デジタルプラクティス Vol.9 No.2 (Apr. 2018)

AIが可能にする次世代の顧客体験
─IBM Watsonを使ったAIコミュニケーションの実現─

野崎 善教1

1ネスレ日本(株) 

第3次AIブームといわれる近年,AIを使った新しいビジネスモデルが続々と登場して,各企業を取り巻くビジネス環境が大きく変化してきている.そして,コールセンタ業界も大きな変革の時を迎えており,ネスレ日本ではIBM Watsonを使って2016年にチャットサービスを開始した.本稿では,導入事例を中心にAIがもたらすコールセンタ業界の変化を考察した.まずAIの進化がコールセンタ業界ならびにCRM活動にどのような影響をあたえているのか整理する.そして,チャットサービスの導入計画から導入後の結果を担当者の気づきを含めて詳細に紹介する.最後に,将来AIが顧客体験にどのような変化をもたらすのか予測する.

1.はじめに

イノベーション.先人のさまざまな革新によって現代社会が存在する.Kondratiev(コンドラチェフ)によれば,景気循環は50年周期で起こり,そこにはイノベーションによって世の中が変化してきたとされているが,近年のイノベーションの一つは情報技術の進化であることは容易に理解できるだろう.コールセンタ業界は人のコミュニケーションをコアバリュとしており,人が多く在籍することから労働集約的と表される.一方で,ITを多く使っており,IT化の比較的進んだ組織でもある.業界の発展はITの進化の恩恵を受けてきたが,このたびAI技術を使った大きな革命が迫ってきた.本文では導入事例にとどまらず,AIと顧客体験の現状と未来を加えて紹介する.

2.AI(自然言語処理技術)がもたらす変化

アメリカの有名なクイズ番組でIBM Watson(以下,Watson)がクイズ王に挑み,勝利を収めたのが2011年. そして近年の人工知能ブームが始まった.人工知能ブームといわれたのは近年が初めてではなく,第1次ブームは1960年代までさかのぼる.第1次ブームは推論・探索で第2次ブームは1980年代のエキスパートシステムであった.その後の黎明期を経て,今回の第3次ブームに至る.この進化においては,ニューラルネットワークを進化させたコンピュータの発達とビッグデータの存在が大きい.また,ディープラーニングの考え方は人工知能のコアパートとしてブームを生み出し,近年注目されてきた[1].

ディープラーニングを中心としたAI技術は,さまざまな分野で適応され今までにない成果を発揮している.主な適応分野としては,知識探索・俯瞰,知識発見・意思決定,コンテンツ生成,知覚・制御,そしてコミュニケーションである[2].2015年,オックスフォード大学のOsborne(オズボーン)は,AI技術によって将来多くの仕事がコンピュータに置き換わるという研究結果を発表した.筆者が従事するコンシューマーコミュニケーションの分野においても,自然言語処理技術を使って97%の確率でコミュニケータの仕事はコンピュータにとって代わるといわれている[3].

コミュニケータの仕事とは,主にお客様の問合せに答えることではあるが,近年コンタクトチャネルも変化してきており,従来からの電話に加えて,メール,チャットなどが登場してきた.AIを利用したチャットコミュニケーションはすでにいくつかの企業で始まっており,アスクル社のチャットサービスはコンシューマーコンタクトの削減に寄与していると発表されている[4].また,音声によるコミュニケーションも進化をしており,Apple社のSiriが代表的である.まさにコミュニケーションがコンピュータに置き換わるという事象が始まっているといえる.

コールセンタ関係者にとって,オズボーンの研究結果は衝撃的であったものの,一方で近年の労働力不足に伴い,コストが増えているコールセンタでのソリューションとして期待される面もある.コールセンター白書2017によると,25%の関係者がAI関連ソリューションの導入を検討しており,関心があるので情報収集中とアンケートに答えている人は54%にもなる[5].

