からのUTCへの提案という経路でなされたという点である.この時点で,筆者は明確には意識していなかったが,JTC 1における日本(ナショナルボディ)の立場と,個別企業(この場合は,JustSystems)の立場が同じであるとは限らない.JTC 1/SC 2に対応する日本のナショナルボディである本会情報規格調査会SC 2専門委員会を構成する委員各人の立場は,その派遣母体である企業ごとに異なり,特に,従来のメインフレームべンダや大規模なシステムインテグレータは,JustSystemsのような新興の独立系ソフトウェアベンダや地球規模のITべンダとは,個別の利害では相反する局面が多々あった.
筆者らは,JSC 2を経由しないことにより,日本的合意形成の手順を踏むことなくVSの国際標準化には成功したが,そのCJK統合漢字への適用は,佐藤の老練な手立てによって阻止されたといえよう.佐藤の判断は,事後的にはおそらく正しかったものと思われる.この時点で国際標準となっていたVSメカニズムが,後の文字情報基盤事業と国際規格との整合性をとるための欠くことのできない鍵となる.
文字情報基盤事業にかかわる国際標準化活動の中で,頭痛の種の1つであったUCSにおいては統合される複数の漢字字形の弁別方法としてIVS/IVDを採用する,という腹案に筆者が至るには,もう1つ前史がある.
前節で, VSメカニズムは,国際規格としては成立したが,CJK統合漢字への適用が見送られたことは,先に述べた.
当初のVS提案から10年近くたった2003年になって,AppleとAdobeからUTCに対して,さまざまな局面で存在する同一符号位置複数字形の問題解決策として,VSメカニズムをPUA(私用符号位置領域)に適応する,という提案がなされた.これに対し,樋浦および筆者は,激しく反対の声を上げ,Apple,Adobe,Sun Microsystems,JustSystems等のメンバで,この問題を解決するためのアドホックグループが発足した.
議論の委細は,『ユニコード戦記』に譲るが,最終的には,IVDという登録方式のデータベースを立ち上げ,必要とされる字形を弁別するための基底文字とVSとの組合せ(IVS, Ideographic Variation Sequence)を個々のユーザグループごとにこのデータベースに登録し,ユーザグループ間でのIVSの衝突を回避する,という方式に落ち着き,UTS#37(Unicode Technical Standard#37)として公表された.
このUTS#37とUCSとの整合性をとることに対しては,規格論的な観点(特に規格本体と参照する外部規格との整合性)から,日本は強い反対の立場をとった.
最終的には,IVDに登録された個々のIVSコレクションを,具体的に参照可能な形でUCSにも明記することで,妥協が成立し,IVDのメカニズムもUCSの規格本体(ノーマティブパート)と同等な扱いとなった.
IVDに対しては,早速,AdobeからAJ 1対応のグリフセットが登録された.
【戦術】国際的に自分の意に沿った動きが見通せる場合,国内的には静観を決め込む
文字情報基盤整備事業には,その前身とでも言うべきプロジェクトがあった.経産省が主管した調査プロジェクトで,汎用電子情報交換環境整備プログラムと呼ばれるものである.このプロジェクトについては,筆者は,その立ち上げ以前の段階で若干かかわったものの,プロジェクト自体には,その最終段階での国際標準化活動にかかわる活動以外には,かかわっていない.この経緯についても,委細は,『ユニコード戦記』をご参照いただきたい.
このプロジェクトにおいても,文字情報基盤整備事業と同様,UCSへの独立した符号位置の追加提案が行われたとともに,単一符号位置複数字形問題への対応も検討された.先に述べたように,IVS/IVDに対しては,日本国内には,UTC主導で行われたというその制定過程への反発も含めて,否定的な立場をとる専門家が多数を占めていた.
こうした状況の中で,最終的には,汎用電子情報交換環境整備プログラムにおいても,IVS/IVDの技術的,手続き的メカニズムを用いて,問題解決を図る方向に舵が切られた.
このような状況の中で,筆者は,かなり微妙な立ち位置にあった.
