情報処理学会60年のあゆみ
第1編―学会60年のあゆみ
第1章 60年の軌跡

 

1.1 創立から50年の概略史

本会創立から50年の歴史は,最初の30年分の詳細が「情報処理学会30年のあゆみ」に,その概略と残り20年分の詳細が「情報処理学会50年のあゆみ」にまとめられている.原文は本会Webサイトにまとめられている.本節ではこれらの要約を基本に,一部加筆修正して2009年度までの本会概略史を記す.

1.1.1 1960年度以前

情報処理の第1回国際会議が1959年6月にパリで開催され,主催のユネスコは,以降,学会の国際的連合体が会議を主催するよう勧告した.そして,1960年1月に我が国を含む12カ国が参加する情報処理国際連合(International Federation of Information Processing Societies,IFIPS.後に改称しIFIP)が発足した.第1回国際会議準備委員の山下英男(東京大学教授)は,同会議に出席した和田弘(電気試験所電子部長)と相談し,我が国で情報処理の学会を新設することにした.本会は,事実上この両名により創設され,1960年3月1日に有志166名による発起人会が開催された.

1.1.2 1960~1969年度

本会設立総会を1960年4月22日に開催し,初代会長に山下が就任した.設立時は任意団体であったが,1963年12月に文部省の許可を得て社団法人となった.IFIPS加盟を目的とすることから,学会名は「情報処理学会」,会誌名は「情報処理」と決定した.当時は「情報」から「スパイ行為」,「処理」から「汚物処理」を連想する時代であり,反対論も多かったが,これを和田が押し切った.

設立当初は(社)日本電子工業振興協会の事務所を間借りし,職員に事務を頼み,理事会等のために会議室も使わせてもらった.最初の職員採用が1961年,初めて独立した事務所(10坪)を機械振興会館で借りたのは本会設立の6年半後であった.

1960年度末の正会員数はわずか820名,10年後の1969年度末でも3,584名であった.1965年に設けた学生会員は1969年度末で140名にすぎなかった.当初は経費の大半を賛助会員がまかない,ようやく1965年に個人会員の会費が上回るようになった.

本会創設の契機となったIFIP総会に,当初は,ついでのある人が出席していた.1967年に我が国の代表が理事に選ばれることになり,本会理事会が日本代表を指名することになった.最初の代表は後藤英一(東京大学教授)であった.

当初,会誌「情報処理」は隔月刊で解説記事と論文が並存した.記事は不足気味で,文献紹介などで穴を埋めた.1968年頃から論文数が増え始め,1970年1月に月刊とした.1962年から,著者が希望する論文を年10編程度選び,英文誌Information Processing in Japanとして発行した.その他の代表的出版物には1966年5月刊行の「電子計算機ハンドブック」があった.

第1回全国大会は,1960年11月17,18日に大手町の産経会館で開催し,発表29件,参加登録者243名であった.以降,大会を年1回開催した.1962年3月に4研究委員会(機械翻訳,ALGOL,COBOL,EDPS)が発足し,1963年9月には,それまで科学研究費の活動であったプログラミング・シンポジウムが加わった.代表的な講演会にはJ.P. Eckertの“Technical developments and future progress of digital computers”(大阪,1964年5月),ケンブリッジ大学M.V. Wilkes教授の“Multi-access computer system”(日経ホール,1968年4月)があった.

1960年代中頃にIBM/360が登場し,我が国の情報産業には苦難の時期であった.本会でも,会員数が伸びず,支出は増える一方であった.学会の経営体質が改善し,赤字から黒字に転じたのは,出川雄二郎(日本電気(株)専務取締役)が第4代会長を務めたときであった.初代会長の山下はこの結果に大いに感動し,会長を学界と産業界から交互に選ぶことが,その後の習慣となった.