3. コミュニケーションの変化と次世代のマーケティング

1950年代にはNeil H. Borden(ニール・ボーデン)によるマーケティングミックス,1960年代にはE. Jerome McCarthy(ジェローム・マッカーシ)の4Pフレームワークの登場など,マーケティング論は体系化され発展してきた[6]. そして90年代になり,1to1マーケティングや,CRM(Customer Relationship Management)というコンセプトに代表されるような一人ひとりにアプローチを変えたマーケティング手法が取り入れらるようになった.背景としては,バブル経済の崩壊に伴い,大量生産,大量消費の時代が終焉を迎え,マスコミュニケーション依存型からの脱却が急務となったためである.GRP(Gross Rating Point)や売上高だけではなく,Life time valueにも注目され,ある一点のパフォーマンスではなく線でのパフォーマンスを図るようになり,顧客獲得単価,リピート購買率などさまざまなKPIにて管理されるようになった[7][8].

CRMを行うには顧客データベースが重要な技術要素になるが,ITの飛躍的なパフォーマンス向上により,CRM活動も発達してきた.需要創出では従来の郵便DMに加えて,e-mailによるDM,そしてオンラインバナーも進化して個人を特定して最適な露出を行うなど,オンライン上のマス広告もパーソナライズを加速させた.また,ダイレクトコミュニケーションの中心であるコールセンタにおいても,コンタクト履歴ならびに顧客情報を連携させたソリューションも多くの企業で導入が進み,単なる質問に対する回答から顧客ごとに会話内容が変わる時代になった.

このように,技術の進化ともにCRMは加速したが,万能ではなく不得意な領域も残す.BtoCのビジネス領域において直販モデル/会員組織を持たない企業,特にFMCG(Fast Moving Consumer Goods)の企業においては顧客を特定できないため,マス広告依存型の企業は多い.またコールセンタにおけるCRMの進化はあるものの,お客様のすべての行動を理解できていないことや,コンタクト履歴に限定されるなど,情報が限定的な場合はさまざまなコンタクトポイントで統一された同じコミュニケーション,ならびにパーソナラズされたコミュニケ-ションは依然難しく限定的なCRMといえる.

しかし近年の技術の進化はさまざまな新しい取り組みを可能にした.AIは第1章に示した通りだが,AIに加えてIoTがもたらすビッグデータやスマートフォンの普及は大きな変化を起こしている.たとえば,ネスレ日本のコーヒーマシン,ネスカフェバリスタi[アイ]にはブルートゥースが搭載され,スマートフォンと連携が可能になった.ウェアラブルセンサの進化も著しく,人体の変化までをモニタできるようになった[9].ネスレ日本がペットオーナ向けにはじめたサービスでは,動物用ウェアラブルセンサ(フィットバーク)を使い,物言えない動物の健康を見えるようにしている.そして普及が進むスマートフォンに搭載されたGPS機能は人の行動データなど膨大な情報を提供している.

これらのデバイスは何を我々に提供してくれるだろうか.行動情報である.限定的であったCRMをさらに強化する顧客情報を獲得することができるようになってきたのである.この情報は,コミュニケーションにおけるパーソナライズ化を加速させる.ブランド構築において,コミュニケーションの価値が飛躍的に向上し,次世代のマーケティング活動においては重要な意味を持つことになる.

4.IBM Watsonが可能にしたコミュニケーション

4.1 導入の狙いは? ─顧客応対コストを下げ,同時に会話の質を上げる─

2016年11月,ネスレ日本はWatsonを使ったチャットサービス,ネスレチャットアシスタントサービスを開始した.さらに12月には同じWatsonのコーパスを使用し,SNSアプリ,LINEにつなげて日本初のマルチチャネル対応コミュニケーションをスタートすることになった.なぜWatsonを導入するまで至ったのか.ここで背景ならびに目的を明確にしておきたい.一般的に,消費者対応を担当する部署においては,コストの上昇を抑えていかにしてコミュニケーションの質を向上させるかという課題に日々取り組んでいるかと思う.ネスレ日本においてもこの課題を解決することが急務となってきたのである.