先にも述べたように,国際標準化活動の積極的参加者(active participant)は,所属する国や企業の利害を超えて,個人的な信念に基づくアジェンダにしたがって行動する場合が多々ある.EPUB3の策定過程における村田の行動も,その例に漏れない.
筆者もまた,汎用電子情報交換環境整備プログラムのみならず,東アジア漢字圏のさまざまな局面で顕在化する単一符号位置複数グリフ問題の解決には,IVS/IVDの適用以外の選択肢は事実上あり得ないという確信を抱いていた.
しかし,筆者はVSの提案者の1人であり,UTCにおけるIVD提案の策定に,ユニコードの会員企業の一員として主体的にかかわったという背景があった.その過程で筆者が背負ってきたアジェンダと,汎用電子情報交換環境整備プログラムにかかわってきた多くの専門家がその出身母体(多くは,日本の汎用機メーカ)から担わされたアジェンダとの間には,大きな違いがあった.汎用電子情報交換環境整備プログラムの議論の場で,筆者がIVS/IVDを積極的に推すということは,他の専門家からすると,日本の多くのメンバとは利益相反する立場の主張ととられる可能性が大きかった.またこの時点で,筆者は,SC 2の国際議長に就任しており,中立性を守る必要もあった.
このような背景があった故に,筆者としては,汎用電子情報交換環境整備プログラムの議論の場でIVS/IVDを積極的に推す発言は差し控えるという戦術をとった.
筆者がとった戦術は,自分自身としては積極的には動かず,いわば外圧を利用する,というものであった.
この当時の,IVS/IVDを巡る状況を概観する.
筆者の言う外圧とは,この3番目のビュレットのUTCの立場のことである.
ここでも,さらに背景状況の説明が必要であろう.
いわば,
「ここのところ,日本とUS/UTCの関係は友好的になってきているよね.そのUS/UTCがIVS/IVDを推奨しているよね.日本にとってIVS/IVDを適用することによる不利益ってある?」
という状況が整いつつあった.
最終的には,以前はIVS/IVDも含め,反US/UTCの急先鋒だった当時のJSC 2委員長の鶴の一声で,汎用電子情報交換環境整備プログラムにおけるIVS/IVDの適用(具体的には,IVDへの登録)が決定した.
【戦略】事業としての継承性があったとしても,必要なら過去のプロジェクトの成果を捨て去る勇気を持つ
独立した項目として本項を立てたが,実は,文字情報基盤事業においては,IVS/IVDアーキテクチャを用いることは,ある意味で既定方針となっていた.文字情報基盤事業は,基本的に汎用電子情報交換環境整備プログラムの後継事業と位置づけられていた.そのためもあり,国際標準との整合性をとる活動についても,汎用電子情報交換環境整備プログラムを踏襲することが,既定方針となっていた.
しかし,戦略上の問題は,いささか異なる所にあった.調査研究プロジェクトと実務適用を前提とした開発プロジェクトとの相違.
汎用電子情報交換環境整備プログラムは,国立国語研究所,情報処理学会,日本規格協会の3団体が共同で,経済産業省から受託した事業であった.プロジェクト名には《環境整備》という文言が入っているが,実際には,それまで戸籍関連業務を統括する法務省,住民基本台帳関連業務を統括する総務省,常用漢字関連の審議を統括する文部科学省,符号化文字集合関連の工業規格を統括する経済産業省などの省庁と,これらに関連した個別実務を行う地方自治体の関連部署が,それぞれ独立に進めており,他の省庁や地方自治体の他部門からは,はなはだ見通しの悪い状況に置かれていた人名関連文字電子化の実態を,統合的に掌握することが,大きな目標であった.いささかうがった見方ではあるが,ここでいう《環境整備》とは,システム環境の整備以前の議論のための素材を提供するための素材環境の整備といった意味合いと捉えることができよう.
そのため,この汎用電子情報交換環境整備プログラムの成果物には,全体としての見通しを良くするために,戸籍統一文字と住基ネット統一文字との関連などに,些末な矛盾を捨象した個所が散見される.
