デジタルプラクティス Vol.8 No.4 (Oct. 2017)

アートの視点を取り入れた価値創出の可能性─ヤマハ(株)の新規事業開発の取組み事例から─

神谷 泰史1

1ヤマハ(株)/Copenhagen Institute of Interaction Design 

現在さまざまな分野の新規事業開発において,デザインプロセスによるイノベーション創出が行われている.一方で,人間中心のデザインプロセスでは,現行の社会システムにおける目前の課題を解決するソリューションに収束しがちである.そのため,文化や社会に影響を与え得る革新的なソリューションを創出するに至らないケースが多い.そこで,ヤマハ(株)における新規事業創出の取組みにおいて,課題解決型ではない価値創出のプラクティスとして,アートの視点を取り入れたさまざまな共創を行ったので,そこで得られた知見や今後の可能性を論じる.

1.はじめに

現在,さまざまな企業において,新しい価値創出の取組みが行われている.ことさら価値そのものについて議論されるようになったのは比較的近年のことであろう.従来は「技術=価値」として社会的に認知される傾向があり「価値」そのものを意識する必要性があまりなかったためである.

近年,人々の価値観が多様化する中で,多くの企業は潜在顧客に対してどのような価値を提供するべきかというところから議論を始める必要がある一方で,従来の開発プロセスとは異なる思考への切り替えの困難に直面している.

そこで,そのような状況にある企業の道標となったものがデザイン思考である.デザイン思考とは,デザイナが何かをデザインするときのプロセスを非デザイナでも理解し実施できるように体系化された思考法であり,この思考法のビジネスへの応用は1991年にIDEOのDavid Kelley(デビッド・ケリー)によって形作られたといわれている[1].今日までにさまざまな分野において改変や解釈が加えられ世界中で活用・応用されている.

従来は,作る対象が,たとえば車,テレビなどといった商品で分類されており,人々のニーズもそれに準じていたため,企業の開発業務では商品そのものに注目すればよかったのに対し,現在行われているデザイン思考による開発では「人間」を観察しインサイトを発見することで,課題設定を行い提供する価値を見出し,価値を提供するためのプロダクト・サービスを設計する.こういった設計手法を「人間中心設計(Human Centered Design)(以下,HCD)」といい,今日の事業開発には必要な視点となってきている.

デザイン思考は非常に強力なマインドセットとして近年急速に普及し,企業の目指す方向が,市場中心という漠然としたところから,人間中心という特定の領域に対する課題解決を行うべきであるという認識への転換に大きく寄与している.

一方で,デザイン思考の理解を組織内で短期間に推進するために,デザイン思考で使用される手法だけを抜き出し企業内でマニュアル化し活用する例などがあり,正しく思考法が機能していないケースも散見される.また,デザインする対象が旧製品のアップデート型開発なのか新規事業開発なのかといった目的や,どういう組織で実施するのかなどを考慮し,状況に合わせて活用の戦略を変えていくのが肝要である.

デザイン思考はこのように人に注目することにより「課題解決のための思考法」として強力に機能するものの,万能というわけではない.近年,ポスト・デザイン思考ともいえる考え方がさまざまなところから提案され,試みられているが,これは,デザイン思考で解決するのが適切ではないものがあるということを裏付けている.試みられている新たなアプローチの一つに,デザインと対比される概念としてのアートを用いたアプローチがある.

アートは,作家が自身のフィルタを通して社会の動向を読み取り解釈し,作品という形で世の中に提案されたものであり,作品自体がしばしば問いを生み出すことがある.

たとえば,長谷川愛の(Im)possible Babyという作品では,同性同士の間の子供を遺伝学的に合成しCGとして構成するという作品であるが,その過程には科学的に証明されていないミッシング・リンクが存在する.科学では現時点でこの壁を超えることができないが,このミッシング・リンクを創造力で補完して一つの答えを導き出し作品として世に提示することで,人々に強烈な問いを生み出す.その問いが社会,ひいては産業に影響を与える可能性があることは容易に想像できる.また,近年の身近な例では,3次元形状へのプロジェクションマッピングのメディア・アートにおける実践例が,後年になって産業に応用されるという例が見られる.