ネスレ日本の主力ブランドは,コーヒーのネスカフェであり,チョコレートのキットカットであるが,これらの商品はこれまで流通・小売業態に依存して販売してきた.しかし,90年代半ばからのコーヒー消費の多様化の流れへの対応が遅れ,ネスレ日本のコーヒービジネスの成長に陰りが見えてきた.そこで,従来の販売ルートに加えて2010年に自社Webページに通販窓口を開設し,直接販売モデルをスタートした.そして2013年にはさらに直販を加速させるために202020戦略を掲げ,2020年までに直販比率を20%まで押し上げる目標を立てた.

直販モデルを加速させるための主力商品・サービスは,1杯から本格コーヒーが楽しめるコーヒーマシン,ネスカフェバリスタとネスカフェドルチェグストであり,またコーヒーを定期的にお届けする定期便サービスである.加えて,オフィスでネスカフェを手軽にお楽しみいただくネスカフェアンバサダー制度である.これらの商品・サービスは順調に成長することができ,2017年8月にはネスレ会員530万人,コーヒーマシンの累積出荷台数650万台,ネスカフェアンバサダーは35万人までになった.

これらの商品・サービスの変化は,コンシューマーコンタクトチームに直接影響を与えた.お客様とのダイレクトコミュニケーションの急増である.2017年の年間コンタクト数は,10年前の約12倍である120万件まで上昇することになった.そして,2020年には300万件に上ると予測している.

図1 コンタクト数の推移

コンタクト数が年々増え続けた結果,コミュニケータの確保が難しくなると同時に,さらなる問題にも直面した.応対品質の低下である.ネスレ日本は,お客様とのコミュニケーションはブランドを作る一つの重要な要素と定義づけており,コミュニケーションスキル向上に注力してきた.長い歴史を持つお客様相談室,ならびにマシンサポートのサービスチームには,厳格な応対品質評価スキームを確立していたのである.しかしながら急速な人員追加からトレーニングが十分に行うことができず,品質の低下が見られ,このままでは不変の課題であるコストと品質の両立は難しくなると判断した.そこで,人手によるコンタクト数を削減しながらもコミュニケーションコンテンツを充実させる問題を解決するために検討・導入されたのがWatsonをつかったコミュニケーションであった.

4.2 導入までの4ステップ

2014年にWatsonの調査を開始し,2015年6月には導入が確定した.IBMのコンサルタントが参加し,Watsonをどのように活用していくのか検討するワークショップがプロジェクトの第一歩であった.その後1.5年をかけて導入までに至るプロジェクトは,図2で示す4つのステップに分割することができる.

図2 導入までのステップ
4.2.1 AI導入領域の検討

まずはどのビジネスにWatsonを活用するかを検討した.Watsonには自然言語処理だけではなく,画像認識,音声認識などさまざまなAPIがあり,いくつかのビジネス領域で適用の可能性があった.マーケティング,EC,コミュニケーションを中心に,SCM,HR,プロダクション,ファイナンス領域まで検討を繰り返した.ビジネスの現状と将来の課題,実行可能性,導入効果,などを軸にいくつかのケースを評価し,最終的に自然言語処理技術を活用したコミュニケーションチーム,特にコールセンタでの活用が決定した.

4.2.2 IT・業務設計

第2ステップとしては,Watsonと他システムとの連携の計画を立案した.特筆すべきは,会員を特定してコミュニケーションする場合に,顧客データベースやECシステムへの連携が必要になったことである.また,お客様とのコンタクト履歴を残す必要があり,既存CRMアプリケーションとの連携も構築する必要があった.加えて,ユーザインタフェースとしてWebチャットとLINEを計画したため,マルチチャネルを可能にする設計も重要であった.近年では,比較的安価な一問一答のみに対応するchatbotサービスがいくつかのソリューションベンダから提供されている.しかし,さまざまな会話のバリエーションに対応することや,マルチチャネルにてサービスを提供するには,図3のように多くのシステム連携を行う必要性があった.