1.1.3 1970~1979年度

正会員数は1970年度末の4,605名から1979年度末の13,821名へ,予算規模は同時期に3,555万円から2億円超に拡大した.方々の大学に情報系学科が設置されるようになった.半導体メモリと仮想記憶を採用したIBM/370が登場し,我が国のメーカもこれを追った.影響力はまだ限られていたが,マイクロプロセッサが登場し,アップル社やマイクロソフト社が生まれたのもこの時期であった.

文部省の科学研究費も情報分野に力を入れるようになった.1973~1975年の特定研究「広域大量情報の高次処理」と1976~1978年の「情報システムの形成過程と学術情報の組織化」では,大学研究者間の横の連絡が取られるようになり,学会の活動にも反映された.産業界向けには,国家プロジェクトとして「パターン情報処理システム」が1971年から8年計画で始まり,会誌の特集も組まれた.

1978年に季刊の欧文論文誌,1979年に会誌から独立した隔月刊の和文論文誌の発行を始めた.また,1970年には論文賞を設けた.掲載論文数は1970年の30編から1979年には94編に増加した.大会の発表件数も増加し,1970年の184件が1979年には506件に達した.1973年には調査研究運営委員会を設置し,「研究会運営細則」も定めた.1973年度は4研究会,5研究委員会が活動した.研究会はその後増加し,1979年には12に達した.一方,研究委員会の数は大きく変わらず,1979年に4であった.

当時の国力と規制のもとでは海外渡航も容易でなかったが,本会の国際化への意識は高く,IFIP Congressを我が国に招致する動きが1970年代初頭から具体化した.この時期の招致は成功しなかったが,副産物として,米国情報処理学会連合AFIPSのR.I. Tanaka会長の提案で,日米コンピュータ会議を1972年と1975年に東京で,1978年にサンフランシスコで開催した.このような国際会議の共同主催は,本会として初の経験であり,学会の総力をあげて取り組んだ.

1973年には,IFIP理事会において日本代表の後藤がCongress 80の東京誘致を提案した.オーストラリアも立候補し,1975年の理事会で東京とメルボルンの2会場開催が決まった.その後,日本側でいろいろな問題が生じ,陣容の再整備,会場・予算の変更などの紆余曲折はあったが,1977年秋には組織委員会を発足し,本格的な準備に入った.

1.1.4 1980~1989年度

1980年代には本会の規模がさらに拡大し,1980年度末に15,308名であった正会員数が,1989年度末には30,641名と倍増した.事務所も手狭となり,1986年7月には本部の事務所を機械振興会館から港区麻布台の保科ビルに移転した.

1980年代には,産業,行政,地域,個人生活などのあらゆる領域で情報化が進んだ.経営レベルでの情報システムへの関心が高まり,行政における情報化も進んだ.個人レベルでもパソコン,家庭用ゲーム機,ワープロなどが容易に購入できるようになった.ちょうど第2次AIブームの頃であり,第5世代コンピュータ・プロジェクトが国家プロジェクトとして推進された.研究者の間で電子メールが普及し,大学や企業がインターネットにつながり始めた.

1980年5月20日には20周年記念式典等を開催した.日本学術会議会長,文部省,通産省,郵政省,科学技術庁の4大臣の挨拶,永井道雄元文部大臣の記念講演などが行われた.

会誌では,20周年記念特集号を1980年5月,25周年記念特集号を1985年11月に発行し,ともに記念論文を掲載した.和文論文誌は1986年から月刊とし,総ページ数は1980年の514ページから1989年の1,662ページまで増加した.欧文論文誌は季刊を継続し,総ページ数は1980年の252ページから1989年の458ページまで増加したが,海外購読が少なく,投稿論文数の確保も容易でないなどの問題を抱えていた.