このようにアートには,社会の動きを敏感に察知し,先んじて作品という形で世の中に問題を投げかける機能がある.この「問題提起」の視点がビジネス創出において従来とは異なる軸の価値を生み出すアプローチになり得るのではないかという期待から「アート」が注目されている[2][3].特に,デザイン思考と対比する形で,「問題提起ための思考法」としてアートシンキング(アート思考)という概念が,複数個所で同時多発的に提案されはじめている[4]☆1

形而上学的な意味でのアートとデザインの両者を隔てる壁は本質的にはないと筆者は考えるが,この議論においては,John Maeda(ジョン・マエダ氏)の「デザイン」「アート」の違いについての過去の発言☆2を基にし,ビジネスの上での「デザイン」の機能は課題解決でありその対義語としての「アート」の機能は問題提起である,と定義する.

本稿では,社外のアーティスト・クリエイタとの共創で生み出された提案をきっかけとすることで,課題解決型ではない新たな価値創出を行うことができるのではないかという仮説のもと,ヤマハ(株)において実施した事例を紹介する.

2.イノベーション創出におけるポスト・デザイン思考の役割

デザイン思考は,今日多くの企業で採用されいてる課題解決のための基本的な思考法であるが,その普及の背景には,イノベーションの必要性がある.

イノベーションとは,Joseph Alois Schumpeter(ヨーゼフ・シュンペーター)によれば[5]「新結合」による新機軸の実現であるが,21世紀の価値観が多様化した時代の企業活動においては,重要なキーワードとして日常的に見聞きする.

特に,経済学者のClayton M. Christensen(クレイトン・クリステンセン)の提唱する破壊的イノベーション[6]というべき非連続の価値を考える際には,人々の困りごとの解決の視点が重要であるといわれている.そのため,HCDの観点で人間をつぶさに観察し,その人にとっての困りごと(=課題)の解決を目指すことがイノベーションにつながる,という基本的な考え方が現在のデザイン思考普及の背景に存在する.

デザイン思考で用いられるプロセスは,実践者や研究者によって考え方が若干異なっているものの基本的には共通している.ここでは一例としてスタンフォード大学d.schoolが提唱するデザイン思考の5ステップを基にして説明する.

デザイン思考の5ステップは「共感」,「定義」,「創造」,「プロトタイプ」,「テスト」から構成される.

デザイン思考では,まず人を観察し「共感」することからインサイトを発見し,解決すべき課題の「定義」を行い,課題を解決するアイディアを「創造」し,それを速やかに「プロトタイプ」して形にし,アイディアを「テスト」し,本当に目的を達成できそうかどうかを評価し,必要な場合は課題の再定義を行い,一連の流れを素早く繰り返し,最終的に定義した課題を解決する価値を提供するソリューションにまとめる.

このようなプロセスを経ることで,人の気持ちに共感し,潜在欲求に寄り添ったソリューションの提案を行うことができるようになるため,従来では出てこなかった視点の提案が生み出される傾向にあるものの,提案ソリューションが小さな課題解決になりやすく,結果として大きなビジネスに結びつかないケースも多い.このことから,企業においてデザイン思考を一度は採用したものの,企業内での評価が上がらずデザイン思考の運用の是非が問われる場合も存在する.

ここでは,価値創出のアプローチとしてデザイン思考が機能しない可能性がある2つの例を示す.それは,価値が課題解決に基づかない場合,および未知の価値の創出を行う場合である.

1. 課題解決が価値につながらない場合

デザイン思考により課題解決をすることで人々の困りごとは解決され,生活はより便利になってはいるものの,それが本質的に価値となっているかどうかは議論の余地がある.

ヤマハ(株)が製造している楽器はその一例である.たとえば,ギターという楽器がある.ギターはボディとネックに張られた6本の弦を弾くことで演奏できるが,曲を演奏するためにはコード(和音)の知識やフォームを覚えるというプロセスを長い時間をかけて行う必要があり,また,フォームの難易度の高さから挫折するユーザも多い.