図3 システム構成図
4.2.3 会話シナリオ開発 ─カバーする一問一答の特定ならびに対話型会話の設定─

ネスレのコンシューマーコミュニケーションは,主に直販ビジネスのセールス,購入後のサポート窓口,ネスカフェアンバサダーに代表される会員向け窓口がある.このステップではどのコンタクトをWatsonでカバーするのか決定する必要があった.過去のコンタクト実績を分類し,人のサポートなくWatsonのみで会話を完結させる難易度と,コンタクト数を軸に優先順位を作成した.会話のタイプには,一問一答型と連続した会話を行うダイアログ型が存在する.特に注意したのが,ダイアログ型のシナリオである.

初期リリースでは,システム連携を伴わないマシントラブルシューティングを計画した.追って顧客データベースとECシステムを連携させた定期便変更シナリオのリリースを計画した.マシントラブルシューティングでは,販売機種ごとにさまざまなトラブル原因をカバーできるシナリオ,そして定期便変更シナリオでは,商品の変更を行うシナリオが必要であったが,シナリオ作成にはコールセンタが電話での応対に使用しているトークスクリプトを参考にしてダイアログを構築していった.

4.2.4 会話精度向上トレーニング ─Watsonの回答精度ならびに会話シナリオのブラッシュアップ─

まずトレーニング前の準備について説明する.自然言語処理技術とは自然文の意図を解釈することである.言い換えると相手の発話の意味を理解することであり,ここでは想定質問文(学習データ)とそれらの意図(インテント)を設定し,学習させないといけない.そしてインテントに対応した回答文も用意する.たとえば10種類のQA(Question & Answer)を用意したい場合,学習データ30×インテント10×回答文10のセットが必要である(学習データは状況によって変化する).ダイアログ型では,前項の通りでトークスクリプトを忠実に構築する必要がある.Watsonへの初期設定が完了するとトレーニングフェーズに入る.Watsonが質問文の意図を正確に解釈するためには,何度も人によって表現を変えて質問文を入力してWatsonが正しく解釈したか(回答できたか)テストを行う.似通った意味のインテントに関しては,学習データを入れかえてもWatsonが正確に切り分けるには限界があるため,似通ったインテントを統合や削除するなどセットし直し,精度向上に時間を要した.また,ダイアログ型においても打鍵テストを繰り返し,想定通りに会話が流れていくのか確認した.それぞれの準備・トレーニングに多くの時間を要するが,その多くの作業を日々お客様と対話し会話のプロであるコミュニケータが担当した.

4.3 会話タイプの紹介

2016年11月にWeb チャットで一問一答型とマシントラブルシューティングを開始し,12月にはLINEのマシントラブルシューティングを開始した.2017年6月にはLINEでの一問一答と定期便変更をWebチャット,LINEにて開始することができた.これらの組合せは図4に示す通りである.

図4 チャットシステム構成図
*2017年7月より,NLC(Natural Language Classifier)APIならびにDialog APIはConversation APIに置き換えられた.

NLCはディープラーニング技術を使ったものであり,図4が示すようにチャットシステムの中核を担っている.ただ,一部キーワードマッチング機能を使用して会話を構成している部分もある.本システムは,ネスレに関する問合せに対応するように構成したが,簡単なあいさつなどにも対応するべきと判断し,カジュアルトークといわれる会話にも対応した.また,Watsonで答えるべきでないお問合せ(重篤な問題を抱えたお客様など)も発言があれば即座にコミュニケータへの転送を提案する.こちらでもキーワードマッチング機能にて対応している.

Conversation APIに移行後は,マルチインテント機能や文脈を理解する機能を使って,より自然な会話に近づけるように開発を続けている.このように構成を考える上で重視している点は,いかに自然な会話を構築しているかである.人間であれば柔軟に会話を調整することが可能であるが,Watsonは柔軟な対応が難しい.いかに自然な会話になるように機能を組み上げていくべきか長い時間をかけて議論し,現在も開発中である.