1980年5月の20周年記念全国大会は,一般講演が629件,参加登録者が1,690名で盛会をきわめた.これ以上増えると会場設営も困難なため,翌年から大会を年2回春と秋に開催し,発表の分散を図った.しかし,1981年には,一般講演が549件と568件,参加登録者が1,845名と1,951名となり,結局,合計するとほぼ倍増となった.その後は,1985年9月の25周年記念全国大会で一般講演が868件,参加登録者数が2,550名,1990年3月の30周年記念全国大会で一般公演が817件,参加登録者数が2,396名となった.1985年3月の第30回大会では,若手会員(学部卒業後10年未満)による優秀な論文発表を表彰する学術奨励賞を新設した.

1980年代には研究会活動も飛躍的に発展した.研究会の数は12から21に増加し,登録会員数は3,224名から約9,932名に約3倍増となった.82年の規則改定でIFIP/TC,WGおよびACM,IEEE CSのSIGをはじめとする他学会の研究会等との共催を可能とした.1987年には,研究会(シンポジウムを含む)発表論文のなかから特に優秀なものの発表者を表彰する研究賞(現在の山下記念研究賞)を新設した.1982年に調査研究運営委員会を,担当理事が1年交代で委員長を務める体制から,任期4年の委員長のもとで運営する体制に変更した.

1986年5月には,1950年代前半の黎明期に本会関連分野で活躍した7名の先覚者に対し,創立25周年記念特別功績賞を贈呈した.同時に,理事会特別承認により顕功賞を故人1名に贈った.1985年度からは功績賞の表彰も始めた.

1980年代には,関東地区を除く全国7地域(北海道,東北,中部,関西,中国,四国,九州)で本会の支部が活動する体制が整った.このうち,関西支部は1963年,東北支部は1972年に設立済みであったが,残りの支部を設立したのは1980年代である.

1980年10月には東京池袋のサンシャインシティでIFIP Congress 80の東京会場会議が開催された.本会20周年記念事業の主要行事で,永年の望みの実現でもあった.本会も相当な努力を注ぎ,東京での参加者は約2,264名(海外51カ国717名),開会式には皇太子ご夫妻にご臨席賜り,記念切手も発行された.

1982年9月にはソフトウェア工学国際会議(ICSE)を開催し,参加者1,299名(海外25カ国177名)で成功裡に終わった.ACM SIGSOFT,IEEE Computer SocietyおよびNational Bureau of Standardsとの共催であり,本会がIFIP,AFIPS以外の国際会議を開催するのは初めてであった.以降,IFIP,AFIPS以外の学会との共催による国際会議もさかんに行うようになった.ACMおよびIEEE Computer Society(IEEE CS)とは80年代前半にAssociate Societyの契約を交わし,密接な関係を持つようになった.

1.1.5 1990~1999年度

本会の正会員数は1991年度まで増加を続け,1991年度末には31,164名に達したが,その後は減少に転じる.1999年度末の正会員数は24,777名で,特に産業界の会員の減少が目立った.一方,学生会員数は1992年度に初めて1,000名を突破し,その後も増減はあったが,1994~1999年度には1,000名台後半の水準を保った.予算規模は,1980年度の約2億6千万円から1989年度の約8億4千万円まで増加した.本部の事務所を,1992年10月には新宿区西新宿のエステック情報ビルに,そして1994年7月には港区芝浦の芝浦前川ビルに移転した.

1990年代は,バブル崩壊にともなう第一次平成不況,アジア金融危機に端を発する第二次平成不況が続いた時代であり,我が国では景気の悪化が著しかった.一方で,インターネットやWebが一般に普及し,産業構造も大きく変化し,1990年代末にはインターネット・バブルが膨らんだ.NTTドコモのi-modeサービスが始まり,アマゾン社やグーグル社が起業したのも1990年代である.この10年間の正会員数の減少は,不況の影響をまともに受け,IT発展の波には乗り切れなかった本会の姿を表している.

創立30周年記念事業の一環として,1990年10月には記念国際会議InfoJapan’90を東京新宿の京王プラザホテルで開催した.Information Technology Harmonizing with Societyを主題とし,参加者数は28カ国から約1,300名に達した.