そこで,たとえばデザイン思考の思考法でギターの課題解決を行い,苦しい練習をしなくても弾けるギターであったり,身体に負担のかからない弾きやすいギターが提案された場合,挫折するユーザは減る可能性はあるが,それがギターとしての価値につながるかどうかは疑わしい.少なくとも,デザイン思考の思考プロセスでは,楽器の物理的制約や演奏に至るまでの困難が存在して初めて生まれる価値創出のための課題設定は困難であると思われる.

2. 未知のものを生み出す場合

これは1点目とも関連するが,主に破壊的イノベーションの創出に関係する部分である.非連続の価値の創出の際には,デザイン思考がうまく活用できない可能性がある.ヤマハ(株)の商品でTENORI-ONという商品がある.これは,16×16のLEDスイッチ・マトリクスから構成されたインタフェースの,光が音になる楽器である.TENORI-ONは,従来の電子楽器とはまるで異なる操作体系の楽器であり,ユーザの課題を基にして生み出されたものではない.

実際,この楽器はメディアアーティストの岩井俊雄氏の発案で生まれたものであり,同氏の社会洞察と直感から生み出された価値をもとに,ヤマハ(株)がともに商品化したものである.TENORI-ONが発表されたとき,未知の価値であったこの楽器は世の中に驚きを持って受け入れられ,世界中の電子音楽の領域のアーティストが強烈に支持をするという結果となった.

これらの例のように,デザイン思考で捕捉できない可能性のある価値の領域が存在する.

理解を促すためデザイン思考とアート思考の違いを以下のように簡略化して説明する.デザイン思考によってもたらされる価値は「!」で表現されるように,人々が直面する課題を解決することによって即座に享受でき,かつ説明可能な価値である.一方で,アート思考によってもたらされる価値は「?!」で表現されるように,問題提起を含んでいるために「?」を誘発し,その時点では価値として認識されないが,その後に時間差で「!」に気づくような遅効性の価値である.また,その価値は「なんか分からないけどいい」というような説明できない価値であることがある(図1).

図1 デザイン思考とアート思考の概念

筆者はこのような「?!」から生み出される価値がイノベーション創出に繋がる可能性があると考え,アートの視点による価値創出を提案した.また,「感動を・ともに・創る」というコーポレート・スローガンを持つヤマハ(株)においてこのような取組みをアーティスト・クリエイタとともに行っていくことは妥当であると考えられた.

次章からアートの視点を用いたヤマハ(株)の新規事業開発における価値創出の取組みを紹介する.まず,アートの視点を取り入れることを発案する直接のきっかけとなった社内の新価値創出活動Start-up Sketchingを紹介し,この取組みの中で発見した課題を解決するために提案し実施したPlay-a-thon,インキュベーション・プログラム,YouFab Global Creative Awardsヤマハ賞の紹介を行う.

3.ヤマハ(株)におけるアートの視点を取り入れた価値創出の取組み事例

3.1 Start-up Sketching

3.1.1 狙いと概要

ヤマハ(株)社内において2013年から実施している社内の新規価値創出を目的とした取組み“Start-up Sketching”を紹介する.Start-up Sketchingは,2013年当時ヤマハ(株)内で新価値創出を専門に行う部門が存在していなかったため,筆者が必要性を感じ独自に推進し,その後に正式な社内の取組みとなったヤマハ(株)における社員発の活動の一つである(図2).

図2 Start-up Sketchingの取組み

この取組みの主旨は,「“Allヤマハ”の視点での新規価値商品・事業の種の創出と事業化の推進を行う」とし,以下の3点に注意して実施した.

1. 多様性

新しい事業を考えるために,特定の既存事業部門をベースとして考えるのではなく,さまざまな部門から異なる専門性の多様な人材を集めること.

2. 新価値の創出

従来事業部門が提供してきた価値の外側を探索する作業を行うという宣言を行い,既存事業部と衝突しないよう配慮すること.

3. 事業化の推進

大企業における新規事業実施の際に,既存事業部門のリソースを有効活用できない事例が数多くあるため,この取組みによって生み出されたものは原則この組織において事業化の推進まで行うこと.

また,この取組みは既存事業の枠組み外のオルタナティブな組織であることから新規のプロセスを活用できる機会となったため,デザイン思考を採用した.また,デザイン思考の採用は,分野が異なる複数部門の社員の間の共通言語としても機能した.