また,汎用電子情報交換環境整備プログラムでは,視覚的な成果物の作成,国際標準化活動への提案などのために,欠くことのできないフォント素材として,それまで主として符号化文字集合関連の日本工業規格で用いられていた平成明朝体が用いられた.そのため,成果物全体の議論が,平成明朝体デザインの設計方針の呪縛を受けることとなった.
一方,文字情報基盤整備事業では,平成明朝体にまとわりつく知的所有権関連の議論を避けるため,新たな明朝体(MJ明朝体)を開発する方針が採られた.
本稿の範疇を超えるので,議論の委細は省略するが,文字の字体を弁別する粒度(筆者は,この粒度を字体弁別粒度と仮称している)は,状況依存性が高く,その使用目的や使用者集団によって異なる場合が多々ある.平成明朝体とMJ明朝体の間にも,それぞれの字体弁別粒度が異なると考えざるを得ないところが散見される.
UCSではその統合規則によって同一の符号位置に対応付けられる複数のMJ明朝漢字をIVD登録する際,すでにIVD登録されていた平成明朝体のコレクションとの関連をどう扱うかが,大きな議論となった.
文字情報基盤事業は,事業の委託者側から見れば,汎用電子情報交換環境整備プログラムの後継事業として位置づけられる.この観点からは,IVD登録も含め,汎用電子情報交換環境整備プログラムの成果物は,最大限活用したい.しかし,実際には,小さな矛盾点が散見される.
この問題は,いわば,国内問題であり,国際標準化活動との直接的な連関はない.村田真的な戦略方針からすると,捨象されてしかるべき論点である.
しかし,実は,類似した議論は,国際標準化活動の現場でも,しばしば,遭遇する.
すなわち,ある既存規格とその後継規格の関連性をどう扱うか.
この問題は,小さなレベルでは,規格改訂の際にも常に起こる.
標準規格は,たとえそれが制定時には時代の最先端技術を反映していたとしても,いったん制定されてしまうと,技術革新に対しては,抑止的に作用する.そのために,一定期間を経た後の改訂は避けられない.その際,どの部分で後方互換性を維持し,どの部分で新規性を優先するか,常に頭の痛い問題となる.
残念ながら,この問題に対する戦略的一般解は存在しない.
むしろ,この問題こそ,国際標準規格のみならず,工業製品全般における一般的なマーケティング手法/意識が適応されるべきであろう.すなわち,国際標準規格にも,ユーザが存在し,そのユーザに受け入れられることが,その規格の最終的な存続意義となる.
汎用電子情報交換環境整備プログラムの成果は,ユーザによる受容という点では,やはり問題が残っていた.調査研究プロジェクトとしての整合性を確保するための整理統合そのものが,行政実務者の側からすると過去のデータとの相互運用性を毀損するものと捉えられた.文字情報基盤事業では,汎用電子情報交換環境整備プログラムでいったん行った整理統合を元に戻すという作業を強いられた.
この結果,汎用電子情報交換環境整備プログラムでIVDに登録した情報と,文字情報基盤事業として準備した情報の間に,さまざまな矛盾と齟齬が生じることとなった.
このような経緯で,日本からは,互換性のない2組のコレクションがIVDに登録される結果となった.
自省を込めてまとめると,汎用電子情報交換環境整備プログラムと文字情報基盤整備事業との間には,IVD登録という局面に限っては,戦略的な意味での統合性と継承性に大きな問題があった.その責任の一端は,筆者にある.汎用電子情報交換環境整備プログラムと文字情報基盤整備事業との時期的な相違による筆者の立場の変化(SC 2議長の時期とIPA専門委員としての関与の時期)に起因するところが大きい.
文字情報基盤整備事業の主たる目標は,戸籍関連業務や住民基本台帳関連業務など,行政実務の現場で日々起こっている人名の標記に関する混乱やトラブルの回避に資するために,現在,現場で用いられている人名表記のための字体(字形ではなく)を過不足なく整理し,国際標準(ISO/IEC 10646)と整合させることにあった.
この目標は,おおむねCJK統合漢字拡張Fの標準化とIVD Moji-Jouho collectionの登録によって達成された.しかし,戸籍関連業務の電子化に際しては,もう1つやっかいな難題が残されていた.いわば,喉仏に刺さった小骨.それが,変体仮名の扱いだった.