4.4 導入後の結果

4.4.1 正答率

チャットサービスにおいて最も重要なKPIとしては正答率が挙げられる.お客様の問い掛けに対して答えを提供できたかという指標である.回答方法に関しては,NLCの確信度によってQに対してAと答える場合と,Qに対して複数回答を提示する場合がある.正答率にはさまざまな定義はあるが,ここではAと正しく回答することができた,ならびに複数回答の中に回答が含まれている場合を正答とする.一方で学習させてないQAをどのように扱うかという問題も存在するが,ネスレでは,顧客視点を重視し準備していないものも正答率の計算に含めてトラッキングをしている.

運用開始時においては,正答率が約55%と低い数字であった.原因は下記の5つに分類される.①実際の質問文と学習データ(想定質問文)の微妙な表現の違い,②学習させていないQAが含まれる,③似通ったインテントが存在する,④QAの粒度がばらついており,範囲が大きい場合,明確な回答になっていない,⑤複数回答提示において,質問のサマリー表現が適切でなく,お客様に選択されないなどが挙げられる.導入後,各問題点に対して次項で説明するメンテナンスを繰り返すことで,2017年10月現在約80%まで改善することができた.もし,初回の回答で返答になっていない場合,「別の表現でお願いします.」と返答するが,お客様が2回目,3回目の質問で回答にたどりつくケースも存在し,最終的に回答を提供できた数字は90%を超えるまでになった.

4.4.2 メンテナンス作業

サービス開始当初低かった正答率も図5図6で示すように正答率を向上させてきた.メンテナンス手法は表1の通りである.

図5 頻出インテントにおける正答率の変化
図6 各インテントの問合せ数ならびに正答・誤答の変化
表1 メンテナンスメニュー一覧

これらのメンテナンスは会話ログを参照して行われるが,図7に示すビジュアライゼーションツールも有効であった.図中にある点は,一つひとつの質問であり,色の異なる質問が間違ったインテントに引き寄せられているのか,またどのインテントが他のインテントと近いところに位置しており,誤回答を起こしやすいのか確認することができる.

図7 NLC ビジュアライゼーションツール

会話ログやビジュアライゼーションツールを使ってのメンテナンス作業は,Watsonの担当者が担っている.機械学習という言葉がAIの分野で使われるが,メンテナンス作業は人力である.Watsonで使われるテクノロジや自然文解釈のディープラーニングの詳細は割愛するが,ここでいう機械学習とは,自然文を解釈するアルゴリズムをコンピュータ自ら構築することであり,お客様と会話をすることで勝手に機械が学習し,賢くなっていくものではない.学習データを追加したり,入れ替えたりすることは人が行うのである.もちろん回答後に取得しているお客様満足度のアンケートを使って自動的に修正するプログラムを作ることは可能だが,アンケートの精度問題から機械学習には限界がある.よって,正しく回答することを目的にしている本サービスは人によって制御しているのである.人によるメンテナンスはコストの削減につながらないという意見もあるが,これらの作業は最小の人員で行われるため,電話でのコミュニケーションコストに比べると大幅にコスト削減は実現されている.

4.4.3 コンタクト数・比率ならびにコスト

2017年11月現在,このシステムでコミュニケーションしているお客様は1日あたり約500人になり,電話を含めた総コンタクトの約15%を占めるまでになった.特に定期便の変更シナリオの導入以降は利用者数が大幅に伸びている.正答率が低い段階では,積極的にチャットサービスに誘導することを控えていたが,一定の品質を担保できるようになり,チャットサービスの露出を増やしている.コストに関しては,利用者拡大に伴い,1件あたりのコストは減少しており,2017年10月現在で,平均的な電話でのハンドルコスト(CPC:Cost Per Call)に比べて約40%の削減に成功している.ランニングコストに占めるAPI利用料は非常に少なく,メンテナンス要員の占める割合が大きい.つまり利用者が拡大できれば,チャットサービスによるCPCは大幅に下げることが実現でき,電話からチャットへのシフトがコンシューマーコンタクトのコスト削減に寄与することは明らかである.この新しいサービスの導入計画を立てる際に,イニシャルコストに対してのペイバック期間が重要であるかと思うが,電話の単価とチャットの単価を比較すれば,比較的短い期間で回収が可能であり,投資計画を作るのは比較的容易かと考える.