会誌は30周年特集号を1990年5月に発行し,記念論文を掲載した.1998年4月号からは編集長体制による出版に移行した.これは,短期で交代する理事が編集委員長を務める体制から,情報技術に造詣が深い第一人者を編集長に招き,長期的視点で会誌編集を指導する体制への移行であり,現在まで続いている.会誌関係の表彰としては1991年にBest Author賞,1999年にはBest Editor賞を設け,これらが2001年まで続いた.

従来の論文誌に加え,研究会が編集する研究会論文誌(トランザクション)の発行が1998年に始まった.本会関連分野の拡大にともなう価値の多様化に対応するもので,1999年度には3誌を発行した.逆に,海外購読が少ないなどの問題を抱えていた欧文論文誌は1993年から休刊とし,基幹論文誌(のちのジャーナル)に和文と英文の論文を混載する体制に移行した.会員数が減少に転じた10年であったが,論文誌の総ページ数は,1990年の2,243ページから1999年の4,916ページへと大幅に増加した.基幹論文誌では,論文数増加に対応するため,4グループに分けて論文審査等を行う体制に1993年から移行した.また,査読迅速化のため,メタレビューア制度を1997年に導入した.

1990年代には刊行物編集の電子化も進んだ.会誌では,デスクトップパブリッシング(DTP)の利用を1993年に会告から始め,1998年に全面デジタル化を達成した.論文誌ではLaTeXによる投稿を1993年に開始し,1999年には査読の電子化を行った.

10年間に全国大会を毎年2回開催し,毎回,一般講演が1,000件程度,参加登録者が2,000名前後の規模であった.大会を魅力的なものとするために,前日のチュートリアル,研究会の協力によるシンポジウムなどの企画を試み,1996年には論文集のCD-ROM化も行った.1985年開始の学術奨励賞は1990年度から大会奨励賞と改名し,この受賞対象から外れる若手以外の発表に対して,大会優秀賞の表彰を1996年から始めた.

1990年代に,研究会は21から28まで増加した.1993年には研究会を3つのグループに分けて運営するグループ制を試み,その翌年にはグループを領域と改名して試行を続けた.そして,1996年に領域制を本格的にスタートした.この3領域体制が現在まで続いている.1994年度から研究賞は山下記念研究賞に改名した.

1999年にはフェローの称号を授与する制度を設けた.情報処理および情報通信等の分野で貢献した会員に対し,その貢献を称えるとともに,その貢献が広く周知されるよう社会的認知度を高めることを目的としたものである.1992年には,優秀な若手研究者を対象に,坂井記念特別賞を創設した.

1998年には従来から友好関係にあったIEEE CSと,会費の相互割引や会誌・論文誌の交換を含む新たな協力協定を調印した.その後,春の全国大会でIEEE CS会長の招待講演が定例となり,本会からも先方の記念イベントに出席するなど,交流が頻繁に行われた.また,インターネットに関する新しい国際会議の共同創設を本会から提案し,1998年に合意に達した(2001年に第1回目のSAINTが開催された).韓国のKIISEとも活発な交流が続き,1998年のKIISE創立25周年記念大会では本会会長が招待講演を行った.本会が加盟した国際団体としては,IFIPに続き,1996年には東南アジア・コンピュータ連合(SEARCC)が加わり,2007年まで続いた.

大学での情報処理教育の標準カリキュラムの検討などの教育に関する活動も積極的に行った.1991年3月には「大学等における情報処理教育のための調査研究報告書」(文部省委託調査)をとりまとめた.この標準カリキュラムはJ90という名称で,大学の情報系学部・学科の教育内容の検討に活用された.さらに,1997年には,コンピュータサイエンス教育カリキュラムJ97を発表した.1998年には,教育に関する活動の体制を見直し,従来の調査研究活動から理事会直属の活動に移した.そして,情報処理教育委員会,その下にはアクレディテーション委員会を設けた.1999年には初等中等教育委員会も設けた.