変体仮名は,文部省が1900年に初等教育のための五十音表を定める以前に使われていたさまざまな漢字の草書体から音のみを借りてきたもの全般を指すと考えればよいだろう.
変体仮名の人名への使用は,1947年の戸籍法の制定によって「常用平易な文字を用いなければならない」(戸籍法第50条)とされ,さらに戸籍法施行規則第60条で常用漢字,別表第二に掲げる字とともに,「片仮名又は平仮名(変体仮名を除く)」として,明確に禁止されている.
しかし,1947年以前に出生した人(特に女性)については,しばしば戸籍上の名の表記に変体仮名が用いられており,さらに,2010年に戸籍謄本の保存期間が戸籍に記載されている全員が除籍されてから,従来80年だったものが150年に延長されたため,おおざっぱに見積もっても,2200年ごろまでは保存しなければならない変体仮名を含む戸籍謄本が残ることになる.
文字情報基盤整備事業において,具体的な漢字表記と標準化実務を担当する作業部会の主査を務めた高田智和(国立国語研究所)も,事業半ばまでは変体仮名の標準化に手を染めることを逡巡していたが,事業終盤に至り,いわば肚を括って,変体仮名標準化の方向に舵を切ることとなった.
以下は,その後の,高田と筆者によるある種呉越同舟の共同作業における,戦略と戦術である.
【戦略】共通のソリューションが適用できる他コミュニティと協働する
2.2節において,以下のような戦略原則を述べた
しかし,東アジア圏に広くニーズが存在する漢字や,台湾で用いられるボポモフォとよばれる表音注記文字との類似性があるルビ(村田は,EPUB3策定にあたり,積極的に台湾との戦略的連携策を採った)とは異なり,変体仮名の場合は,ニーズは日本国内(もしくは,日本語の表記)にしか存在しない.
高田は,その本務組織から推測できるように,本来の専門は日本語学(それも源氏物語の異本研究)である.そのため,日常的に変体仮名を含む文書に接しており,学術分野における変体仮名標準化の必要性を,ある程度認識していた.以下は,筆者の推測ではあるが,高田には,行政分野における変体仮名の標準化活動に乗じて,学術分野における変体仮名の標準化も実現しようという目論見があったように思われる.
行政分野における変体仮名の標準化のみがゴールであった筆者にとっても,高田の目論見は,賛同に値する戦略的意味があった.
筆者には, ISO/IEC JTC 1/SC 2およびUnicode Technical Committeeにおける永年の標準化活動から,たとえそれがある特定の国や地域,言語コミュニティにかかわる提案であっても,単一の提案者や少数のグループからの提案は,標準化の過程で思わぬ反対者からの攻撃に晒されるリスクが大きいという経験則があった.
高田の腹案は,筆者にとっても,いわば渡りに船で,学術分野からの要求と行政分野からの要求をぶつけ合わせることにより,相互に相対化するという効果が期待できた.
【戦略】専門家集団による事前の要件調査を周到に行う
まず高田が試みたのは,具体的にどのような学術分野で変体仮名を国際符号化文字集合の中で標準化する必要があるかを探るヒアリング調査だった.
調査の結果を先取りして述べると,書道にかかわる現場や出版事業では,変体仮名を扱うことは必須のことではあるが,その変体仮名を文字符号として標準化する必要性はまったく認められなかった.必要なのは,イメージとしての変体仮名の字形表記(グリフイメージ)であり,符号化可能な字体(グリフ)ではないことが判明した.
高田は,実際に変体仮名を扱う印刷会社(精興社印刷,中西印刷),その発注元(東京大学史料編纂所),表記史の研究者(矢田勉),印刷史の研究者(小宮山博史)などを歴訪し,実需の掘り起こしを行った.
結果的には,変体仮名を標準化することを必要とする学術分野が多く存在するわけではなかった.しかし,
「歴史的文書の電子化」「日本語学(特に表記史)」の2分野には,確実にそのニーズが存在することが明確になった.
