擬似身体反応を用いた感情体験の誘発

吉田 成朗

東京大学大学院情報理工学系研究科知能機械情報学専攻 助教

[背景]感情や,感情の生起を端緒とする主観的な体験の誘発
[問題]自身や他者の身体が反応したかのような擬似的な刺激
[貢献]「感情のVR」ともいえるVRの新たな分野の開拓
 
 これまでの認知心理学・感情心理学の研究から,人間の感情と身体は不可分の関係にあることが分かってきた.たとえば,涙を流している自分に気付くことで悲しみを覚えたり,他者の笑顔に釣られて幸せな気持ちになったりと,自身や他者の身体に無意識的に起きる反応が,感情や,感情の生起を端緒とする主観的な体験(感情体験)の誘発につながる.一方で,バーチャルリアリティ(VR)は,コンピュータで作り出した擬似的な体験を,あたかも本物の体験であるかのように感じさせることを可能にしてきた.それでもなお,VRにおいて感情を直接的に作り出す手段はない.しかし,感情が生起したときの身体の状態を擬似的に再現することで,感情喚起にまつわる人間の無意識的な処理過程に作用して,任意の感情を誘発する技術を構築できるはずである.

 本研究では,このような人間の感情の生起にまつわる心理学的知見をもとに,工学的な手段によって感情を喚起する「感情喚起モデル」を考案し,感情や感情体験を誘発する方法論を提案した.そして,感情喚起モデルを具体化する「感情喚起装置」の制作を行った.感情の変化と関連する身体反応を工学的な実装をもって擬似的に再現し,それを自身の身体反応や他者から発せられる感情表出であるかのように提示することで,感情だけでなく,直接的な提示が難しい主観的な体験や無意識的な行動変容を引き起こすことが可能であることを確認した.加えて,これらの結果をもとに,感情喚起装置の設計論について議論した.本研究を通して,感情という心理的な側面の体験を可能にする手法の構築だけでなく,「感情のVR」ともいえるVRの新しい分野を開拓する一つの基礎的手法を確立できたと考える.

 また,本研究では,人間の主観的な状態の推定と喚起を制御論的に扱う領域を,"Cybernetic Minds"と定義した.近年では,心拍や表情などの身体に起きる反応をリアルタイムに計測し,ストレスや感情といった人間の内部情報を推定することが可能となってきている.あわせて,本研究で紹介した,身体と感情の関連性から発想した「感情喚起装置」が実用化されることで,心と機械とが協調して目的とする感情体験を達成する,そんな未来が訪れることを予想する.昨今では,Post-truthと呼ばれる現実性の伴わない感情的な言説によって社会情勢が変化する様相や,素直な感情を表出することを良しとせず,他者に対して常に笑顔で接することを強いられる感情労働が社会的な問題になっている.感情に作用する技術は,冷静な判断ができるように心の状態を落ち着けたり,心の内と違った感情を表出することを支援したりする術を,人々に与えることができると考える.

 

(2017年5月23日受付)
取得年月日:2017年3月
学位種別:博士(学際情報学)
大学:東京大学



推薦文
:(エンタテインメントコンピューティング研究会)


本論文は,「泣くから悲しい」という感情の生起にまつわる心理学の知見をもとに, 擬似的に生成した身体反応を自身や他者のものであるように錯覚させることで,感情や,感情の生起を端緒とする主観的な体験を誘発する方法論を提案・評価している.「感情のVR」ともいえる新たな分野を開拓するものとして推薦に値する.


著者からの一言


本研究の遂行を長きに渡り支えてくださった指導教官,ならびに,議論に付き合ってくださった研究室のスタッフ・学生の方々に感謝申し上げます.これまでの経験を活かして,今後の研究活動を実りあるものにしてきたいと思います.