3.1.2 内容と結果

Start-up Sketchingは3カ月単位で実施し,各活動回ごとに検討テーマとメンバを設定した.活動参加者は3カ月の期間中に事業アイディアをワーキングプロトタイプを含む形で事業提案することが求められる.

取組みの成果としては,2013年から2016年までの期間において,30案の事業提案が生み出され,そのうち4案は現在進行系で事業化の推進が行われている.また,3カ月間の取組みに参加した社員からの活動終了時のアンケートにおいては,80%以上の社員が,5段階評価の最高値である「ぜひまた参加したい」に回答しており,デザイン思考による価値創出の体験が参加社員の満足度に繋がり,また,業務へのフィードバックへつながっているようである.

この取組みを通して,以下の気づきを得た.

1. 参加社員の業務への自信をもたらすこと

社内では,従来よりブレインストーミングとして,初期アイディアを考える部門横断の取組みはあったものの,ユーザ観察に基づきプロトタイピングを行い事業提案を行うという一連のプロセスを経験できる取組みが存在していなかったため,デザイン思考を用いた本取組みは参加社員に高い満足度と業務における自信をもたらした.

2. アイディアに偏りが生じること

社員だけによる取組みでは,たとえばユーザ観察の結果を読み解く際,およびアイディア創出の際に,社内の現組織体制や現事業領域における実現性を前提とする傾向が強く,課題の発見やアイディア創出に一定の傾向がでてしまう.

3. 課題解決に固執しがちになること

デザイン思考による課題解決の視点によるアイディア創出では,すでに世の中に提案された顕在化した価値を改善するような小さな提案が多くなる傾向がある.

2., 3.の課題を解決する方法として,Start-up Sketchingの取組みを拡張し,社外のクリエイタと共創するための枠組みとなる取組みPlay-a-thonを発案し実施した.

3.2 Play-a-thon

3.2.1 狙いと概要

Play-a-thonは,Start-up Sketchingにおける課題の解決の試行としてハッカソン形式のイベントという形で実施された.Play-a-thonは,Play+Marathonの造語であり,ハッカソンやメイカソンに倣い命名した.この名称を使った目的は,実施当時に数多く運営されていたハッカソンやメイカソンが,短期間でモノを作る(Hack, Make)ことに着眼しており,イベント終了後の成果物の継続や事業化までを考慮しない傾向があったため,Play(演奏する)という言葉を用い,モノを作るのがゴールではなく,作った後のことまでを参加者に想起させる意図があった.

Play-a-thonは「演奏をリ・デザインする」をテーマとして,2014年3月と11月の2度実施した.1回目は(株)ロフトワークの主催,ヤマハ(株)の協賛という座組で2日間の日程で実施し,2回目は(株)ロフトワーク,Engadget 日本版,情報科学芸術大学院大学の三者の主催,ヤマハ(株)の協賛という形で4日間の日程で実施した(図3).

図3 Play-a-thonの様子

ヤマハ(株)としての実施の目的は,新たな価値創出に寄与する社外のクリエイタを発見しイベント後も共創の取り組みを継続すること,ヤマハ(株)が提供するヤマハ(株)内で開発した技術のAPIを社外クリエイタの観点で利用してもらい技術の応用範囲を広げる着想を得ることであった.

イベントにおいて,参加者は参加者同士でチームを編成し,イベント期間中にアイディア創出とプロトタイピングを行い,イベント終了時にライブ演奏という形で成果の発表を行う.イベント中におけるアイディアの創出はデザイン思考で用いるプロセスを一部採用し,さらにアイディアの新規性を上げるための実験として,ヤマハ(株)が選定したクリエイタに各チームに参加してもらった.また,API利用に関してのアドバイス等を行うためヤマハ(株)の技術者も参加させた.

3.2.2  内容と結果

第1回目のPlay-a-thonでは一般参加者18名とクリエイタ5名が参加し,5チームに分かれ最終的にすべてのチームがライブ演奏という形で発表するに至った.