国際標準化提案文書を起案するにあたって必須の項目の1つが,rationaleと呼ばれる標準化を必要とする理由を説明するセクションである.
高田が,まず,実需の掘り起こしを行ったことにより,確信を持って提案文書のrationaleを起草することが可能となった.
【戦略】標準化団体への具体的な提案以前に,専門家集団内での合意形成と評価を確立しておく
高田の次のアクションは,学術分野として必要十分な変体仮名のレパートリを選定するための,日本語学専門家によるチームビルディングだった.
この専門家によるチームビルディングは,国際標準化活動一般においても,非常に重要な戦略的位置づけを持っている.
国際標準化の専門家集団は,村田の戦略的Dos and Don’tsからも読みとれるように,標準化のプロセスについての高度な知識を持った専門家(procedure expert)とそれぞれの分野(たとえば符号化文字集合)の技術についての高度な知識を持った専門家(contents expert)に大別できる.もちろん,両者を兼ね備えた専門家も少数だが存在する.
SC2およびUTCにおける頭の痛い問題は,このcontents expertが,個々のスクリプト(今回の場合は,変体仮名)について,十全の知識を持ち合わせていない,というところにある.やっかいなことに,多くのcontents expertは,変体仮名についての日本語学的知識は持ち合わせていないにしても,言語学一般,それも,ソシュール的な音声言語主体の言語学については高度な知識を持っており,言語学や言語哲学で学位を持っている専門家すら複数存在する.
変体仮名の提案にあたっては(他の専門性の高いスクリプトについても同様だが),これらの専門家を納得させるだけの専門的な検討が必須のこととなる.
変体仮名については具体的な知識は持たないが,言語学一般については高度な知識を持つ専門家を納得させる,という困難な課題に挑む戦略の1つが,変体仮名の専門家による専門的な検討を経た上での提案である,ということを示すことにある.
その意味で,高田のチームビルディングは,日本語学研究者の中から,複数の分野にまたがり,研究者として,実力も人望もある気鋭の専門家を糾合する見事なものだった.
いわば,高田の謂によると「このメンバで検討した結果を否定するには相当の勇気と覚悟が必要」なメンバ構成となっていた.
【戦略】標準化団体への具体的な提案以前に,専門ジャーナルでの発表を行い,専門家集団内での評価を可視化しておく
【戦術】標準化コミュニティの専門家が提案内容の専門的議論が順当なものであると納得できるような環境醸成に努める
このメンバによる慎重な検討の結果は,「変体仮名のこれまでとこれから 情報交換のための標準化」[4]として,『情報管理』誌に発表された.
この論文は,素人目に見ても,間然とするところのない優れたものであったが,国際情報化活動の観点からも,戦略上,非常に重要な意味があった.すなわち,専門のジャーナルに発表された論文に基づく提案である,という研究者コミュニティからのある種のお墨付きがあることを示す効果が大きかった.
ちなみに,SC 2およびUTCへの変体仮名提案にあたっては,提案文書とともに付属文書として,この論文と筆者によるつたない英訳を添えた.この英訳には,語呂合わせに類する部分で,日本語でなければ意味をなさない部分を,あえて日本語のまま残しておいた.戦術レベルの手段ではあるが,このことにより,「この程度の議論を日本語で理解できない人には,議論に加わる資格はありませんよ」というメッセージを込めたつもりである.
【戦略】提案内容の専門家の言葉を標準化コミュニティの専門家に理解可能な言葉に置き換えて伝える
高田チームによる抽象レベルでのレパートリが確定したところから,筆者の役割がスタートした.
そもそも,変体仮名の符号化が遅れた大きな理由は,漢字の草書体から音のみを借りてきた,というその出自にあった.すなわち,草書体ゆえにその字形の幅が楷書に近いところから大きく崩して原型をとどめないところまで幅広く,かつその揺れがいわばアナログ的に連続しており,典型的な字形を字体レベルとして整理することが事実上不可能なところにあった.