4.5 その他得られた知見

このように,2014年から導入を検討して導入後1年が経過し,準備ならびにメンテナンスのプロセスは理解いただけたと思う.ここでは,その他気づいた点をいくつか紹介することとする.

①会話を作る難しさ

チャットシステムでの会話構成は図4で示した通りであるが,会話を成立させるために,その他細かい点においても多くの時間を費やしたことも紹介したいと思う.Watsonは,教えたもの以外は回答できないと紹介した.つまり,お客様の状況に応じて柔軟に返答を調整することはできない.よってお客様がどのように質問してくるのか予測することが難しいので,代替案として会話を誘導する必要がある.いかにお客様の質問にスムーズに答えて新たな疑問を持たせないのか,回答文1つにしても,ダイアログの分岐を1つ作るにも細心の注意が必要であった.またLINEとWebではUIが異なるため,表現の仕方も微妙に異なる.マルチチャネルに対応するためには,それぞれのUI上の制約(表示文字数やテキストリンクの可否など)も加味しないといけないので多くの議論や判断が必要であった.

②コミュニケータの貴重な知識と課題

学習データ(想定質問文)と回答文,ならびにダイアログは,コミュニケータやスーパーバイザがFAQやトークスクリプトをベースに過去の知見を使って作成した(学習データは過去のチャットデータも一部使用).FAQやトークスクリプトが厳格に管理・運用されていれば,知見のない方でもQAやダイアログの設定は可能であるが,やはりコールセンタのスタッフの知見は重要であると感じた.①で示すように,会話を作る・想定することは難しく,実経験が必要であった.一方で新たな課題も見えた.日々電話で会話をしているスタッフがテキストでQAを作ることになったが,テキストで簡潔に要点を押さえて表現できないスタッフもいた.声での会話というあいまいさに隠れて,質問を的確に把握する,明確に回答するというスキルが不十分ということも経験した.

③企業担当者の在り方

プロジェクト開始から現在に至るまで,多くの社内関係者とチャットサービスに関して会議を持つことになった.その中で,多くの者が人工知能へ過剰な期待をしていた.また筆者自身も知識が少なかったため,プロジェクトを通して得られる知識のみならず,理解を深めるために,並行して自主学習をした.プロジェクトのスタート時点で,自身が多くの知識を持っていれば,プロジェクトをさらにスムーズに進めることができたのではないかと思う.人工知能は比較的新しい分野であるため,プロジェクト担当者は初期段階で理解を深めておく必要がある.

④消費者の変化

ネスレにおいては,お客様との対話はブランドを作ると定義して顧客満足を重視してきたが,チャットサービスはお客様の満足度を下げるのではないかと危惧していた.また,AIによるチャットサービスはお客様に選択されないのではないかという懸念もあった.しかしながら,実際は多くのお客様にご利用いただいており,またAIによる応答の不満の声はあまりない.これらの経験から感じることは,時代とともにお客様の感じ方も変化しているということである.比較的若い年代層には実際の人との会話が得意でなく,ストレスを感じる人もいると聞く.また現代ではスマートフォンが普及し,時間や場所にとらわれずテキストでコミュニケーションができるようになった.この消費者行動や思考の変化をキャッチし,新しいサービスを常に提供し続ける重要性を改めて認識した.

5. 今後の取り組み

5.1 会話の拡充

ここからは,2017年11月現在におけるシナリオの追加や精度向上以外の今後の展開について触れておきたい.まず短期的な会話の拡充として,アップセル・クロスセルなどのプロアクティブな提案を含めた拡充を計画している.いままではリアクティブ,つまり聞かれたことに対して回答することに注力してきたが,ある一定レベルの精度で回答ができるようになったので,プロアクティブな提案が可能と考える.またアフターセールスにおいても、お詫び回答に相手を気遣った文章を追加することも考えられる.中期的には,これらの会話の質を向上させたいと考えている.具体的にはシステム連携から得られる他の情報を取得・分析することで,お客様一人ひとりに合わせた回答の作成を行うパーソナライズ化の強化である.すでに定期便変更シナリオでパーソナライズ化はスタートしているが,プロアクティブな会話にパーソナライズの要素を組み込むことである.たとえば定期便のお客様に,過去の消費量から定期便離脱の恐れがあるお客様に別の商品を提案したり,マシンの故障・修理の経験のあるお客様に何かサービスを付与したりするなどである.このパーソナライズされたコンテンツを生成するために別のAI導入も視野にいれている.つまり最適な会話を分析・選択する工程にアナリティクスのAIを活用することである.