1回目の成果の一つとしてLuminouStepという靴の踏み込み動作を検出し音とLEDによる光の提示を行うスマートシューズのアイディアが提案された.この提案はイベント終了後も,チーム主務者の菊川裕也氏を中心に開発を継続し,同氏が2014年10月に(株)no new folk studioとして起業し,Indiegogoでのクラウドファンディングを経て,その後Orpheとして商品化された.一方で,ヤマハ(株)としては,第1回目のPlay-a-thon終了後の継続に関して,共創の仕組み作りおよび契約等アライアンスの組み方についての法務の準備が整っておらず,Orpheに対して明確な関与ができなかったという課題があった.

上記1回目における課題を解決するため,2回目のPlay-a-thon実施においては,以下の2つの解決策を盛り込んだ.

1. Play-a-thon参加申し込み時点で参加者に対して,成果物の権利の取扱についての内容を盛り込んだ参加同意書の作成,およびイベント後に提案を継続するかどうかをチーム内で合意形成し確認するための「終了後の確認書」を用意した.

2. Play-a-thon終了後に,継続希望チームに対してインキュベーション・プログラムを提供し,商品化に向けて必要なビジネス開発および商品開発のノウハウをヤマハ(株)および社外有識者によって提供する.

また,併せて,将来的にヤマハ(株)と組むことをイメージさせるため,イベントの冒頭に参加者に対して静岡県磐田市のヤマハ(株)の管楽器工場の見学を提供した.

2回目の実施では一般参加者20名,クリエイタ6名が参加し,6チームに分かれ作業を行い,最終的にEngadget日本版が主催するEngadget Fes 2014 Winterにおいてライブ演奏という形で発表を行うことができた.Play-a-thon終了後に参加全チームに上記「終了後の確認書」の提出を行ってもらい,意向を判断した上で,インキュベーション・プログラムへ進むチームの選定を行った.

3.3 インキュベーション・プログラム

3.3.1 狙いと概要

インキュベーション・プログラムは,Play-a-thonにおいてクリエイタを含むさまざまな経歴を持つ参加者によって生み出され提案された事業アイディアに対して,ヤマハ社内外の有識者のビジネス開発・製品開発に関する知見を参加者に提供することによりサポートするプログラムで,2015年1月から3月の3カ月の期間において実施した.本プログラムは,(株)ロフトワークの協力のもと,プログラムの設計・実施を行った.

2回目のPlay-a-thonの参加チームのうち3チームが本プログラムへの参加を希望し,ヤマハ社内にて応募チームの事業実現の意向の度合いをふまえ最終的に2チームを採択し,インキュベーション・プログラムの提供を行った.

3.3.2 内容と結果

インキュベーション・プログラムは,3カ月の期間中,隔週に1度参加者を招集し,各領域の専門家から事業開発に関するレクチャーを提供し,レクチャーがない週についてはヤマハ(株)の商品開発を担当する社員が技術・デザインに関してサポートを行った.

3カ月のインキュベーションプログラムの成果は,FabCafe Tokyoが企画する「つくる」をテーマにしたネットワーキング&プレゼンテーションイベント“Fab Meetup vol.16”において2015年3月31日に発表を行い,外部からのフィードバックを得た.

現時点において,インキュベーション・プログラムを経て事業立ち上げに至った提案はないものの,提案コンセプトのブラッシュアップを行ったことで,参加者に事業化をより意識させることはできた.また、プログラム終了後に参加チームが独自に海外の展示会への出展を行い,そこでクラウドファンディングサイト出品への足掛かりを作り,その過程でヤマハ(株)が協力を行うなどの関係を構築することができたため,この実験の目的の一部は達せられたものと考えられる.

一方で,取組みを通して以下の課題に気づいた.

1. 参加者の目的感・レベル感とヤマハ(株)の企業としての目的感・レベル感が一致しない.特にビジネス規模や品質についての考え方は当然ながら異なっており,相互理解が必要であると感じる.

2. 金銭的な投資を実施できなかったため,大きなステップアップに繋がらなかった.プログラム参加を通して,提案コンセプトは具体化し提案の質は上がったものの,開発のスピードやプロトタイプの精度に関しては目を見張る進展がなかった.