1.1.6 2000~2009年度

公益法人改革への対応として,2009年1月に本会は一般社団法人としての認可申請を行った(移行が完了したのは2010年7月).また,総会の定足数が「最低でも過半数」という公益法人に対する国の指導基準の適用厳格化に対応するために,2000年度から代表会員制度を導入し,民法上の社員を,従来の正会員と名誉会員全員から,選挙で選ばれた代表会員(当初は100名以上150名以内)に変更した.本部の事務所は,2004年3月に千代田区神田駿河台の化学会館に移転した.

2000年代も正会員の減少は止まらず,2000年度末の24,110名から2009年度末の17,590名まで減少が続いた.一方,学生会員数は2004年度に初めて2,000名を突破した.学生会員の優遇策として,2005年度から1研究会の登録を無料化したこともあり,2004~2009年度には2,000名台で推移した.

2000年代初頭にはインターネット・バブルが弾け,後半にはリーマンショックによる世界的な不況にも見舞われた.英語圏ではオフショア開発が進み,コンピュータサイエンス分野の人気が低迷した時期もあった.ダウンサイジングが続き,iPhoneが登場したのも2000年代である.フェイスブック社やツイッター社もこの時期に生まれている.

2000年には電子図書館を開設し,会誌・論文誌の電子購読が始まった.さらに2008年度には論文誌,2009年度には研究会の研究報告の紙媒体を廃止し,オンライン出版のみとした.また,論文誌ジャーナルでは投稿・査読の完全電子化のために,査読システムPRMSの利用を2007年に開始した.2000年には電子出版に対応した情報処理学会著作権規定を制定した.

2000年代になると,インターネットの普及にともない,国際的情報発信の必要性が強く認識されるようになった.検討の結果,2005年に科学技術振興機構(JST)のJ-Stage上に英文オンラインジャーナルIPSJ Digital Courier(DC)を創刊し,ジャーナルとトランザクション各誌に採録された英文論文を,DCに掲載する体制とした.さらに,DCを発展的に継承し,2008年4月には,1993年以降休刊状態であったJournal of Information Processing(JIP)を15年ぶりに英文誌として復刊した.トランザクションは2009年には8誌(うち3誌は英文誌)に達した.これら論文誌の総ページ数は10年間で増減し,2000年の4,371ページが最も少なく,2008年の7,062ページが最も多かった.

2001年までは全国大会を春と秋の年2回開催していたが,2002年からは秋の全国大会に代えて,電子情報通信学会システムソサイエティ(ISS)と共催で情報科学技術フォーラムFITを開催するようになった.従来の全国大会とは異なり,FITでは査読を一部に導入した.FITのプログラム編成では,研究会のセッションを設けるなど,研究会の貢献が大きくなった.FITでは,船井業績賞,船井ベストペーパー賞,FIT論文賞,FITヤングリサーチャー賞の表彰を行った.この10年間の全国大会とFITの規模は,どちらもおおむね一般講演が1,000件前後,参加登録者が2,000名前後であった.ただし,2010年3月の50周年記念全国大会は例外で,一般講演が1,822件に達し,参加登録者は7,150名とかつてない賑わいを見せた.

1991年以降の産業界の会員の大幅な減少に危機感を感じ,産業界の技術者の関心を引きつける方策についても検討した.2003年度の企画政策委員会で,本会は,学術と実務2つの焦点を持つ楕円構造の運営を行うべきとした.これを受け,実務家向けの活動推進のために,2004年度には技術応用運営委員会を設置し,技術応用フォーラムを立ち上げた.そして,ソフトウエアジャパン(SJ)などのイベント,実務家コミュニティとしてのITフォーラムの運営に取り組んだ.2004年以降.SJを年1回開催しており,初回の参加者364名のうち301名が産業界からの参加者であった.また,実務現場でのIT実践に基づく論文投稿を受け付けるデジタルプラクティスを2010年2月に創刊した.