このような会話の拡充を計画しているが,斬新なアイディアを生み出しているわけではないことも補足しておきたい.元来電話のコミュニケータは同様なことを行っている.セールスチームにおいてはアップセル,クロスセルのリストを持って,会話の流れから購買履歴を参照したりしながら商品の提案を行ったりする.アフターセールスチームにおいても,過去のコンタクト履歴を見ながらお客様にあったお詫びの文言を調整したりする.またCRMを考えるチームでは,定期便離脱を避けるために,離脱する恐れのあるお客様属性を統計手法を駆使して特定したりする.これらの活動は,いままで人間によって行われきたことにすぎない.

5.2 チャネル拡大

テキストによるサービスは開始されたが,次にWatsonを活用した拡大機会は音声を使ったサービスである.音声からテキストに変換,またテキストを音声に変換するAPIを使用すれば,現在のWatsonを使用して音声サービスは可能である.2017年9月に開始した新サービス,ネスカフェコネクトではソニー社製タブレットとバリスタi[アイ]を使い,音声によるコミュニケーションが開始されている.ソニー社製のタブレットにはソニーのAIのみならずWatsonも接続されており,マシンのトラブルシューティングなどにも対応している.このように音声サービスはすでに開始されているが,やはり大きなインパクトを出すのは電話回線によるお客様対応である.音声認識に代表されるように多くの課題が存在するが,さまざまな解決手法を折り混ぜてWatsonを使った音声での顧客対応を行っていきたいと考える.

5.3 カスタマージャーニの最適化

Watsonによる会話の拡充とチャネルの拡大が成し得るものは何なのか.それはネスレのようなFMCG企業で成し得ることが難しかったカスタマージャーニ(顧客がどのように企業と接点を持ちブランド体験するのか)の最適化である.さまざまなタッチポイントから得られるお客様情報のすべてをデータベースに統合し,それぞれで最適なパーソナライズされたコミュニケーションを提供することである.家電量販店やカフェ ネスカフェにいるペッパー,チャットやLINE,SNSでのデジタルコミュニケーション,そしてコールセンタ.これらのタッチポイントでは,従来のダイレクトメールやWeb広告で行ってきた一方通行のパーソナライズではなく,双方向でのパーソナライズされたコミュニケーションが可能になるのである.

もちろん従来から双方向のパーソナライズされたコミュニケーションは行われてきた.しかし,人が対応することでムラやバラツキが発生して最適とはいえなかった.また,一つひとつの会話の見える化が難しく,コミュニケーションの価値を表現することが難しかったのである.近年急速に進むスマートフォンの普及,IoT・クラウド・AIの技術の進化がこのような問題を解消させ,カスタマージャーニの最適化を可能にすると予測する.

この大きな変化は,コールセンタ業界に大きな革命をもたらすと考える.コミュニケーションの価値が見直され,企業のマーケティング活動において重要な役割を担うようになる.筆者はこの変化をコミュニケーション産業という新しい時代の幕開けだと捉えている.

6. 新時代に向けて

最後に新時代の到来に向けて何を準備しないといけないのか考えておきたい.現在日本において直面している変化の一つは,世界中で最も進むといわれる超高齢化社会の到来である.2035年には65歳以上の人口が2010年の23%から33%に上昇する[10].確実に到来する労働人口の低下は,労働集約的なコールセンタ業界が直面する課題である.労働力を確保するために人件費の上昇が進み,コストセンタといわれるコンシューマーコンタクトのセクションはさらにコスト削減活動を強いられることになるだろう.一方,第1章でコミュニケータの職はAIに置き換わると予測されていると指摘した.つまりカスタマージャーニを最適化するという目的でなくともコスト削減という観点からAI化の動きは加速する.