3. プログラムにおいて,デザイン思考をもとにしたサポートを行ったため,期間中に議論された価値が不明確なアイディアや論理的に説明できないアイディアに関しては採用されない傾向にあった.このことが結果として社会にインパクトを与え得る新規性の高い価値を生み出せていなかった可能性がある.

4. 3カ月の期間で成果を出さねばならないというタイムプレッシャーをヤマハ(株)と参加者の双方が感じてしまい,提案をまとめることに終始してしまった.

上記の課題のうち,1., 2.に関しては,本稿とは別のテーマとなるためここでは触れない.ここでは,3., 4. における課題に対し,アートの視点を基に社会にインパクトを与え得る新しい価値を生み出すことを目的とした取組みとしてYouFab Global Creative Awardsヤマハ賞を発案し実施したので次項で述べる.

3.4  YouFab Global Creative Awards ヤマハ賞

3.4.1 狙いと概要

YouFab Global Creative Awards(以下,YouFab Awards)2016においてヤマハ賞(以下,YouFabヤマハ賞)を設置し,テーマに沿った作品の公募,評価,および受賞者との継続的なコラボレーションを実施した.

この取組みは,YouFab Awardsを運営するFabCafe Tokyoとの共同企画として実施した☆3.YouFab Awards は,2012年にスタートし,ディジタル工作機械を用いてつくられた新時代のものづくりを評価するグローバルアワードとして発展してきた.昨年2016年実施のYouFab Awardsで5回目となる.YouFab Awardsとコラボレーションを行った主な理由は以下の通りである.

1. YouFab Awardsはデザイナだけでなく,エンジニア,スタートアップ,アーティストなどの幅広い属性の参加者が集まるグローバルなコンペティションであること.

2. 参加者は机上のアイディアだけではなく,すでに形にした作品を応募する必要があること.

3. Fab (Fablication)が特別なことではなくなってきている昨今,YouFab Awards 2016では従来のFabの定義を拡大し,ディジタルとフィジカルを横断し,結合する創造性 = Fab(ファブ)と,定義を新たにしたこと.これはまた,ヤマハ(株)が行う創造的な価値創出の企業ミッションともよく合致すると考えられたため,これに共感したこと.

以上の理由から,特別賞としてYouFabヤマハ賞の設置に至った.

YouFab AwardsおよびYouFab ヤマハ賞では2016年8月から10月の期間に作品を公募し,12月に審査,2017年2月に受賞者の発表を行った.受賞者とヤマハ(株)は,受賞後にプロジェクトチームを編成し,受賞作品のコンセプトを用いて継続的に価値創出を行った.

3.4.2 内容と結果

ヤマハ賞では「エモーションのスイッチ」という独自のテーマを設定し,このテーマに合致する作品の公募を行った.作品の応募者にはヤマハ賞への応募にあたりエモーションのスイッチの解釈を記載してもらった.YouFabヤマハ賞の実施にあたっては,提案された作品をそのまま商品にするのではなく,コンセプトをもとに,ヤマハ(株)とともに新たな価値創出を始める必要があったため,価値の原石となるような,見る人の思考と視野を広げる作品を公募するように注意した.こういったヤマハ(株)側の意図を正確に伝えるため,国内外のFabCafeネットワークにおいて事前に実施する説明会において筆者が直接意図の説明を行い,また,国内においては,アーティスト・デザイナ・研究者を交えて「エモーションのスイッチ」というテーマを深掘りする内容のトーク・ワークショップのイベントを2回実施し,参加希望者に意図の理解とインスピレーションを得るきっかけを与えるように努めた.

その結果として,応募期間中(8月から10月末)の3カ月で,世界27カ国から147作品がエントリーした(YouFab Awards 2016全体では世界31カ国196作品).