産業界における顕著な業績を表彰するために2001年に業績賞を新設し,2007年に喜安記念業績賞がこれを継承した.優秀な若手研究者を表彰する坂井記念特別賞は,2002年から研究開発奨励賞,2005年からは長尾真記念特別賞が引き継いだ.

2000年代には研究会の数がさらに増え,2009年度末には35に達した.2005年度には,揺籃期にある研究グループを調査研究運営委員会が直接管理できるようにした.

大学での情報教育の標準カリキュラムの検討は2000年代にも続き,2006年には,情報専門学科カリキュラム標準J07を定めるプロジェクトを開始した.翌2007年には,経済産業省および文部科学省の協力のもと産官学共同で議論を行い,カリキュラム標準案を策定した.この案についてIEEE CSとも共同検討を行い,年度末にJ07を完成させた.

2000年代には,大学教育だけでなく,初等中等教育や社会人の生涯教育に関する活動も増加した.高等学校の教科「情報」が2003年に開始したこともあり,高等学校における情報教育のあり方の検討,教材の開発,教科の取り扱いについて検討し,文部省(2001年からは文部科学省)や大学入試センター等への提言を行った.社会人向けには2002年に生涯教育委員会を設け,十分な救育を受けられなかった企業の技術者への教育のあり方などを検討した.さらに2003年には資格制度委員会を設け,技術者の地位向上につながる資格制度の検討を始めた.そして,2007年にはITプロフェッショナル委員会を設け,2008年からはIPAの参画も得て,IPAが推進するITスキル標準(ITSS)に準拠した資格制度を新設し,本会が資格認証機関として機能するスキームの基本的考え方をまとめた.国際的な整合性のため,IFIPが主導する資格制度(IFIP IP3)の会合にも参加し,IEEE CSとも情報交換を行った.

2000年代には歴史遺産の保存と展示に関する試みも行った.創立40周年記念事業の一環として,2001年3月の記念全国大会では「情報技術のエポック展」を開催した.企業,大学等のご厚意により提供された歴史的資料50点余りを展示し,一般の方を含め2,400名余りを迎えた.これは,テレビニュースでも全国に紹介された.2001年度にはWebサイト上に映像と文字による仮想博物館「コンピュータ博物館」を開設し,さらに2008年から「情報処理技術遺産」および「分散コンピュータ博物館」の認定を開始した.前者は個々の歴史的資産実物の認定であり,後者は保管・展示施設の認定である.

2000年代には,情報処理と社会の関係が以前にも増して緊密となり,本会でも社会に対する提言を多く行うようになった.2000年の情報関連6学会による政府のIT戦略会議への提言,2002年の教科「情報」に関する大学入試センター等への提言などが代表的なものである.その後,2006年には社会提言検討WGを設置した.逆に,第三者的な見地から本会のあり方を考えるために,2008年には,アドバイザリーボードを設置した.

1.1.7 おわりに

本会60年の歴史の中で,前半の30年は,正会員数で2桁の拡大を経験した時期であり,その後の20年は,正会員数が半分近くまで縮小した時期であった.これは,我が国全体での右肩上がりの30年とバブル崩壊後の失われた20年にほぼ対応している.一方,情報処理にかかわる分野では,この間,ほぼ一貫して発展が続いてきた.本会でも,カバーする領域自体は広がり続け,研究会数の増加がこれを顕著に示している.同時に,情報技術の社会への浸透が続き,本会でも,一般社会とかかわる活動が今世紀に入ってから拡大傾向にある.我が国の情報分野の旗艦学会として,時代とともに変わりゆく役割を模索し,至らぬところはあるものの,その役割を全うした50年であった.

[脚注]

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