それでは現在コールセンタに従事する人々は何をしないといけないないのか.かつて製造業で起こったファクトリーオートメーションの変化を例とすると,ラインの作業者は減っていったが,ラインを制御する人は必要になった.またプログラムを開発するIT技術者も必要となった.それではコールセンタではどうか.当然同様にIT技術者も必要となるが,コールセンタにもAIに知識を教えモニタする職は生まれる.そして,AIにはできない高度な会話を行うコミュニケータが必要とされてくる.トークスクリプト依存の汎用型コールセンタではなく,柔軟かつ適切に判断が必要とされる会話,たとえば2次対応するようなコミュニケータである.これらの新しい職務は真のコミュニケーションのプロフェッショナルが担っていくのである.

ネスレ日本ではこのような必要なスキルセットの変化に対応するため,本社コミュニケータの人事制度を2017年4月より一新し,新しい人材の確保,ならびに人材育成に力をいれている.本社コミュニケータはコミュニケーションの「研究員」として位置づけられ,これから起こり得る仕事内容の変化に対応できように取り組んでいる.

AIがもたらすコミュニケーション産業においては仕事内容が大きく変化していく.日本政府が打ちだす働き方改革.これに加えてコールセンタ業界において必要とされていることは仕事内容の変化であり,働く“内容”改革を推進していかなければならなのではないだろうか.

7. おわりに

本文では,AIの進化がコールセンタ業界に大きな影響を与えていることを紹介し,ネスレ日本のチャットサービスの導入事例を詳細まで紹介した.導入から1年が経ち,期待できる成果も出すことができたが,今後の拡張を考えるとまだスタートラインに立ったところという見方もできる.コミュニケーション分野において,今後多くの可能性を秘めているということである.これからAIを検討・導入していく企業もあろうかと思うが,本文が何かの一助になることを願うとともに,コミュニケーションのイノベーションが今後の豊かな社会作りに貢献できることを期待している.

参考文献
  • 1)松尾 豊:人工知能は人間を超えるか,KADOKAWA (2015).
  • 2)樋口晋也,城塚音也:AI人工知能,東洋経済新報社 (2017).
  • 3)Frey, B. Carl., OsborneA, M.:The Future of Employment:How Susceptuble are Jobs to Computerisation?, Oxford Martin Programme (2013).
  • 4)浅川直輝:チャットボットの波は日本にも,アスクルは6.5人分の省人化,オルツや富士通も参入,日経コンピュータ,http://itpro.nikkeibp.co.jp/atcl/column/14/346926/052300534/?rt=nocnt(2017年11月15日現在)
  • 5)月刊コールセンタージャパン編集部:コールセンター白書2017,リックテレコム (2017).
  • 6)Philip, K.,高岡浩三:マーケティングのすゝめ,中央公論新社 (2016).
  • 7)坂本雅志:CRMの基本, 日本実業出版社 (2014).
  • 8)ジョン・A・グッドマン(著),畑中伸介(翻訳): Customer Experience 3.0,東洋経済新報社 (2016).
  • 9)加藤希尊:The Customer Journey,宣伝会議 (2016).
  • 10)内閣府:平成29年版高齢社会白書,内閣府 (2017).
野崎善教(非会員)Yoshinori.Nozaki@jp.nestle.com

ネスレ日本(株)コンシューマーリレーションズ部.バーミンガム大学MBA卒,外資系IT企業にてマーケティング,コールセンタビジネスを経験し,2013年より現職.数値化によるマネジメント,ヒューマンビッグデータを活用した品質向上施策など,従来のコールセンタマネジメントを見直すだけでなく,SNS,VOC,AIなどの領域に注力し,マーケティング視点でコミュニケーションの在り方を追究している.

採録決定:2018年1月6日
編集担当:鬼塚 真(大阪大学)

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