審査プロセスは慎重に行われた.問題提起の視点を含み,なおかつ企業として着地点を見出せるコンセプトの片鱗が見えるものを選ぶ必要があった.厳正な審査の結果選ばれたのが『OTON GLASS』という,視覚的な文字情報を音声に変換することで,文字を読むことが困難な方の「読む」行為をサポートするスマートグラスだった.視点と同一位置にあるカメラで撮影した文字を,文字認識技術でテキストデータに変換,音声として読み上げることで,ユーザは文字情報を理解することができるというもので,この作品の発案自体は,課題解決の視点から生まれたものではあるが,「視覚と聴覚のミックスによる新たな体験とそれがもたらす心の動き」に新規性を感じたため,ヤマハ賞に選定した.このコンセプト「視覚と聴覚のミックスによる新たな体験とそれがもたらす心の動き」を基にしてヤマハ(株)社員とOTON GLASSチームが共同で発案した『emoglass(エモグラス)』のプロトタイプを2017年3月8日から19日の期間で渋谷ヒカリエで開催した『YouFab受賞作品展示会』にて展示し,多くの来場者から好評を得た(図4).emoglassは「視覚的な意味や形が音にかわる」ルーペ状の装置である.音はエモーションに作用しやすいため,視覚情報がエモーションを持ったら世の中はどのように感じられるだろうか,という問題提起の機能を持つプロトタイプである☆4

図4 渋谷ヒカリエにおける展示会の様子

この取組みを通して,元々のアイディアが持つ社会課題の解決に対して,視点を変えることでこういう価値が存在するのではないか,という問いを提示するようなプロトタイプの開発を行うことができ,また,展示会において来場者がそのプロトタイプの発信する問いから価値を見出し得るという手応えを得ることができた.今後はより本格的に新しい価値創造のためのインキュベーション・開発を行う予定である.

3.5 アートの視点を取り入れた取組み事例のまとめ

以上の取組みで実施した内容を以下にまとめる.

Start-up Sketchingの実施において,デザイン思考を用い,社内のさまざまな部門からの多様な参加者が共創をすることで,従来のトップダウン方式の商品企画では生まれ得なかった提案が創出された.一方で,多様性を確保してもなお,社内での取組みにおいては無意識のバイアスによってアイディアの方向性が固着されること,デザイン思考を用いることで,課題解決によってもたらされる価値が提案されがちになるという課題があることを発見した.

この課題を解決するため,社外のさまざまな属性の参加者およびクリエイタとの共創を行うPlay-a-thonを実施し,Orpheをはじめとした社内では生まれ得ない多様なアイディアが生み出された.一方で,クリエイタ・アーティストの参与がアドバイザという立ち位置であったため,アイディアの発案を積極的,主体的に行うことができず,問題提起の視点を含むアイディアは生まれなかったように思われる.

また,これに続くインキュベーションプログラムにおいては,デザイン思考を用いて提案コンセプトのブラッシュアップのサポートを行ったことで,提案の質を上げ具体化させることができたものの,社内Start-up Sketchingの取組みにおける課題同様小さな提案になってしまう傾向があり,社会にインパクトを与え得る提案には至らなかった.

これらの取組みを通して必要であると確認された,多様性の確保,社外提案者との継続した関係性の構築,課題解決ではない新しい価値創出のためアートの視点の取り込み,の3点を同時に行うためYouFabヤマハ賞の設置を行った.

YouFabヤマハ賞では,当初,問題提起の視点を持つ作品を選出しそのコンセプトをもとにした商品・事業の提案を行うということを想定していたが,結果的に,文字を読むことが困難な方の「読む」行為をサポートするという課題解決を意図した作品であるOTON GLASSをヤマハ賞に選出し,この作品から問題提起の視点を見出し,それを体現するプロトタイプemoglassを制作した.審査の過程では,当然問題提起の視点を持つ作品の応募も数多くあったが,関係者間でYouFabヤマハ賞の企画の段階から企画意図を共有し,問いの在り方の議論を深めることができた結果,受賞作品から問いを引き出すことでヤマハ(株)にとってより意義のある問いになり得るという結論に至った.

4. アートの視点を取り入れた価値創出の今後の展望

以上の取組みを通じ,アートの視点を取り入れ,従来とは異なる価値創出の可能性の手応えを得た.

社内で実施したStart-up Sketchingでは,デザイン思考を用いることで一定の成果を得られることが確認できたものの,課題解決が価値にならないケースや未知の価値を創出するケースにおいては異なるアプローチが必要であることを実感し,アートの視点の取り込み方の模索を開始した.