筆者は,高田や矢田らの専門的な議論を仄聞しながら,変体仮名の符号化は字体に拘泥せず,むしろ仮名文字が字母となる漢字の意味を捨象した表音文字であるという本質に注目し,字母+音価(phonetic value)の組に注目したモデル化を行うという方針をとった.
ところが,高田らのレパートリには,字母+音価の組に対して,固有の名前と符号位置を付与するというモデルでは解決できない,厄介な問題があった.すなわち,単一の字母+音価の組に対する,複数字形の併存.
この問題の困難さと,どこかで,この問題に真正面から対峙しなければならないという問題意識は,高田と筆者との間では,変体仮名標準化のプロジェクトを具体的に進める以前から共通の認識として存在していた.
この難題の答えは,じつは,プロジェクト初期段階で高田とともに出向いた矢田へのヒアリングにその萌芽があった.素人ながらの筆者の質問に対し,矢田がいとも軽々と「何らかの機能の違いがあるから使い分けていたのでしょうね,語頭と語尾とか,体言と用言とか」と答えたのを鮮明に記憶している.
この矢田の一言が契機となり,筆者の中で"functional difference”という言葉が徐々に醸成されていった.
4.4.5項で触れた論文にも,矢田に依頼して,同一字母同一音価の異なる字形表現について,その機能的相違についての論述を含めるように依頼した.
【戦術】提案内容の本質にかかわらない部分で,標準化コミュニティの専門家のために,提案内容に関与する余地を残しておく
【戦術】白馬の騎士は積極的に活用する
字母と音価の組に対して,固有の名前と符号位置を付与する,という方針のもとでも,具体的な符号化モデルには,少なくとも2つのアプローチが考えられた.
すなわち,それぞれの字母と音価の組に対して,UCSの独立した符号位置を付与するというアプローチと,既存の平仮名の符号位置をベースとし,VSを付加して字母の相違を表現するというアプローチ.
規格論的には,前者と後者では,実現できる範囲が異なるが,実務運用上は,どちらのアプローチでも差異はない.文字情報基盤整備事業で必要とされた漢字の符号化にあたり,IVDへの登録が併用されたことと類似している.
また,実現のためのコスト(手間)については,既存の仮名+VSというアプローチの方が低くすむ.
当初,日本からの提案は,後者の既存の仮名+VSというアプローチをとった.
さらに,SC 2に正式に提案する前に,FYIのレベルで,JSC 2の織田委員長からUTCに対してコメントを求めるレターを送付するという戦術をとった.
従来からの経験で,SC 2において,何らかの議論を仕掛けてくるとするとUTCメンバの言語学専門家に限られることが予想できた.そして,これらの(特定分野については半可通である)専門家のコメントに対して,提案者側が即答することができずに議論が紛糾することもしばしば経験していた.
そのため,SC 2での議論の紛糾を回避するために,事前にUTCからのコメントの処理を済ましておく,という戦術である.
このアプローチは,想定以上に奏功した.
日本から既存の仮名文字+ VSというモデル提案に対し,UTCから字母+音価に対して,それぞれ独立した符号位置を付与してはどうか,という,日本にとっては渡りに船の提案があった.
同時に,これも想定内のことであったが,同一字母+同一音価に対して複数の字形が掲示されている例に対する質問も含まれていた.
これらのコメントに対し,符号化モデルについては,UTCからの提案を全面的に受け入れて変更を行い(戦術レベル),同一字母同一音価複数字形の問題に対しては,専門家チームに対して,すべての組合せに対してである必要はないが,同一の資料(変体仮名辞典類を含む)に,複数の字形が併記されている例をいくつか示すことを依頼した(戦術レベル).
ここまでは,戦術レベルも含め,筆者のシナリオ通りに推移した.が,ここで,筆者の予想をはるかに超える出来事,それも嬉しい出来事が出来した.
日本からのコメント依頼文書とそれへのUTCからのコメントも含め,UTCでの議論の記録は,すべてUTCから公開されている.公開Webの更改情報も適宜UTCが運用するメーリングリストで告知される.
変体仮名に関する一連のやりとりに対し,イギリスの大学で教鞭を執る江戸文学研究者であるDr. Nicolas Tranterから,彼の専門分野である江戸文学にかかわる個所に限定した上で,肯定的かつ専門的なコメントが寄せられた.
日本にとっては,まさに神風といった塩梅ではあるが,UTCに対する戦術レベルでの戦いは,このDr. Tranterのコメントで一気に終結した.戦術レベルのDos and Don’tsに引き寄せていえば,偶然を利用するのも,戦術の1つ,とでもいえようか.
日本から変体仮名の提案を行ったSC 2総会には,変体仮名の学術的専門家として参加を求めた矢田勉が,見事なプレゼンテーションをしてくれた.このプレゼンテーションの効果と一連の戦術レベルでの事前活動が相俟,SC 2総会の場では,さしたる議論もなく,日本からの変体仮名標準化提案は,満場一致で承認された.
ガンマン十戒の謂を借りると,矢田のプレゼンテーションは,いわばとどめの一撃としての効果があったといえよう.
以上,(独)情報処理推進機構が主管して進められてきた文字情報基盤整備事業を例に,国際情報化活動の戦略と戦術についての概観を試みた.
可能な限り,戦略レベルでの意思決定/行動と戦術レベルでの意思決定/行動を切り分けるべく務めたが,記述にあたって戦略レベルと戦術レベルの切り分けに難渋した事例も少なくない.
筆者は,1993年にUnicode Technical Committeeに参加して以来,ほぼ一貫して国際標準化活動にかかわってきたが,いつのころからか,戦略レベルの意思決定と戦術レベルの意思決定を,意図的に切り分けるよう心掛けている.筆者の国際標準化活動において,なにがしかの成果を挙げることができたとすれば,この戦略レベルと戦術レベルの意思決定切り分けが,大いに寄与したと考えている.
戦略レベルと戦術レベルの切り分けを意図的に行うようになった1つの契機は,在野の天才ITアーキテクトとして一部に勇名を馳せている畏友檜山正幸から聞いたヨットレースの話だったように思う.
檜山によると,ヨットレースでは,特に戦略(ストラテジー)と戦術(タクティクス)の切り分けが勝敗を決する重要な要素になるという.設定されたその日のコースと風向きを見て,大局的にレース運びを定めるのがストラテジーであり,そのストラテジーに沿って,刻々と変わる風向きや競争艇との位置関係に応じて,舵や帆の張り具合を調整するのがタクティクスだという.
国際標準化活動の現場,特に,ミーティングの最中には,常に意思決定が迫られる.当然,戦略そのものを変更するような大きな意思決定もあれば,挽回可能な戦術レベルのミスもあり得る.時々刻々の意思決定を行うにあたり,その意思決定が戦略レベルのものなのか戦術レベルのものなのかを自分なりに切り分けるだけで,ミーティングの議論の流れがより的確に読みとれるようになる.
筆者自身およびともに国際標準化活動にかかわってきた佐藤敬幸,故樋浦秀樹,村田真らの経験が,今後国際標準化にかかわる人たちの活動の一助になることを祈念している.
謝辞 筆者と国際標準化活動の場で戦略的協業を実現できた下記の人びとに衷心からの謝意を表する.
佐藤孝幸氏─まさに我らの導師.故樋浦秀樹氏─若くして逝った国際標準化活動の同士.村田真氏─活動分野はやや異なるが,国際標準化活動の何たるかを戦略レベル,戦術レベル双方で熟知する数少ない専門家.平本健二氏と田代秀一氏─筆者を戦略的に動かし,文字情報基盤整備事業を成功に導いた.高田智和氏と矢田勉氏─変体仮名標準化を主導したコンテンツエキスパート.織田委員長を初めとするJSC 2のメンバ.日本の符号化文字集合規格を戦略的に下支えをしている専門家集団.
東京大学教養学部科学史科学哲学分科卒.(株)小学館,(株)ジャストシステム勤務を経て,現在インディペンデントのITコンサルタント.元ISO/IEC JTC 1/SC 2議長,Unicode Consortium Director,IDPF Director.現在,文字情報技術促進協議会会長,日本電子出版協会フェロー.明治大学兼任講師,長岡技術科学大学非常勤講師.
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