アートの視点の取り込みのアプローチとして,Play-a-thon, インキュベーション・プログラムで実験したようにアーティストやクリエイタを含むさまざまな属性の人々が,初期段階から共に事業提案を行っていくという方法と,YouFabヤマハ賞で実験したようにアーティストやクリエイタの提案に対して企業の立場から問題提起を伴う要素を発見しそれを膨らませていくという方法の2つを試行した.

結果として,前者のようにアーティスト・クリエイタを取組みのアドバイザとして参加させるのではなく,後者のようにアーティスト・クリエイタが自主的に作品として提案したものを企業が受け取り,コンセプトを再解釈するプロセスを経る方が,企業としての新規価値創出という観点では,より意義がある結果を生み出す可能性があることが確認できた.

これらの取組みを通して,アートが持つ問題提起の視点を取り込むことで,デザイン思考のアプローチとは異なる価値創出の可能性を実感することができた.

とはいえ,アーティストおよびアートの視点の関与による問題提起の視点の有効性については,まだまだ明確に述べるだけの事例が足りていないと思われる.たとえば,アーティストを外部から企業にかかわらせるのか,社内に取り込むのか,さまざまなアプローチの事例はあるもののそれぞれに課題がある[7].YouFabヤマハ賞の事例のように,関係者間に「問題提起」の視点をインストールするアプローチは,アートの視点を介在させるアプローチの一つの事例となったと考えているが,いずれにせよ,既存の開発プロセスに融合するためには仕組みが必要であると考えられる.

ところで筆者は現在ヤマハ(株)を休職し,インタラクション・デザインを専門とする機関であるCopenhagen Institute of Interaction Design(以下,CIID)に留学中である.CIIDでは, People Centered Design (以下,PCD)というデザインプロセスを採用している.PCDにおいてもHCDと同様にやはり人々が中心になることには変わりはない.しかしながらPCDでは課題の解決だけではなく課題の定義にも重きを置いており,アートの視点による問題提起をはじめとしたポスト・デザイン思考の考え方によって取り組む課題を定義し直すことが新しい価値の創出においては有効となり得るということを示唆している.

本稿で紹介した事例を通じ,企業活動にアートの視点を導入するためには,アーティストやアートの視点を介在させるための構造化が必要であると感じられた.そのため,アートの視点を加えた価値創出のデザイン手法を「アートインタラクション・デザイン」と定義し,今後,アートの視点を導入し価値創出を行うデザインプロセスの事例の創出と研究を行っていこうと考えている.

謝辞 これらの取組みにおいて支援いただきました(株)ロフトワーク,Engadget 日本版,情報科学芸術大学院大学に深謝いたします.

参考文献
  • 1) Brown, T. : The Making of a Design Thinker, Metropolis Oct., pp.60 (2009).
  • 2) 八重樫文,後藤 智:アーティスティック・インターベンション研究に関する現状と課題の検討,経営学第53巻第6号 (2015).
  • 3) Oxman, N. : The Age of Entanglement, JoDS : Journal of Design and Science, MIT PRESS, Inaugural Edition (2016).
  • 4) Amy, W. : Art Thinking:How to Carve Out Creative Space in a World of Schedules, Budgets, and Bosses, HarperBusiness (2016).
  • 5) ヨーゼフ・シュンペーター著,塩野谷祐一・東畑精一・中山伊知郎訳: 経済発展の理論,岩波書店.
  • 6) クレイトン・クリステンセン著,玉田俊平太監修,伊豆原弓訳:イノベーションのジレンマ─技術革新が巨大企業を滅ぼすとき,翔泳社.
  • 7) 安西洋之,八重樫文: デザインの次に来るもの,CrossMedia Publishing (2017).
神谷 泰史(非会員)t.kamiya@edu.ciid.dk

2006年北海道大学大学院工学研究科複合情報学専攻修了.2006年ヤマハ(株)入社.新規事業開発部VAグループ.2017年よりCopenhagen Institute of Interaction Designへ留学.専門はSound Art,Interaction Design.

採録決定:2017年7月24日
編集担当:細野 繁(日本電気(株))